第45話 その先を歩むための答え
「――パ、――パ」
「…………んっ」
――誰かが呼んでいる。
その声は、いつも聞いているはずなのに、どこか懐かしい響きで聴こえた。
誰かが上におぶさっている。薄目を開き、ぼやけた視界で、上に乗った誰かを確認する。
「パーパ! おきて! あそぼ!」
「しろ……がね……?」
俺のお腹の上に乗っていたのは、間違いなく俺の愛娘だ。だがおかしい。俺の娘はもう高校生だ。なのに、俺のお腹を精一杯揺すっている小さな少女は、まだ三~四才ほどに幼く見えた。
「どわあ!」
「キャ!?」
思わず上半身を飛び起こしてしまい、その上に乗っていた小っちゃい白鐘が転がり落ちる。幸い、どうやらソファの上で寝ていたらしく、後ろ回りで一回転した娘にケガはなさそうだった。それどころか、今の回転がお気に召したらしく、彼女の瞳が輝いている。
「もっかい! パパ、もっかい!」
せがむように娘は、俺の胸にジャンプしながら抱きついてきた。
「だっ、ダメだって! ケガしたらどうすんだ?」
「えー? だいじょうぶだよー」
子供特有の根拠のない自信に、俺は呆れのため息を吐く。
よく見れば俺の姿も、シャルエッテに若返らせられた歳よりも幾分か成長した後のようで、ちょうど白鐘の幼い頃によく着ていたスウェットを身に付けていた。
「とにかく、ダメなものはダメ……ていうか、なんでお前小っちゃくなってんの? もしかして、お前もシャルエッテに若返らせてもらったのか?」
「しゃしゅえってー? だれそれー?」
うっ……可愛い……。高校生になった白鐘ももちろん可愛いが、幼い頃の娘が改めてこんなにキュートだったとは……!
「でも……何でこんなことに……」
「もう、白鐘ちゃん。パパのおねんね、邪魔しちゃダメでしょ?」
聞こえるは――とても懐かしい女性の声。
「あっ! ママ!」
俺に抱きついていた娘が興奮気味に飛び降りて、子供らしいたどたどした走りで、背後の女性へと向かう。
「あなたも、お仕事でお疲れなのはわかっているけど、ビール飲んだ後にソファで寝てたら、風邪引くわよ」
呆れと穏やかさが入り混じったような、俺の知っている声と口調で、その女性は娘を抱きしめながらこちらを見下ろしていた。
「あお……い?」
間違いなかった。海に解けたような青色の髪と、少し幼げな顔立ちをしたこの女性は間違いなく、俺の妻である黒澤碧だった。
「……どうしたの? あたしの顔に何か付いてる?」
「あっ……いや……」
キョトンとした表情の妻を、俺はただ呆然と眺めることしかできなかった。
「これは……夢なのか?」
痛むわけではないが、それでも目の前の光景に当惑し、頭を抱えてしまう。
「もう……やっぱりお酒の呑みすぎよ。お水、飲んできなさい」
「……ああ、わかった」
俺は頭を抱えたまま、ふらふらとキッチンの方へと向かう。冷蔵庫を開け、ペットボトルの水をコップに流し込んで一気に飲み干す。まだ少し、頭はボーとしているが、それでも現状の整理のため、頭を必死に回転させる。
――こんな記憶は俺にはない。
妻は、娘を生んだと同時にこの世を去った。だから――妻が幼い娘を抱き上げることなど、ありえるはずがないんだ。
ならば――今目の前にある光景は、いったいなんだというのか……。
「ママー……ねむくなってきた……」
「……うん、今日はパパといっぱい遊んだものね。……いつもの子守唄歌ってあげるから、いい子におねむしようね?」
「……っ」
娘の頭をそっと撫でる妻の姿。
これがもし夢だというのなら、なんて残酷なものを見せやがるのか。だって、この光景は――。
「ねんね~ん、ころ~り~よ~。おこ~ろ~り~よ~。しろがねは~よいこだ~、ねんねし~な~」
「――っ!?」
思い出した……。
確かに、目の前の光景はありえるはずのないもの。だが――碧は妊娠中に、大きくなったお腹をさすりながら、同じ子守唄をよく歌っていた。
――叶わないかもしれないけど、いつかの予行演習のために――っと、毎日夜に彼女が欠かさず歌っていたのを思い出す。
――そうだ。この光景は、俺がいつか、こうなってほしいと願った景色そのものだ。
俺と碧と白鐘の三人で、平凡だけど、幸せな毎日を送りたいと、俺が願わずにいられなかった幻想だ。
――気づけば、俺は涙を流していた。
ああ――なんて幸せなんだろう。この幸せの先へと行けるなら、このまま夢を見続けるのも、悪くないのかもしれない……。
「……あなた、白鐘が眠ったわ。あなたも疲れてるだろうし、一緒にお部屋に――あなた?」
だけど――この夢の続きに、今の黒澤白鐘はいない。
俺は娘の背中を優しくさする妻に近寄り、彼女のおでこに口付けをする。
「っ――!? ……どうしたの? 今日はあなたも甘えんぼさんね」
そう言って優しげに微笑む妻の頭を撫で、今度は心地良さそうに眠っている娘のほっぺに軽くチューをする。
「……ありがとな、碧、白鐘。……いい夢が見れた。覚めるには惜しくなるぐらい、素敵な夢だった。でもな……こんな綺麗な夢を、諦められるぐらいには……俺も歳を取っちまった」
「…………」
妻は無言で、俺の目をまっすぐに見つめている。その先の答えを待っているかのように。
「……ずっと願っていたこの夢から覚めてでも、俺は……今を生きている白鐘のそばにいてあげたい。お前の分まで、あいつを守ってやりたい。……娘の隣で、一緒にこれからの人生を歩みたい。……だから――俺はこのまま進むよ、碧」
「…………」
妻は顔を伏せてしまう。
泣いているのだろうか。彼女は、娘を抱きしめたまま、その身体を震わせている。
「……でも……あなたは……後悔しているんじゃないの? ……だって、あなたはあまりにも、多くのものを失ったのよ! ……膝を折って絶望したって、それが許されるぐらいにいろんなものを失ったのよ。……なのに、なんであなたは、まだそんなに強くあろうとするの? あなたは本当に……自分の人生に後悔していないって、これからも後悔しないなんて言い切れるの!?」
「違う! 碧……俺はっ――」
声を張り上げようとしたところで、突然、周りの景色が暗闇に包まれる。
目の前にいた妻と娘も、闇に飲み込まれたように、姿を消してしまった。
「碧!? 白鐘!?」
叫ぶ。声は暗闇の中で。反響するほどに大きく響く。
「――っ!?」
そしてすぐさま、闇に覆われた世界が払われるかのように、眩しく光が輝いた。
「…………ここは」
光も消え、新たに広がった景色は、何もない地平線の荒野。吹きすさぶ風に流れるは、ほんの少しの砂粒のみ。
「…………この前見た……夢の続きか?」
先日、まだ若返る前の最後に見た夢の景色。
体は再び高校生の頃のものへと戻り、腰まで伸びた銀髪と、白い特攻服が風にたなびいている。
再度言うが、この場所に見覚えはない。だがそれでもなお、この場所には既視感を感じる。そしてすぐに、答えに辿りつく。
――ああ、ここは言うなれば、俺の心象風景だったのだと――。
あの頃の俺には何もなかった。ただ毎日喧嘩に明け暮れ、敗者の末路など気にかけることなく、間借り同然の家へと帰る。
ただそれだけ――ただそれだけの虚無の毎日。
――それが、ある日変わったのだと気づいたのは、いつの日からだろうか?
気づけば、共に戦う友ができた。俺を慕う仲間ができた。絶対に負けたくない戦友ができた。――自分の命を賭けてでも守りたいと思える、愛しい恋人ができた。
そして――今の俺には――、
「貴様はまだ――後悔しているのか? 黒澤諏方」
ふいに、背後から声がかかった。
振り向くと、ダークブルーのコートに身を包んだ長身の男が、こちらを見下ろすように立っていた。
「……蒼龍寺……葵司」
男は――俺の生涯においての、最大の目標だった。
交わした拳は、ただの一度だけ。しかもそれは、互いに望んだ形とは言い難く、最終的に決着も着かずに、男は死んでしまった。
その男が――俺が一番強いと認めた男が、目の前に立っている。そして、その男は問うた。――未だ、後悔しているのかと――。
「……ふぅ」
一度、深呼吸をする。そして、俺は拳を握り締め、俺よりも遥かに背の高い目の前の男を、まっすぐに見上げた。
「…………あったりめえだろ。この四十年、後悔ばかりの人生だった」
男は何も返事しない。表情は陰に隠れてよく見えなかった――いや、コイツのことだから、どうせいつも通りのすました顔をしているはずだ。
「……でもよ――」
――だから、俺は言葉を続ける。
「――じゃあ、俺の人生が無駄なものだったのか、何もなかったのか――なんて、悲観するつもりも全くねえ。だいたい、人間生きてりゃあ、後悔なんて数えるのもバカバカしくなるぐらいするもんさ。後悔して後悔して、しきった後に、どうすりゃよかったかを考えて、またやり直しゃいい。中には、取り返しの付かない後悔だってある。二度と取り戻せないものを失う事だってある。だから――俺もみんなも、必死になって毎日を生きてるんだ。それに――」
一人の少女の姿が頭に浮かぶ。同じ髪色をしたその少女の笑顔に、俺は何度も救われたことを思い出す。
「――後悔だらけだった人生の先に、俺は何よりも大切な子を得られた。あいつが生まれてくれたこの人生を、無駄なものだったなんて誰にも言わせねえ」
娘のことを口にすると、途端に気恥ずかしくなってしまい、照れ隠しに頬を掻いてしまう。
「知ってるか? 俺の娘、メッチャ可愛いんだぜ! 大きくなって、すっかり碧に似るようになってよ。……まっ、すぐに怒りっぽくなるのがたまに傷でさ……って、これもお前の妹と似てるな――ってか、考えてみれば、お前はあいつの叔父さんってことになるのか。……うわー、なんか複雑な気分だぜ」
照れ臭さから、思わず娘自慢をしてしまったが、彼からの反応はやはりなし。まっ、元来この男は、あまり感情を顔に出さないから、特に違和感はないのだが。
頭をポリポリと掻いた後、俺はもう一度まっすぐ、目の前の男を見上げる。
「……これからもよ、後悔するような事は多いかもしれない。……それでも、あいつだけは――黒澤白鐘だけは、何があっても、今度こそ守ってみせる。あいつを守れるように、あの頃よりももっと強くなってみせる。そしたらよ――」
右手の拳をまっすぐに、男に向けて突き出した。
「――あいつが大人になって、その後に俺が死んだら……あの時の続きを――俺たちの喧嘩の決着を、今度こそ着けようぜ!」
そう言い終えた後、男の――葵司の顔に光が当たり、ようやく彼の顔が見えた。
「…………ふん」
そっけなくそう返すと、彼の体を霞が覆うように、徐々に見えなくなっていく。去り際の彼の表情は、やっぱりすましたような笑みだった。
「……たくっ、生きてた頃は、一回も笑ったところを見せたことねえくせに、人の夢ん中で笑ってんじゃねえよ」
口ではそう言いつつ、俺は彼の体が消えるまで、ただじっと、いつか倒すべきライバルの姿を見送った。




