第41話 平穏な日々は突然に
「――まず始めに、白鐘ちゃん、君の祖母がロシア人であるという事ぐらいは知ってるかな?」
「はい……小さかった頃、あたしの髪色が何で銀色なのかをお父さんに訊いた時に、教えてもらいました」
「うむ。私と諏方はロシアとのハーフでね、穏やかで包容力のある日本人の父と、厳しいながらも優しいロシア人の母の間に生まれた。白鐘ちゃんや諏方の銀髪は母の遺伝でね、幼かった頃は、諏方は自分の髪色を恥ずかしがって、逆に私は諏方の髪色が羨ましくて、よく喧嘩をしていたものだよ。……だが、そういうところを除けば、我が家は極々普通の、どこにでもいるような一般的な家庭だった」
昔を懐かしむように、穏やかな声で、椿はゆっくりと過去を語る。
「今の若い状態の諏方からは想像しにくいだろうが、幼かった頃の弟は泣き虫でね、よく髪色を小学校のクラスメートにバカにされては、そのたびに私がすっ飛んで懲らしめたもんだ。でも、私が駆けつけるまでは、彼はいじめっ子相手に、一度たりとも引くことはなかった。涙で目を赤くしながらも、決して逃げることはなかったんだ。あいつは小さい頃から、そういう芯の強さは持っていた。あいつ営業職だろ? 物事に柔軟に対応しながらも、曲げられないところでは毅然と立ち向かう。そういうところを、会社では買われていたらしいぞ」
会社での話はあまり聞けない白鐘にとっては、父親のそういう一面を聞くのは、また新鮮な感覚であった。
「まっ、いくら物怖じしないとはいえ、出鱈目な場面で発揮するのも考え物ではあったけどね。よく好物の桃水を夜にがぶ飲みしては、翌朝布団に地図を描いて母親に叱られていたものだが、変わらず涙目でまっすぐに睨みつけるのはよくなかった。まあ、そのたびに影で私が笑っては、見つかって私も説教に巻き込まれたものだが――って、白鐘ちゃん?」
「あっ……いや、なんでも……」
なぜか気まずげに目線を逸らす姪っ子に、椿は首を傾げる。
「あっ、そうか! シロガネさんも確か、桃のお水が――」
「はい! シャルちゃんは黙ろうねっ!」
肩を思いっきし掴んで、続きを言わせまいとする白鐘。シャルエッテは「はぅぅ……」っと怯えた声で震える。
「……まあ、そうやって母親に怒られては、父親に慰められて、母の作る料理で一気に機嫌を直す。そんなドタバタながらも、平穏な毎日を家族で送っていた。……でも――」
椿の声が、暗くトーンダウンする。
「――当たり前のものだと思っていた平穏というのは、時として、何の前触れもなく崩れ去ってゆくものなんだ……」
和やかだった場の空気が、息することすらキツくなるほどに、重く苦しいものへと変質していく。
「…………交通事故だった。ある日の家族旅行で、浮かれていた一家が運転する車に突如、赤信号を突っ切ろうとしたトラックがぶつかったんだ」
淡々と語られた内容に、二人の少女は、共に顔を青ざめた。
「運転席にいた両親は、トラックに押し潰されて即死だった……。後部座席に座っていた私と諏方は、大怪我で意識を失って、数日間病院で生死をさまよっていたらしいが、奇跡的に一命は取り留めた」
最早、椿の声からは感情が見られない。
「……目が覚めてから、しばらくの記憶は曖昧だった。何が起きたのか、幼い子供の脳みそでは処理しきれず、ただ周りの大人たちが忙しなく動いているのを、呆然と眺めることしかできなかった。手術を受け、病院内で数日過ごした間も、両親が死んだという事実を受け入れることができなかった……。だがそれも、退院後に開かれた葬式で、それが現実なのだと、否が応にも受け入れざるを得なくなってしまった……」
白鐘は父から、祖父母はすでに他界していたとは聞いていたが、まさかそのような壮絶な経緯があったとは、想像すらしていなかった。
「……私は泣きに泣いた。おそらく、一生分の涙を流していたのだと思う。……不思議なことに、泣き虫だった諏方は泣いていなかったんだ。おそらく、その時点でも彼は、両親の死をまだ受け入れてなかったのだろう。それを受け入れるには、あいつはまだ幼すぎたんだ……」
自然と、煙草を握っていない方の拳を、椿は血がにじみ出そうなほどに握り締めていた。
「……葬式は淡々と行われた。父の会社や母の友人などが並んでいたが、普段見かけることのなかった親族も顔を出していた。どうやら、父と母は結婚を反対させられて、駆け落ち同然で、ほとんどの親族とは縁を切っていたらしい。そして葬式後……私と弟は初めて、大人の汚さに触れることになった」
「……誰が、お父さんと叔母さまを引き取るか……ですか?」
「……その通りだ。言ってしまえば、私と弟は、不肖を働かした二人の残した、負の財産だった。当然、親族たちは互いに私たちを押し付けあった。子供二人の前だというのに、連中は遠慮がなかった。……この歳になると、それも致し方のないことだと理解できてしてしまうのが、なんとも苦いものだね」
「…………」「…………」
二人は何も言えず、やりきれない表情を浮かべる。
「……すまない。今のは余計だったね。――ともかく、話は拗れにこじれ、果てには二人一緒に、施設行きという結論にもなりかけた。……まっ、後の事を考えれば、施設に行った方が幾分か幸せだったかもしれないがな……」
「……っ?」
ここに来て、含みのある言葉で濁す椿に、白鐘は違和感を抱く。
「……施設行きが決まりかけた時、二人の男性が、引き取りの立候補に上がった。母の兄に当たるロシア人の男性と、父の弟に当たる男性、つまりは二人の叔父が、姪と甥の養育の立候補となったんだ。そして、二人の話し合いの結果、叔父たちは共に、一人ずつ引き取ることが決まった」
「そんな! それじゃあ……お父さんと叔母さまは離ればなれに……」
「……もちろん、私も弟も最初は嫌がったさ。だが、まだ子供、しかも縁の切れたはずの親族の残留物に過ぎなかった私たちに、意見をすることなんて許されるはずもなかった。……そして、私は母の兄に、諏方は父の弟に、それぞれ引き取られる形となった」
まだ子供であった二人が、大人の都合に振り回され、離れて暮らさなければいけなくなることが、どれほどに壮絶なものだったのか。そう思うと、母親はいないながらも、父親に大切に育てられてきた自身の環境が、いかに恵まれたものなのかと、白鐘は痛感してしまう。
「――さて、ここから少しばかり、自分語りになってしまうことを先に謝っておこう。……私を引き取った母方の叔父の正体は、ロシアの公的組織に所属していた工作員だった。私を引き取った時にはすでに引退済みだったが、とある事情で、同じロシア人の奥さんと日本で一緒に暮らしていた。……彼が私を引き取った理由はね、自身の後継者としての才能を見い出したからだそうだ。夫婦は子に恵まれず、後継者は諦めていたその矢先に、偶然にも妹の訃報を聞いて葬式に顔を出した時に、私なら、自身の工作員としての才を引き継げると見込んだらしい。……まったく、甚だ迷惑な話だよ」
喜びとも、憎しみとも判断ができない微妙な表情で、彼女は煙草を一吸いする。
「……それからの日々は地獄だった。昼夜問わず行われた特訓で、痛みを感じない日はなかった。学校には通わせてもらったが、痛みに耐えかねて保健室に通いっぱなしで、ろくに授業なんて受けられやしなかった。まさか、こんな法治国家で、銃を握り締める日が来るなんて思わなかった。……それまでの平凡な人生が、如何に幸福なものだったかと思い知らされたよ。訓練で引き金を引くたびに、そんな自分の人生を呪わずにはいられなかった……。そして――」
ふと、語りの間に、椿は天井を見上げる。その先二階には、諏方の寝室があった。天井の奥で眠る弟を見つめるように、彼女の目が細められる。
「――いつしか私は、別の叔父に引き取られた弟を、恨むようになってしまった……。今思えば、逆恨みにも程がある。……だけどね、私と違って、平凡な毎日を送っていたであろう弟を恨まなければならないほど、当時の私は精神的に追いつめられていたんだ。なんで、私ばかりがこんな目に遭わなければならないのか――なんて、ありきたりな私怨を抱かなければ、私は壊れてしまっていた――いや、唯一の肉親に、そんな感情を抱いた時点で……とっくに壊れていたのかもしれないな……」
その言葉はまるで、懺悔のように紡がれて――。
「だが――比べてしまえば、私の方が遥かに幸福だったという事実を、私は数年後に思い知らされることになった」
吸い終わった煙草を叩きつけるように、乱暴に灰皿へと押し付けた。吸殻の山が崩れ、テーブルに灰が撒き散るも、咎める声はなかった。
「……話を諏方の方に戻そう。彼を引き取った父方の叔父は個人事業主でね、かなりの財を築き上げていたんだ。独身ではあったが、親族内でも高い評判の人格者だった。実際、私たちは厄介者ではあったが、同じ親族の血を引く者。無碍にはしにくい状況で、彼ならば問題なく任せられると、安心して引き取らせた形となった。だが……彼に引き取られた諏方は、私以上の地獄を見ることになった……」
徐々にだが、椿の語りに、静かな怒りが篭り始める。
「……いったい、お父さんに何があったんですか?」
息を呑みながらも、自身の父親の過去を問いかける娘。
「…………改めて問うが、この先を、聞く覚悟はできているね?」
「…………はい」
少しの間の後、緊張した表情で、二人の少女は頷く。
「…………わかった」
その覚悟を見届け、椿は新しい煙草は取り出さず、一度深呼吸し、なるべく感情が乗らないように、静かに続きを語りだす。
「――――虐待だよ。黒澤諏方は、叔父である黒澤剛三郎に、虐待を受けていたんだ」




