第38話 戦いを終えて
朝日の光に照らされた居間の中で、紫煙が空気に混じりゆく。聞こえる音は時計の針と、煙を吐き出すための吐息のみ。電源の点いていないテレビの前に置かれた大きめのソファに、七次椿が一人、瞳を閉じて静かに煙草を吸っていた。
この状態になってから一時間少し。椿は時折、階段のある廊下へと続く扉に目をやりつつ、煙草が切れては少しスマホを眺め、また新しく煙草を吸うのを繰り返していた。
現状、椿の心境は決して穏やかとは言えなかったが、それでも煙草の煙を肺に入れることで、なんとか冷静さを保っていた。今現在に至るまでに、椿はさらなる問題を抱えることになり、それが彼女の頭を余計痛ませていたのだった。
だが、それよりも今は、彼女にとって大切な家族の安否が何よりもの心配事だった。
――トン、トン。
やがて廊下の向こうから、階段を下りる足音が聞こえた。少しして扉が開かれ、椿の姪である黒澤白鐘と、シャルエッテの二人が、居間へと姿を現した。
「……諏方の容態はどうだったかい?」
そう問われ、二人の少女は互いに見合わせ、共に笑顔を見せた。
「はいっ……ひとまず、命に別状はないと思います。火傷の跡は完全になくなりましたし、身体にまだダメージは残っていますが、あと一晩グッスリ眠れば、意識も取り戻すはずです」
そう語るシャルエッテの顔には、ずっと治癒魔法を諏方にかけていたことによる疲労が見られた。
「お水飲む? シャルちゃん」
「あっ、お願いしてもいいですか? シロガネさん」
白鐘はすぐさまキッチンの方へと走り、コップに水を注いでシャルエッテに渡す。それを受け取り、彼女は勢いよく水を飲み干した。
「プハー! 魔法使用後の一杯は格別ですぅー……」
「なにそれ? おじさんみたい」
そう言って笑い合う二人の少女を見て、椿も自然と、緊張状態だった表情が緩んだ。
「なんだ。すっかり仲良しになったみたいじゃないか? 二人とも」
少しからかい気味に茶化す椿に、シャルエッテは爛々と輝いた瞳を見せる。
「はいっ! シロガネさんが、私のことをお友達と言ってくれたんです! 私はもう……それが嬉しくて嬉しくて……」
「もう、シャルちゃんはいちいち大げさなんだから」
満面の笑顔になったかと思いきや、すぐさま泣き出すように表情をコロコロ変えるシャルエッテに、白鐘も椿も、仕方ないなぁっといった感じに苦笑する。
「しかし、魔法によるダメージが魔法によってしか回復しないというのは、少々厄介なものだな……」
当初、諏方は椿の部下たちを使って病院へ搬送する予定であったのだが、現場にいたシャルエッテの強い説得により、彼女の治癒魔法による自宅での治療へと事が進んだのだった。
「正確には、この世界のイリョウ技術でも治せないというわけではないのですが、身体に残留する魔力を治癒魔法によって取り除いた方が、治りも遥かに早いので」
「なるほどね……いや、シャルエッテちゃんには世話になりっぱなしだ、感謝する」
「いえいえ、そんな!? ……むしろ、私がこの世界に来なければよかったんじゃないかと、時々思うんです」
シャルエッテの声のトーンが、重いものへと変わる。
「……私と出会わなかったら、諏方さんも若返らず、魔法という存在に触れることもなく、今までと変わらない平穏な人生を歩めたと思うんです。だから、今回の事件も私が来なければ、みんなが巻き込まれずに済んだのではないかと――って、いだいっ!?」
悲観に暮れる魔法使いの少女の頭上に、白鐘のチョップが炸裂した。
「何するんですか!? シロガネさ――」
「そういう風にネガティブになるの禁止! だいたい、今回あたしがさらわれたのはシャルちゃんとは無関係だし、あたしが助かったのは、シャルちゃんのおかげでもあるんだよ? ……確かに、最初の頃は見ず知らずの女の子が家に住むことになって、嫌だと思ったこともあったよ。でも、今は感謝こそすれ、いなければよかったなんて一切思わない。……それは、きっとお父さんも、同じ気持ちなはずだよ」
白鐘の優しい怒りの言葉に、シャルエッテは涙を浮かべた。
「あぅぅ……ありがとうございます、シロガネさぁん」
「もう……またそうやってすぐ泣く」
手近にあったティッシュで、シャルエッテの涙を優しく拭き取る。
「……それとシャルちゃん、それに叔母さま、改めて、助けてくれてありがとうございます」
シャルエッテの涙を拭った後、白鐘は二人に向かって頭を下げる。
「……頭を上げるんだ、白鐘ちゃん。諏方と同様、私にとっても君は大切な家族だ。助けるのは当然だろ?」
任務で世界中を飛び回る椿は、姪である白鐘はもちろん、自身の家族にすら会えることはほとんどない。そんな彼女だからこそ、家族という存在は何よりも失ってはいけない、大切なものなのだ。
「ところで……例の加賀宮君はどうなったんだい?」
その名前を出され、場が一瞬、静まり返る。
「部下から聞いた話だと、彼は一人であの場から離れたそうじゃないか?」
椿の声調が、少し厳しめなものになっていた。本来ならば、事件の加害者の一人として加賀宮を拘束する予定であったが、それを白鐘が強く反対に出たらしい。
「……詐欺事件を起こした彼の両親を説得しに行った――という話のようだけど、部下を使って女の子をさらうような男を、野放しにしてよかったのかい?」
わずかばかりに、普段愛おしげに見つめる姪っ子への瞳が鋭いものになる。
「……ごめんなさい。勝手なことを言ったのはわかっています。でも――」
その視線に怯むことなく、彼女はまっすぐに、椿の瞳を見つめ返す。
「――信じたいんです、彼を。……確かに、私は彼にひどい目に遭わされました。それでも……あたしの言葉と、お父さんのお説教が彼に届いてくれたことを――あたしは信じたいんです」
しばらく見つめ合う叔母と姪。
椿は無言で、ジャケットの胸ポケットから煙草を取り出し、一本に火をつけて、一吹き。
「……わかった。信じるという白鐘ちゃんの言葉に、私も信じることにしよう」
椿はスマホを取り出して、密かに加賀宮のあとをつけさせていた部下に、尾行の中止のメッセージを送った。
「しかし……大企業の汚職事件となれば、マスコミの食いつきも大きなものになるだろうな」
「……加賀宮くんと、彼のご両親は大丈夫なんでしょうか?」
「……世間から浴びるバッシングは相当なものになるだろうね。しかし、これに耐えるのも罪の償いと言えるだろう。やり方は決して褒められないが、少なくとも、彼のご両親は覚悟を持っての行動だったと思うよ。子を守る親というのは、いつだって自身を犠牲にできる覚悟を持っているものさ」
白鐘は先程までの、自身のために戦ってくれた父親の姿を思い出す。
普段から自身が大切にされていたというのはもちろんわかっている。あの時の父も、娘のためなら命すら失ってもいいという覚悟の上で戦っていたのだろう。
それを――黒澤白鐘は素直に喜ぶことができなかった。
「あたしは――お父さんが犠牲になるのは……嫌ですっ……」
少女の握った拳が震える。悲しみか――それとも怒りか――。
あの場で父が、自身のために死んでしまったら、果たして自分には何が残るのだろう――それを想像するのが、白鐘にはたまらなく怖かった。
「……そうだな。その思いは、君のお父さんが起きた時にでもぶつけなさい。それを口にするのは、命を懸けて助けられた君の、なすべきことだ」
「……はい」
白鐘の中にある複雑な感情は、きっとそれを本人の前で口にしなければ、整理のつかないものなのだろう。
再び、場の空気が重いものへと変わる。
「……あっ! そういえば、バルバニラさんはどうなったんですか?」
いたたまれず、シャルエッテは空気を変えるようにと、新たな話題を振る。だがその問いに、椿は明らかに嫌そうな顔を見せた。
「えっ!? わわわ、私、何か変なこと言いました!?」
「ああ、いやいや、すまない。今のはシャルエッテちゃんに対するものじゃないんだ。……まったく、顔に出てしまうのはプロ失格だな」
ガリガリと、煙草の先端を灰皿にこすり付ける。よく見れば、灰皿の中には山になるほどの大量の吸殻で埋められていた。
「もしかして、すっごいイライラしてました?」
「まあ、少しばかり面倒な事があってね……」
恐る恐る尋ねる白鐘に、叔母はため息混じりの返事を返す。心底疲れたという顔で、彼女は新しく煙草に火を点け、数時間前の出来事をゆっくりと語りだした。
「シャルエッテちゃん、君はーー『境界警察』というのを知っているかい?」




