第35話 四天王の日常③
「キュウジュウハチ……キュウジュウキュウ…………ヒャ……ク…………!」
百を数え上げると同時に諏方は逆上がった身体を支える腕を解いて、背中から身体を倒して床に寝転がった。息は激しく上がっており、額からは滝のような汗が流れている。学ランを着ているためわかりづらいが、おそらくは身体中も汗で濡れているであろう。
「な……なんとか片手腕立て伏せ……百回ワンセット……達成したぞ……チクショウめ……」
息絶え絶えながらも、やりきった喜びの声が絞り出される。
「初めてで片腕一本ずつ百回ワンセットがこなせたなら上等さ。立てるか?」
孫一が本を机に置いて諏方のそばにまで歩み寄り、しゃがみながら彼に手を差し伸べた。
「ハァ……ハァ……一人で……立ってやら――冷たッ⁉︎」
全身がプルプル震えながらも、上半身をゆっくり起こす諏方の頬に何か冷たい物が当たる。
それは冷たいスポーツドリンクの入ったペットボトルだった。わざわざ校舎の出入り口にある自販機から買ってきたのだろうか、水滴が流れるペットボトルはキンキンに冷えていた。
「それだけ動ければ十分だろう。これを持ってソファにでも腰を落ち着けておけ」
「むぅ……」
諏方は何か言いたげな表情で孫一を見上げるが、渋々スポーツドリンクを受け取って一口で半分ほどゴクゴクと飲み干し、そのままソファにドカッと勢いよく腰を沈ませる。
「う〜ん……オイラ的にはやっぱり、各腕百回三セットずつはやってほしかったところッスねぇ」
「たわけ、世の中貴様のような体力バカばかりではない。だいたい、黒澤諏方が『気』の存在を認知してからまだ二週間程度。気のコントロールもまだままならないだろう状態では、百回ずつが精一杯だろ――」
「――いや? オレまだ、『気』ってやつの使い方全然知らねえぞ?」
「「「ッ――――⁉︎」」」
何気なく発した諏方の言葉に、しかし彼以外の四天王三人は驚きで目を見開く。
「……じゃあなんだ? 貴様は気を使わずに、己が筋力だけで片手腕立て伏せをやってのけたと言うのか……⁉︎」
「え? そうだけど……あー、なるほど。たしか気は身体能力を向上させるんだっけか? つまり気をコントロールできるようになれば、百回三セットもできるようになるって事だな?」
「っ……あ、ああ……そうだな……」
得心を得て少し嬉しそうにしている諏方を横目に、孫一と晋也、明里の三人は寄り合って彼に聞こえないよう、小声で話し始める。
「ちょ、あの子気も纏わずにあんな大道芸を百回ずつもやったの……⁉︎」
「大道芸とは失敬ッス……! ……とはいっても、さすがのオイラでも気を腕に纏わなきゃ、せいぜい十回ずつが限度ッスよ……」
「…………どうやら、俺たちはとんでもない化け物を生み出そうとしているのかもしれんな……」
そう口にする孫一は、メガネの中央に人差し指を当てながら――嗤っていた。
「そろそろ時間だな……黒澤諏方、呼吸が落ち着き次第出かけるぞ」
表情を戻し、本を本棚に戻しながら孫一は諏方に声をかける。
「はあ? 出かけるってどこに……」
「たわけが、時間を見ろ」
孫一が指差した先にあったのは壁掛けの時計。指し示した時刻はちょうど五時だった。
「部活に入ってる連中を除いた最終下校時刻だ。俺たちは高校生。高校生ならば、まっとうすべき本分というものがあるだろ?」
「本分……勉強とかか?」
「放課後、友人と遊ぶ――だ」
◯
流れるは美声――古臭くも情緒を感じさせる音階の中に、若くもこぶしのある歌声が狭い室内を駆け巡る。
「フゥー! 出ました! まごっさんの十八番のエンカソング!」
「イェーイ! コブシききまくりぃー!」
「っ…………」
直角のうち一辺が長い不等辺三角形の特徴的なテーブルに、それを囲うように置かれた二対の長ソファ。照明を極限まで絞った部屋の中では、大ボリュームの音楽が空気を震わせていた。
初めてのカラオケ、初めてのカラオケルーム――目に見える景色も、耳に聞こえる音も何もかもが初めてのものばかりで、諏方はただただ戸惑いの波に呑まれていた。
放課後、何も聞かされないまま諏方は他の三人に連れられ、有無を言わさずカラオケへと来たのであった。
カラオケは学校帰りの高校生が遊びに行く施設としては定番中の定番だが、当然諏方にとっては経験のない場所であり、ただ三人の歌を聴くことしかできることはなかった。
「それにしてもホントに引きこもりだったんだねぇ、諏方っち。カラオケ初めてってのも驚きだけど、まさか音楽自体まともに聴くのが初めてだなんてねぇ」
「まあな……本とかは置いてってくれてたけどよ、テレビやら音楽やらには触れさせてもらえなかったからな……」
「っ……き、厳しい親御さんだったんだねぇ……」
「…………」
その場にいるだけで盛り上がり、自然と心がハイになれるはずのカラオケルームに、陰鬱とした空気が流れてしまう。
「えーい、まだるっこしい! ウチがロックで盛り上げてやんよ!」
明里はマイクを握るとともに片足をテーブルに乗せ上げ、耳が痛くなるほどの爆音でロックンロールを歌い響かせる。
「ウィース! じゃあオイラも、オハコで一曲奏させていただきやス!」
明里が歌い終えると今度は晋也が強くマイクを握り、パワフルな一曲を――、
「…………なんか、しんみりとした曲だな……」
流れたのは、切ない悲恋をテーマとした静かな曲であった。
「意外に思うかもしれんが、この猿はバラードを得意としている。しかもわりと上手いときた」
「ギャハハ! その図体で切ないバラード歌うとかマジウケる!」
『ちょっと! 歌ってる途中で茶々入れんといてッスよ!』
「…………」
三人はなんだかんだと高校生らしく盛り上がっているが、諏方はこの場のノリにまだ馴染めずにいた。
そもそも、彼からしたらさっさとトレーニングを積んで強くなりたいところを、なぜ知り合ったばかりの三人とこうしてカラオケに連れられなきゃいけないのか、納得しかねるといった表情を隠そうともしなかった。
「――そろそろ貴様も一曲ぐらい歌ったらどうだ、黒澤諏方?」
そんな諏方に、ふいに隣に座っていた孫一がマイクを差し出した。
「っ……いや、オレあんまり曲とかわからねえし、それに……オレは今までずっと孤独だった……だからわからねえんだよ……誰かと遊ぶってことも、カラオケで歌うってことも……それに、こういう場を楽しむってことも…………」
「…………ハァ」
諏方の独白を聞いて孫一はため息を吐きつつ、だが手に持ったマイクはまだ下げない。
「貴様の過去に何があったのかは知らん。だが――」
視線は向けず、だがその瞳は少しだけ穏やかに――、
「――どのような『過去』があろうとも、それが『今』を楽しんではいけない理由にはなるまい?」
「っ……!」
落ち着いた声で諭す孫一にしばし驚きつつ、だが諏方はしばらくマイクを見つめた後、ゆっくりと彼からマイクを受け取った。
「……曲、あんまわかんねえけど、この前叔父さんと叔母さんが観てたスパイ映画の曲なら……多分ちょっとは歌える……」
諏方は不慣れでゆっくりとだがカラオケの曲送信用の機械でタイトルを探して曲を送り、緊張で手を少し震わしながらもマイクをしっかりと握りしめ、ゆっくりと口元へ近づける。音楽はまだ流れず、静寂に包まれた室内では吐息ですらマイクが拾って響かせた。
『っ……!』
静かなカラオケルームが、音楽が流れると途端に空気が一変する。同時に、肌をじわじわと伝っていた緊張も一気に身体中を駆け巡った。
落ち着け――、
カラオケの映像の下部には歌詞が載る。よって、あとはリズムに乗せて歌詞通りに歌うだけ。
『…………フゥゥ……』
息を整えながら、歌のリズムを思い出す。前奏は十秒ほど。歌詞が現れ、諏方は真剣な表情でマイクに声を当てる――、
『ボェエエエエエエ――――』
下手だった――聴くに耐えぬほどではないが、かといって聴き心地がいいかというと、その対極にある歌声と言えよう。
「……まあ、初めてのカラオケってだいたいこんなもんだよねぇ……」
「センパイ声質はいいから、ちょっと鍛えれば一気に上手くなりそうッスけどねぇ……」
「…………」
『ぅぅぅ……』
三人から哀れみの視線――正確には、孫一はなぜか瞳を鋭くしているが――を向けられながらも、諏方は顔を赤くしながら下手くそなりになんとか歌の最後まで歌いきったのであった。




