第30話 折れない心
「ふぅ……すっかり身体やスーツがボロボロになってしまいました。まあ、貴方を油断していた代償と受け取っておきましょう。しかし、さすがに予想外でしたよ。貴方がガラクタの床を強く踏んでいたのは私への牽制ではなく、山を崩すためにその一箇所を脆くしていたとはね……観察眼に関しては、他者よりも秀でていると自負していたのですが、どうやら今一度、見つめ直さなければならないようです」
ヴァルヴァッラは足元の瓦礫を踏み砕きながら、ゆっくりと白鐘達へと近づいてゆく。
「ひっ――!?」
かつて主だった少年は、先程まで最も信頼していた従者に今は恐怖し、一歩彼から後ずさりしてしまう。
「そう怯えないでください、坊ちゃま。先程の炎も、坊ちゃまを焼かぬように、ちゃんと調整はしましたから」
男の顔に、加賀宮がいつも見ていた、人を安心させる笑みが貼り付けられた。それが何よりも、今の加賀宮にとっては恐ろしいものに見えてしまった。
「くっ、来るな! ……頼む、僕を殺さないでくれ……仮也……」
「ふふふ、未だその名で呼んでくださるとは、今まで粉骨砕身、貴方に尽くしてきた甲斐がありました」
笑みは崩さず、しかし纏う雰囲気は、同じ場にいるだけで窒息してしまうのではないかと錯覚してしまうほどに圧迫的。
気をしっかり持たねば、彼の言葉一つに飲み込まれてしまうだろう。
「っ――止まってください、バルバニラさん! それ以上、シロガネさんに近づけば、わっ、私も容赦しません……っ!」
「……シャルエッテさん」
シャルエッテは杖を握り締め、下唇を噛んで恐怖に耐えながら、ヴァルヴァッラに一歩近づく。
「……たくっ、人の名前を何度も間違えるとは……同類とは思いたくない程に、記憶力に乏しいお嬢さんですねぇ!」
ヴァルヴァッラは右手をかざして炎を生み出し、それをシャルエッテに投げ放った。
「ッ――!? けっ、結界ま――キャアッ!」
シャルエッテの前に透明な壁のようなものが張られ、炎攻撃自体は防げたものの、結界が弾かれた衝撃で彼女の身体が吹っ飛ばされてしまう。壁に激突し、そのまま気を失ってしまった。
「……ふむ、咄嗟に結界魔法を張る程度の事は出来ましたか。少しだけ、君の評価を見直してあげましょう。――さて」
ヴァルヴァッラは瞳を再び銀髪の少女の方へと向け、彼女へとゆっくり近づく。
――通り過ぎ間際に一度だけ、彼が先程炎を投げつけた少年を見下ろす。
燃え盛る炎は未だ消えず、少年の身体はピクリとも動かなくなった。それを確認し、彼の娘の目の前にて足を止めた。
「さて……こう見えて、今の私は非常に腸が煮えくり返っております。人間界に来て以来、これほどまでに全身が傷だらけになったのは初めてですからね。ですが、怒りをぶつけるべき相手である貴女の父親は、あっさりと死んでしまいました。これでは、私の怒りは晴れないというものです。……ここまで聞けば、娘である貴女がこれからどうなるか、言わずともわかりますよね?」
顔には不気味な笑みが貼り付いていたが、声調には明らかに相手を萎縮させる怒気が見え隠れしていた。
しかし――彼の脅しを耳にしてなお、白鐘はヴァルヴァッラを睨み上げた。
瞳はわずかにだが、怯えで震えている。しかし、それ以上の怒りが篭った視線が、魔法使いの男をまっすぐに射抜いていた。
その視線にわずかながら、ヴァルヴァッラは戸惑いを抱いてしまった。
「……解せませんねぇ。こういう場面では恐怖で顔を青ざめて、命乞いの一つでもするもんですよ? ほら、そばにいい例があるじゃないですか?」
彼女の少し横の方では、加賀宮祐一が未だに身体を震わせて二人を見ていた。わずかにだが、距離も先程より離れていた。
「情けない話ですが、アレが人の反応としては正しいものです。……まあ、もちろん命乞いなどしても、貴女をこの場で殺す結末は変わりませんが、気まぐれで貴女を見逃す確率がゼロというわけではありません。この場で服を脱ぎ捨て、土下座して命乞いをしてくださるのなら、慰み者と考えて、生かしてあげるのもやぶさかでは――」
バチン――っと、乾いた音が鳴る。
頬に走る痛み。それを理解するのに、ヴァルヴァッラは数秒を要した。
「……何のつもりですか?」
白鐘は、その怒りを瞳に込めたまま、ヴァルヴァッラの頬を叩いたのだ。
「……ふざけないでよ。命乞い? お父さんを殺した奴なんかに、あたしが命乞いなんてするわけないじゃないっ……! 詐欺師だかなんだか知らないけど、人の心を何でも思い通りに出来ると思ったら大間違いよ!」
彼女の震えは、もはや恐怖によってではなく、目の前の男に対する怒りによるものとなっていた。
「……あたしはアナタを許さないっ……お父さんを殺したあんたなんかに……あたしは――――ぐっ!?」
言い終わらぬうちに、彼女の首をヴァルヴァッラの左腕が握り締めた。片腕で彼女の身体を持ち上げ、抵抗されるも、握り締めている腕は力を緩めなかった。
「……まったく、可愛くないものですね。私を許さない? 貴女はもう少し、ご自分の立場を弁えるべきです」
少女の首を握り締める手が、わずかに赤く燃え上がる。同時に――、
「ああああああああああっっっっっ――――!!!」
少女の悲痛な叫びが、廃倉庫全体に響き渡った。
「わずか数十度ですが、私の手を熱しました。今は軽度の火傷で済んでいますでしょうが、あと少しすれば、貴女の喉は焼け爛れるでしょう。ええ、今しばらく、その苦しみを存分に味わっていただきましょうか」
「あっ……ぐっ……ああっ――――」
少女の視界が次第に霞んでゆく。脳が早く痛みから逃れようと、心肺を停止させる信号を送っているかのように錯覚してしまう。
「くくく……ああ、あどけない少女が苦痛に歪む表情は、やはりいつ見ても素晴らしい。それが人間であれば、なおさら――」
「――白鐘さんを離せっ! かりやぁっ!」
突如、ヴァルヴァッラの横から、主だった少年が必死の形相で殴りかかってきた。
先程まで酷く怯え、震えていた少年の取った行動に、さすがの彼も驚きを隠せなかった。だが――、
「ふん」
「があっ――!?」
殴りかかった少年の腹を、ヴァルヴァッラはあっさりと蹴飛ばしてしまう。加賀宮は蹴られた腹部の痛みに悶え、口から血を吐き出してしまう。
「……これは驚きましたね。よもや、臆病者の坊ちゃまが、この私に立ち向かってくるとは……」
痛む腹部に、荒れる呼吸を胸を抑えることでわずかに落ち着かせ、かつて側近だった男を見つめる。その瞳は未だ恐怖は拭えていないが、意志の強い、真剣な眼差しであった。
「……頼む、仮也……金なら僕が親に頼んで出させる。だから……白鐘さんだけは……殺さないでくれ……」
「……加賀……みや……くん……」
喉が焼ける痛みに耐えながらも、白鐘はなんとか声を搾り出していた。
仮也は、必死に懇願するかつての主を見て、心からの愉悦を感じざるを得なかった。
「フフフフフ……いやはや、私は嬉しいですよ、坊ちゃま。長年、坊ちゃまに仕えた身として、これほどまでに立派に成長しようとは。今だからこそ告白しますが、私、坊ちゃまには欠片ほどの忠誠心もなかったのですよ。あくまで目的のために、義務的に仕えていたに過ぎません。坊ちゃまの親御様は私に騙され、傀儡同然になってたとはいえ、あの二人は彼らなりにどうするべきか考え、行動する方達でした。おかげで、もっと早くに加賀宮家乗っ取りは行われるはずでしたが、思った以上に時間を取られてしまいました。えぇ……彼らは私ほどではないにしろ、優秀な人間ではありました。そういう意味で、わずかばかりですが敬意を抱いています」
一拍置き、ヴァルヴァッラの笑みに再び邪悪が差し込む。
「だからこそ、私は坊ちゃまを利用する事にしたのです。坊ちゃまは良くも悪くも、私を信用しきっていた。私の言葉は全て正しく、坊ちゃまのためであると、貴方の深層意識に刷り込ませた。えぇ、それに関しては本当に容易でした、つまらないほどにね。えぇ、えぇ、それ故にですよ、坊ちゃまがこうして誰かのために、私に反抗の意思を向けたことが、私には何よりも嬉しいのですよ!」
本心からの喜びを見せるかつての部下に、加賀宮は一筋の光を見い出した。
「そっ、それじゃあ――」
「――まあ、それが坊ちゃまに従う理由にはなりえませんですが」
首を握り絞めていた腕を、彼はさらに強めた。
「あっっっがああああああああっっっ――――!」
「やっ、やめてくれえぇ!」
なおも懇願する加賀宮に、しかし、ヴァルヴァッラは冷笑で返した。その瞳はあまりにも冷淡で、まるで人そのものを見下しているかのような、あまりにも冷たい視線だった。
「残念ながら、彼女が苦しまねば私の怒りは収まりませぬ。それに、もはや坊ちゃまの出した手札は交渉に足りえるほどの材料にはなりませぬゆえ」
「なん……だとっ……?」
「言ったじゃないですか? 坊ちゃまを焼き殺す気など最初からないと。交渉材料になるのは坊ちゃまの嘆願ではなく、坊ちゃまそのものなのです」
「どっ、どういうことだ……?」
「……察しが悪いですねえ。つまりは、坊ちゃま自身を人質として、加賀宮家の財産と人材を奪う事にしました」
「っ――!?」
「私としては、少々強引で野蛮になるため、できれば控えたかった手段なのでありますが、最早えり好みできる状況ではなくなりました。まったく……ここまでは慎重に事を運んできたというのに、この少女とそこで倒れた彼女の父親に崩されたのは、我ながら運が悪い。……いえ、他人のせいにばかりはできませんね。最後の最後で焦って慎重さを欠いた私にも責任はありましょう」
残念そうに呟くヴァルヴァッラに対し、加賀宮はこの状況には不釣合いな、力なき笑い声を上げていた。
「……仮也、僕を人質にしたって無駄だ。僕の両親が、如何に僕に対して無関心なのか、側近である君ならわかるはずだろ?」
加賀宮祐一が記憶する限り、両親と会話する機会は年に二桁もいかない。多忙というのもあるのだろうが、何より両親が自身を意識して避けているのを、彼は言葉なくとも察していた。
理由になど大して興味はない。ただ彼にとって、幼い頃から自身は孤独な存在なのだと認識していた。だからこそ、このような場所で時間を過ごす事が、彼にとって一番の有意義な時間だったのだ。
そう口にした加賀宮に、ヴァルヴァッラはただ、呆れを交えたため息を吐き出す。
「……貴方がた加賀宮家は、私にとっては獲物に過ぎませんが、坊ちゃまのご両親にはわずかばかりの同情を禁じえません。……さて、あまり長話しても彼女が苦しむ時間が増えるばかりです。もちろん、彼女が長く苦しむ分には問題ありませんが、いつまでもこの状況のままのんびりするわけにもいきませんからねぇ」
ヴァルヴァッラは、もう片方の右手から炎を出す。燃え盛る炎は、乾いた空気の中でバチバチっと不気味に音を鳴らしていた。
「……なんでだよ、仮也? いつも僕に優しくしてくれたお前が、なんでこんな酷い事をするんだ……? 僕達一家に、恨みでもあるのかよ……?」
「……そんなくだらない感情など、私は持ち合わせていませんよ。私は詐欺師ですからね。騙すそのターゲットに、貴方達加賀宮家が偶然選ばれた――ただ、それだけの事に過ぎません。むしろ、落ち目にあった加賀宮家をわずかな期間とはいえ、再興させた事に感謝してほしいくらいですよ」
もはや、ヴァルヴァッラ――仮也の言葉に、加賀宮は何も言い返せなくなってしまい、ただうな垂れ、地に膝をついた。
「……さて、お待たせしました、銀髪のお嬢さん。そろそろ飽きてきましたし、貴女を苦しみから解放してあげましょう……しかし、貴女の父親も異常であれば、娘である貴女も相当なものですね……首を絞められ、喉は焼かれる。今までに体験した事のないような痛みを与えられているというのに――なぜ貴女は、未だ眼が死んでいないのですか?」
息も絶え絶えで、抵抗する力も尽きかけていたが――相手を睨むその強い眼差しだけは、白鐘は失っていなかった。
「はぁ……はぁ…………言ったでしょ? お父さんを殺したアナタを……あたしは許さないって……たとえ、あたしがここで死ぬ事になったとしても……あたしは最後まで屈さない……平気で人を傷つけて……利用して……苦しむ人を見てあざ笑うあんたなんかに……あたしは絶対に屈しないっ……!!!」
黒澤白鐘は、自身が命尽き果てそうなこの状況においてなお、強固な意志を、怒りを、思いを叫び放った。たとえ殺されても、心の中にあるその意志だけは死ぬまいと、強く敵にあがいた。
それに相対するヴァルヴァッラは、心の底からにつまらなさげに、彼女の瞳を見返していた。
「……本当につまらないお嬢さんです。もういいですよ。父親と同じように、炎に焼かれる痛みに苦しみながら死になさ――いたっ!」
突如――炎を出していた腕に鈍い痛みが走った。
横を見やる。そして――ヴァルヴァッラは戦慄した。
彼は腕を掴まれていた。そして腕を掴んでいたその人物は、本来ならもう立てる力など残されていないはずの男だった。
「おっ…………お父さん……?」
その姿を見て、少女はか細いながらも、嬉しそうな声で彼を呼ぶ。
「…………てめえ、誰の許可得て、俺の娘に触れてやがる……?」
「ばっ、バカな!? 貴様が立てるはずなど――あがっ――――!?」
右頬を思いっきり殴られ、ヴァルヴァッラの身体は再び残骸の海へと吹っ飛ばされた。
彼の腕から解き放たれた少女を、少年は優しく抱き止めた。
「こいつはよ……テメエみたいな外道が触れられるほど、安い女じゃねえんだよ!」
全身が黒焦げになりながらも、黒澤諏方はなお勇ましい瞳で、ヴァルヴァッラを鋭く睨みつけたのだった。




