第42話 虐待
――目が覚めればいつも、蛍光灯の暗い光に照らされ、真っ白な壁で覆われた無機質な景色が広がっていた。
両手は天井から釣り下がった縄で拘束され、その体勢のまま何時間と放置され、肩はすでに痛みを通り越して、麻痺で感覚を失っていた。
上半身は裸、下半身には取ってつけたようなボロボロの短パン。幼い少年にしては痩せ細った裸体には、所々に痣や切り傷が刻まれており、彼のこの部屋での扱いの壮絶さを物語るようだった。
トン――、トン――。
低く響く足音――。『あの男』が階段から降りてくる音――。
『…………』
少し前までなら、聞くだけで悲鳴を上げかねないほどに戦慄した音。しかし、少年には最早、その音に恐怖する感覚すら失いかけていた。すでに少年の精神は、感情を失うほどに磨耗していたのだ。
『……いやはや、遅くなってすまなかったねぇ。少し仕事が立て込んでしまったね。ずっと一人っきりにさせてしまったけど、寂しくなかったかい?』
『…………』
部屋に入った小太りの男性の質問にも、少年は一切の反応を見せなかった。男性はそれを気にすることなく、ゆったりとした動作で少年の頬を優しく撫で上げる。
『ふふふ……やはり兄さんの子供の頃を見ているようだ。少年特有の、まだ男になる前のプニっとした肌。それに、君の母親と同じ綺麗な銀色の髪が見事に調和して、まるで一つの完成された芸術品だ。……君を引き取れた幸運を、僕は何よりも嬉しく感じるよ』
少年の耳元で、男が囁くように語る。それすらも、少年はなんら反応を見せなかった。
やがて頬をなぞるように触れていた手は、少年の首元へとゆっくり降ろされ、突然、彼の喉元を握り潰すかのように締め上げた。
『っ……!』
呼吸を阻まれ、少年の表情にようやく苦悶の色が映し出された。その表情に興奮を隠せず、男性の息が荒ぶる。
『さあ……今日もお勉強の時間だよ――す・が・た・ちゃん』
○
「……ぎゃく……たい……?」
椿の放った、あまりにも予想だにしていなかった単語に、白鐘の脳内が一瞬にして真っ白となった。シャルエッテも、その言葉の意味は把握していたのか、同じような表情で固まっている。
「……父方の叔父である黒澤剛三郎は、とある事業で成功を収め、莫大な財を築き上げていた」
なるべく感情を乗せないようにと、淡々とした口調で語る椿。
「容姿は決して整っていたとは言えなかったが、品行方正で、親族の間でも評判の高い男だった。だが……それはあくまで表の顔に過ぎないものだった。その裏の顔は……あまりに醜悪で、歪なものだった……」
一拍置かれる。感情的になるまいとするも、ここからの言葉を口にするには、彼女自身、覚悟の必要なものだった。
「……あの男、黒澤剛三郎は――幼い少年を痛めつけ、辱めることに快感を抱く、下劣で最低な男だったんだ」
「……っ!?」
二人の少女の顔が青ざめていく。
「……あの男の自宅には地下室があり、諏方が家にいる時は、常に地下に閉じ込められていた。そこで諏方は、毎日暴行を加えられ、ナイフによって身体にいくつもの切り傷を付けられた。……満足のいく食事はもちろん与えられず、時には性て――」
言いかけ、慌てて口を手で塞ぐ。ちらりと白鐘の方を見ると、彼女は吐き気を抑えるように、同じく口元を手で覆っていた。
「……すまなかった。娘である君には、余計な情報を口にするとこだった……ともかく、諏方は黒澤剛三郎に引き取られて以来、彼による凄惨な虐待の日々を送ることになった。学校には通わせてもらっていたらしいが、叔父の虐待による恐怖に、心を縛り付けられた諏方には、相談できる味方はいなかった」
そこまで語り、ようやく椿は、新しい煙草を取り出して火を点けた。
リビングにて聞こえる音は、煙を吐き出す息と、時計の針の音のみ。
「シロガネさん……」
うな垂れ、垂れ下がった銀髪で表情の見えない白鐘の手を、シャルエッテが強く握り締める。その手を、震えながら握り返すも、白鐘の口から言葉は出なかった。
「……肉体的にも精神的にも、いつ死んでもおかしくないほどに、諏方は追いつめられたが、彼はある信念を元に、決して折れることはなかった」
さすがにこれ以上、灰で山盛りになったテーブルの灰皿は使えず、椿はジャケットから携帯灰皿を取り出して、その中で煙草を擦り潰す。
「――転機が訪れたのは、諏方が中学に上がってからだった。成長した諏方の身体に興味が薄れ始めた剛三郎は、変わらず地下には閉じ込めつつも、暴行を加えたり、身体を縛り付けたりする回数は徐々に減っていった。そして諏方は、地下に閉じ込められている間、自らの肉体を鍛え始めたんだ」
「…………何のために?」
「――復讐さ。諏方は剛三郎に復讐するため、地下室にいる膨大な時間の中で、自身の肉体を強化していったんだ。最初の一年は、体力を付けることに専念し、以後は肉体を強靭にするためのトレーニングを続けた。その頃には剛三郎の事業も忙しくなり、諏方に構えなくなったのか、彼の肉体の変化に気づかれることはなかった。時折、暴行は加えられたものの、以前ほどの痛みを感じることもなくなった。むしろ、トレーニングの時の方が余程キツかったと、後に諏方は渇いた笑いを浮かべながら、私にそう語ったよ」
黒澤諏方の鍛えられた肉体の悲しき真実を知って、白鐘の心が締め付けられる。あの強さは、彼の憎しみの果てにあるものだったのだと――。
「だが……諏方の復讐が、成し遂げられることはなかった」
「――っ!? どうして!?」
身を乗り出す白鐘に、「落ち着け」っと手で制す椿。
「……黒澤諏方の中学時代の三年間は、全て肉体を鍛え上げることに捧げられた。そして高校に上がってしばらくして、剛三郎の暴力にも負けないくらいに鍛えられたと自信をつけた諏方は、高校生最初の大晦日、家に帰る回数の少なくなった剛三郎が、確実に自宅に帰るその夜に、襲撃することを決意した。しかし……その日家に訪れたのは剛三郎ではなく、数人の警察官だった。黒澤剛三郎はその日、警察に逮捕されていたんだ」
「っ……!? 逮捕……お父さんへの虐待でですか!?」
「……いや、彼が逮捕されたのは別件だっだ。あの男は個人事業主ではあったが、その裏では少年専門の売しゅ――いや……人身売買の斡旋が、彼の裏の仕事だったんだ」
「――っ!?」
再び言葉をなくす白鐘。隣にいたシャルエッテも、言葉の意味するところは理解せずとも、椿が口にするそのニュアンスだけで寒気を感じた。
「……当初は、諏方も商品の候補としていたらしいが、剛三郎本人が存外に気に入ってしまったらしく、売りには出されなかったようだ。これを不幸中の幸いと捉えるべきかは難しいところだが……。ともかく、剛三郎の裏事業が警察の捜査で明るみとなり、黒澤剛三郎は逮捕され、復讐を決行する直前にて、諏方は警察に保護されることとなった」
白鐘は一つ、大きく息を吐く。それは、父が殺したいほどに憎んでいたであろう男に復讐できなかったことによる悲嘆か、それとも復讐で手を血に染めなかったことによる安堵か、それは本人にもわからなかった。
「……その後、お父さんはどうなったんですか?」
「……警察に数日間保護された後、彼の身元は、私を育てていた母方の叔父が引き受けることになった。私もおおよその事態は叔父に聞かされつつも、数年ぶりに弟に会える事に、どうしても嬉しさの方が勝ってしまっていた。だが……私が再会した弟は、もう私の知っている彼ではなくなっていた……」
その時の光景を思い出し、震える両肩を握り締める椿。
「弟の眼には、光が宿っていなかった……。人が人として生きている証である灯が、彼の眼から失っていたんだ。身体は動かせる、呼吸もできる……でも、アイツの精神は……完膚なきまでに、あの男に殺されてしまっていたっ……!」
それは、普段おちゃらけていて、緊急時には沈着冷静に動ける彼女が、珍しく見せた慟哭だった。
「……そんな弟に対して、私は何をしたと思う?」
ふいに、椿の声調が変わる。
「放置――放っておいてしまったんだ……怖かったんだ……触れるだけで……声をかけるだけで、それは爆発してしまうのではないかと……怖くて……何もできなかったんだ……。笑えない話だ。工作員となるため、心身共に鍛え上げられた私が、弟の前では親を失った小鹿のように、ただ怯えて、何もできなかったのだからな」
その語らいは、まるで贖罪のようだった。数年ぶりに再会し、別人になった弟に、姉は手を差し伸べることもできず、むしろ突き放すように距離を置いた。この事に、七次椿は未だ後悔を抱いていた。
だからこそ――諏方とシャルエッテの邂逅は、椿にとってはまさに僥倖だった。シャルエッテの魔法によって諏方が若返ったことにより、椿は彼を学校に通わせることができた。何もできずに、ただ遠くから見つめることしかできなかった椿にとって、かつてと違う青春を歩ませることこそが、椿の弟への罪滅ぼしでもあったのだ。
「……すまない、少し感情的になってしまったな。……母方の叔父に引き取られた後、諏方は用意された自身の部屋に篭りきりとなった。私物はほとんどなく、その少ない荷物が入った、封をされたままのダンボール箱が隅に詰まれただけの殺風景な部屋は、諏方本人の心象風景をそのまま映し出したようだと、今でも覚えている。……でも、そうするしかなかった。優しい心をなくさなかったアイツは、せめて私たちにふいに手を出さぬようにと、自ら作り出した殻に閉じ篭るしかなかった。それぐらい、奴の精神は追いつめられ、爆発寸前だったんだ……」
覚悟はしていた――。それでも――話が進むたびに、白鐘の胸は痛くなるばかりだった。
幼い父が経験してきた人生は、子供が過ごすにはあまりにも壮絶で、凄惨な内容だった。そんな過去、父が娘に嬉々として語るはずがなかった。そんなことを知りもせず、父の過去を知りたいという自身の無責任さを、白鐘は腹立たしく感じた。
――果たして、父はどのような思いで、笑顔を絶やさずに娘に接していたのか。そして……私がそれを鬱陶しく感じていたことに、父はどんな思いを抱いていたのだろうか――それを想像するのが、今はたまらなく怖かった。
「……そして数ヶ月後、このままではいずれ爆発しかねないと懸念した叔父は、彼にとある高校に転校しないかと提案した」
「とある……高校?」
「ああ。白鐘ちゃん、桑扶市のことは知っているよね?」
「えっと……ここ周辺では一番都心に近くて栄えてる桑扶市ですよね? あたしも、たまに進ちゃんと一緒に遊びに行ってます」
「そうだ。でも桑扶市は、昔は多くの不良たちに支配されて荒れた時期があってね。そして、その中でも一際劣悪な環境だったと言われたのが不良校、桑扶高校だ。諏方はその学校に、二学年から転校することになる。そして――後に銀狼と称される伝説の不良、黒澤諏方の不良としての物語は、この学校の転校初日より、始まる事となった」