第47話 変わってしまったもの、変わらないもの
「……うっ……くっ……あっ……」
「落ち着いて……お父さんは……楽にしていればいいんだから……あたしに……全部任せて」
耳にかかる娘の吐息が、艶かしく、こそばゆい。
「でっ……でもっ……俺……もう……我慢できねえよ……」
「大丈夫だってば……あと少し……あと少し我慢するだけでいいの……」
「でも……俺……」
また……背中を冷たい感触が駆け巡る。ヒヤッとしたその冷たさに、自然と身体全体が震えてしまう。
「だから――――我慢しなさいって言ってるでしょ!」
「いだぁっ――!?」
背中が、娘が手に取っていたタオルでバシッ! っと強打されてしまう。
「あっ! ごめん……お父さんがいちいち変な声出すから、イライラしちゃって……」
「だって……タオル冷てえんだもん……」
俺は上半身のパジャマを脱がされた後、寝起きの汗を拭き取るために、娘が持って来ていた洗面器の水で濡らした小さなタオルで、身体を拭かれていた。
「せっかくあたしが身体拭いてあげてるんだから、文句言わない」
「はは……確かに、娘に身体拭かれるってのは、ちょっとばっかし恥ずかしいけど……嬉しいもんだな」
「まったく……見た目若くなってるのに、オッサンみたいなこと言わないでよね」
呆れ気味ながらも、白鐘は俺の体拭きを再開する。
「しょうがねえだろう? 若返ったって、中身がオッサンなのは変わらねえんだから――いだっ!」
「あれ? ちょっと強く擦りすぎたかな?」
「……いや、タオルの冷たさで、またちょっとブルってきちまっただけさ……」
実際はタオルの冷たさで、意識の外にあった全身の痛みが蘇ったためなのだが、なるべく娘に悟られぬようにと、ここは笑顔で耐える。
よくよく考えれば、炎で全身を火傷していたんだ。シャルエッテに眠ってる間も治療されてたのか、火傷の痕は見られないんだが、それでも三日間寝ただけじゃあ、さすがに痛みまでは取れなかったみたいだ。
「ていうか……三日も寝ちまってたのか。……白鐘は、ケガとか大丈夫なのか? シャルエッテや姉貴は?」
「……あたしはとりあえず大丈夫よ。少しだけケガはしてたけど、シャルちゃんのおかげですっかり治った。叔母さまも、本当に炎で焼かれたのかってくらい、元気してる。……ていうか、お父さんは人の心配の前に、まずは三日も寝込んでた自分を心配しましょう」
「はは、ごもっとも……ていうか、俺のこと、すっかりお父さんって呼んでくれてるけど……」
「……別に、なんて呼んだってあたしの勝手でしょ? ここには、あたしとお父さんしかいないんだから……」
「おっ、おう……」
聞いたこっちが、思わず恥ずかしくなってしまった。多分白鐘も、言ってて恥ずかしくなったのか、顔が赤くなっている。
「…………」「…………」
しばらく互いに無言になってしまい、部屋に響くは、俺の背中を拭いているタオルの、絹擦れの音のみ。
……ひじょうーに気まずい。
何か話題はないかと、俺は先程進ちゃんが口にしていた、とある言葉を思い出した。
「そういや、加賀宮の奴は転校ってことになったのか? それに、仮也って執事の方は?」
「ああ……うん。あの後、加賀宮君はご両親を説得して、一家揃って警察に捕まったって。……今回の件は魔法使いも絡んでいたから、なるべく公にならないよう情報操作がされたって、叔母さまが言ってた。……あの魔法使いの人は、ちょっと事情が複雑だから、後でお父さんから叔母さまに直接訊いてみて」
「そうか……まっ、とりあえずは一件落着ってところか。……加賀宮の人生はこれから、キッツイものになってくんだろうな……」
「あれ? もしかしてお父さん、加賀宮君が心配?」
「……んなわけねえだろ。むしろ、今後顔を見る事がないかと思うと清々するね」
「そう言うと思った。……あたしも、加賀宮君のことを許せるかって言われたら、まだわからないけど……逮捕された様子を見に行った叔母さまが言うには、憑き物が落ちたみたいな顔をしてたって言ってた。それを聞いて、なんか安心しちゃったの……」
心情的には許せない。それでも、彼が囚われていた何かから解放されたことに、安堵している――っといったニュアンスを、娘の言葉から感じ取れた。
「……俺は、あの時も言ったが、アイツを許す事なんて絶対にねえ。それぐらいの事を、アイツはしでかしちまったんだ。……だがよ、お前は俺みたいに、すぐに結論なんて出さなくてもいいんだぞ?」
「えっ……?」
「すぐに誰かを許す許さないなんて判断できるほど、人の心ってのは単純なもんじゃねえ。その時に抱いた感情なんて、時間が経ちゃあいくらでも変わるもんさ。だから……アイツが檻から出たその時に、お前がアイツに対してどうするかは、その時までにうんっと悩んで、答えを決めりゃあいいんじゃねえかな? ……俺の感情に引きずられるこたぁねえ。白鐘の感情は、白鐘だけのものなんだからさ」
娘の手がしばらく止まった。耳元にかかった吐息から、彼女がどんな表情をしているかはなんとなく想像がつくが、ここはあえて振り向かないでおく。
「…………そうだよね……うん……その時まであたし、めいっぱい考えるよ」
彼女は納得したようにそう返事し、止まっていた手を再び動かす。
「……それにしても、こうして見ると……本当にお父さんの身体って、小さいわりには筋肉しっかりしてるよね」
「小さいは余計だぁ! ……まあ、正直あんまり、お前には見せたくなかったんだけどよ……」
「お父さんが、元不良チームのリーダーなのがバレるから?」
娘の口から出た言葉に驚いて、俺は思わずベッドの上から飛び退いてしまった。
「なっ……何でそれを……?」
「……お父さんが、加賀宮くんに雇われてた不良の人たちと戦ってた時に、誰かがそう言ってたじゃん?」
「あー……そういやそうでしたねー……」
確かに、加賀宮が雇っていた不良どもの誰かが、無駄に俺の不良時代を解説していやがった気がする。……たくっ、面倒なこと話しやがっ――、
「――まっ、一番驚いたのは、お父さんが実はポエマーだったことだけどねぇ」
「…………は? ポエマー?」
「――月明かりに照らされた青髪のその少女は、まるで暗い海から沈み落ちてきた人魚のようだった――」
「っ――!?」
「いやぁ……きょうびこんなロマンチックなポエム、恥ずかしくてなかなか考え付かないもんだよ? まさか、お父さんにそんな趣味があったなんて――」
「待て待て待て待て待て待てぇ! 何でそこまで知ってんだよ!?」
「……えへへ、叔母さまから全部聞いちゃった」
てへぺろ、っと舌を出す娘に対し、俺は目の前が真っ暗になるような感覚に陥った。
「あっ、でも叔母さまのことは責めないでね? あたしが強引に聞き出したようなもんだし。それに……ちゃんと話してくれなかったお父さんも悪いんだよ?」
「うぅ……」
そう言われてしまっては、俺も返す言葉がなかった。
「……悪かった。俺自身、あんまり自慢できるような過去じゃねえし、お前にとって俺は、どこにでもいる普通の父親でいてほしかったんだ。……まっ、そもそも俺の過去を話したところで、どうせ信じてくれなかっただろ?」
「そりゃあねえ……普段ダメダメなお父さんが、まさか不良界のトップに立っていただなんて……実際に戦っていたお父さんを見ていなかったら、信じてなかったかもね」
「そこまで言うか!?」
俺はガックシと、ベッドに崩れ落ちてしまう。
「……まっ、でも――」
白鐘が俺を見下ろしながら、穏やかに微笑みながら、
「お父さんの昔の話を聞けて、あたしは嬉しかったよ? あたしの知らないお父さんの一面がまだまだあるんだって、それがわかって本当に嬉しかった。……それに、ずっと聞きたかったお母さんの話を聞けたのも……嬉しかった」
「白鐘……」
――わかってはいたはずだ。子供が亡くなった母親の話を知りたがるなど、当たり前の事なんだと。
――でも、話せなかった。母親の死の原因を知れば、娘は自分を責めるのではないのかと、そうなってしまうのが怖かった……。そうならないように、俺は自分の事も含めて、娘に母親の事を話すことができなかった。
「……大丈夫だよ、お父さん。お父さんやお母さんの昔の話を聞いても、あたしは変わらない。黒澤諏方はあたしのお父さんで、黒澤白鐘はお父さんの娘。その関係に変わりはない。そうでしょ、お父さん?」
「っ……」
はにかんだ笑みを見せる娘の姿に、俺は彼女の成長を感じ取った。
ずっとずっと子供だと思っていたが、彼女はちゃんと自分の頭で考え、自分の意思で判断できるようになっていた。
考えてみれば当たり前のことだ。子供の成長というのは、親が思っている以上に早いものなのだと、わかってはいたはずだ。それでも――今はその事実が、俺にとっては何よりも嬉しい事だったんだ。
「――って、お父さん!? 何泣いてんのさ!?」
気づけば、俺の頬を、ほんの少しの涙が流れていた。
「っ……なんでもねえよっ……!」
決して、望んでた形でとは言い難かったが、それでも、娘が俺と母親の事を知れた事実に、ようやく肩の荷が下りたような気がした。
「わりぃわりぃ……。年取ると、涙もろくなっていけねえ」
「だからぁ、その見た目で年寄りぶられても、説得力ないってば」
気づけば、二人してクスクスと笑い合っていた。数日前までは、娘とまたこうして笑い合う日がこんなに早く来るなんて、思ってもみなかった。
「……すっかり、また笑えるようになったな、白鐘」
「えっ?」
当の本人は、どうやら自覚がなかったのか、ポカーンとなってしまっている。
「べっ! ……別に、笑ってなんかないし……」
彼女は慌てて、ムスっとした表情を作ってそっぽを向いてしまう――頬が赤らんでるので、照れてるのがバレバレなのが、また可愛いもんだ。
「コホン。えーと、それじゃあ……改めて言うのもなんだけどさ」
今度は俺が、照れ臭そうに頬を掻きながら、
「……突然、身体が若返ったり、学校に通う事になったり、魔法使いが居候する事になったり、そいつとは別の魔法使いとも戦う事になったり……いろいろとお互いドタバタしちまったし、これからも、わけのわかんねえ日常が待ってるかもしれねえけどさ……それでもずっと、俺の娘のままでいてくれるか、白鐘?」
正直、彼女がなんと返事するのか、少しばかりドキドキしていた。
白鐘は、一度ため息を吐くと、いつものようにクールな表情で、
「身体が若返って、性格や口調まで変わっちゃった本人が何言ってんの?」
「うぐっ、その返しは予想外……でも反論できねぇ……」
俺が落ち込んだ様子を見せると、彼女は再び、穏やかな笑みを浮かべて――、
「言ったでしょ? あたしは変わらないって……お父さんの娘である黒澤白鐘は、何があったって変わらないよ」
その答えを聞き、俺はホッと息をついて、娘に手を伸ばす。
「それじゃあ改めて……これからもよろしくな、白鐘」
白鐘は、戸惑いで少し間を置くも、差し出された俺の手をしっかりと握り返した。
「うん……よろしくね、お父さん」
それまでに抱いていた、互いのわだかまりが解けた事による安堵のためか、途端に激しい眠気に襲われる。
「わりぃ……もっかい、一眠りするわ」
「えっ? ちょっとお父さ――」
倒れこみ、何か柔らかいものが顔に当たった気がしたが、それを認識する前に意識は、再び眠りへと落ちてしまった。
○
「もう……身体も拭き途中なのに、いきなり娘の胸で眠るお父さんがいるもんですか……」
少女はそう悪態つきながらも、自身の胸の中で、無邪気に寝息を立てる父の身体をどかしはしなかった。
「……今日ぐらいは、サービスしてあげますか」
そう言って、彼女は若返った父親の、自身よりも長い銀色の髪を優しく撫で下ろす。
「助けてくれてありがとう……これからもよろしくね――パパ」
小さく呟く少女の顔には、父親を愛おしげに見つめる、少女の微笑みが浮かんでいた。




