第29話 父の温もり
――残骸の山は崩れ、少女の身体は空を堕ちてゆく。
――周りをガラクタの欠片が飛来し、空に溺れるかのように沈んでゆく。
少女の柔肌を、残骸へと化してゆく破片たちが傷をつける。痛みが走るたびに、落ちゆきそうになる意識が、かろうじて繋がる。
――経験はないが、空から落ちるのはこういう事なのだろうかと、嫌に冷静になっている自分がいた。
地に落ちるまで、脳の体感時間は実際の数倍になると言われている。人間はその間に、自身の人生を振り返る――所謂走馬灯という映像を脳内で再生する。
少女は振り返る。
幼き頃より、少女は常に父と共にあった。
――母がいないという事実そのものに、悲観的になったことはない。ただ、時折他の友人が両親と共にいるところを見て、わずかばかりに羨ましいと思うことはあった。
それでも、少女はそれを寂しいと思ったことはなかった。
少女の隣には、常に父親の姿があった。
――寂しくはなかったのに、それでも小さい頃は、少し悲しそうな顔をするとすぐに優しく抱きしめてくれた。
あの暖かい温もりが、幼い黒澤白鐘には何よりも心地よかった。
――大きくなるにつれて、恥ずかしくなって拒否するようになった。
中学に上がってからは、周りがそうだったからと、父に心にもない罵倒を口にすることもあった。喧嘩になる事だって何度もあった。
――それでも、父はいつだって最後には、ちょっと情けない顔で笑って、言いすぎたと謝って、それを見るたびに私も、最後にはそっけない口で「ごめん……」と言う。
今では、父とは付かず離れずな距離感を置いていたが、それでも私には、子供の頃から変わらない思いを胸に仕舞っている。
それは――、
「――――がね」
それは――子供の頃も今も、パパの事が――、
「――――ろがね」
パパの事が――、
「手を伸ばせ――しろがね!」
パパの事が誰よりも――私は大好きなんだ!
「――パパァ!」
――だから、悲しかった。――だから、寂しかった。父を名乗った少年を父と認めてしまうと、もうパパは、帰ってこない気がしたから――。
手を伸ばす――。
――私と同じ銀色の髪の少年は、伸ばした私の手を掴み、身体を強く引き寄せ、抱きしめた。
「……もうちょっとだけ、我慢しろよ」
「……うん」
――強く、――強く、痛いほどに抱きしめられる。
――優しくはない。それでも……その温もりは、その暖かさは、確かに父のものだった。
○
大きな音と共に、砂埃を撒き散らしながら、中央に聳え立っていた山は崩れていった。
もはや、それはガラクタの山と呼称するものではなくなり、瓦礫となったくず鉄が積み上がっただけの海原へと成り果てた。
「スガタさん! シロガネさん!」
瓦礫の海へと溺れた二人を呼びかけるシャルエッテ。足場が不安定なため、わずかに身体を宙に浮かせながら、二人を捜索する。
廃倉庫の地表に広がるくず鉄の大海はあまりにも無機質で、少女はそれを見下ろすだけで息が詰まってしまいそうだった。
一部の瓦礫を手でどかそうとするも、その一つ一つがあまりにも重く、それらが彼らの身体に降り注いだと想像しただけで、少女の希望は折れそうになった。
「そんな……まさか、二人とも……」
涙を流しながらも、必死になって辺りを見回していると、中央より少し斜め横の瓦礫が、モゾモゾと盛り上がっていく。
「――っ!? スガタさん!?」
すぐさまその地点にまで飛行し、盛り上がった瓦礫に触れようとしたところで、
「プハッ――!」
瓦礫の一部が吹っ飛び、その下から少女を抱えた少年が、上体を起こした。
「……ふぅ、ガラクタどもを背中に受けきったから、さすがにちっとばっかし痛えや」
軽めの口調でそう言ってのける諏方の特攻服は確かにボロボロで、身体のあちこちに切り傷もついていた。
彼はそんな傷など気にする風もなく、腕の中に抱えた少女の顔を覗いた。
「おい、大丈夫か、白鐘?」
若い父の声に呼びかけられ、少女は埃臭さに一度咳き込むも、ゆっくりとその目を開いた。
「パ……パ……?」
目に映るは、見慣れた中年姿の父ではなく、銀色の髪の少年の安堵した顔。その表情はそれほど似ていないのに、少女にはその時確かに、彼女の父親と重なって見えた。
「よかった……ごめんな、白鐘。すっかり遅くなっちまった」
ずるい――彼の顔を見て、白鐘はそう思ってしまった。
――だって、こんなちょっと情けない顔で「ごめん」って言われたら、どうしたって認めなくちゃいけなくなるもの……。
「……そんなことないよ……その……ありがと……おっ……お父さん」
「――っ!? 白鐘……お前、ようやく俺のことを……」
感極まって、諏方は思わず泣きそうになる。ようやく、父と呼んでくれた娘は、恥ずかしさで父から顔を背けてしまった。
「……その、できれば呼び方も、さっき言ったパパの方に――」
「調子に乗るな!」
父の頭上に、娘のチョップが直撃する。
「あっ! ……ごめん、お父さん」
「たはは、気にすんな。パパは頑丈だからな」
「だからぁ……そのパパってのはやめて……」
恥ずかしさで顔を真っ赤にしてしまう娘が、諏方にはとても愛らしく感じた。
娘の『パパ』という呼称は、彼女が小学校を卒業するまで呼んでいたものだった。少女が反抗期を迎えるとともに呼ばれなくなり、高校生となって落ち着いた後も再度、呼ばれることはなかった。口には出さなかったが、娘の変化として、諏方にはそこが一番に悲しい部分だった。
「うぅ……二人共、無事でよかったでしゅう……」
そばで浮遊していたシャルエッテの目からは、滝のような勢いの涙が流れていた。
「……ふふっ、シャルエッテも、サンキューな」
「……でも、私は何もしていませんし、やっぱり役立たずで……」
「……言ったじゃねえか? ここに早めに駆けつけられたのも、お前のナビのおかげなんだって。……お前は、俺にとっては役立たずなんかじゃねえよ」
「……うぅ!」
その言葉を聞いて、さらに涙を強める魔法使いの少女に、二人は苦笑した。
「…………ぐっ……うっ……ケホッ! ケホッ……」
そのうめき声は、瓦礫の海の端側から聞こえた。
加賀宮祐一は、諏方達のように瓦礫には埋まっておらず、その横端にて倒れていた。身体のあちこちにガラクタの破片による傷はあったものの、諏方ほどには重傷ではなかった。
「……アイツは山が崩れ始めた時、咄嗟に蹴り飛ばしておいた。まあ……死んでも寝覚めが悪くなるしな」
腹の辺りを蹴られたからだろうか、息苦しさに咳き込む加賀宮はかろうじて眼を開き、目の前の惨状に顔を青ざめた。
「……ぼっ、僕の山が……僕の唯一の居場所が……」
身体も声も震わし、残骸の山の王は瓦礫の海を前にし、ただただ、泣き崩れる事しかできなかった。
「加賀宮くん……」
ふいに、抱きしめられた腕をそっと退けながら、白鐘はゆっくりと立ち上がった。
「白鐘……?」
「……ちょっとだけごめんね、お父さん」
一度父に目配せをした後、白鐘は自分を攫った張本人へと足を運んでいく。
気配に気づき、加賀宮は顔を上げると、先程まで自身のそばで縄に縛られ、見下ろしていたはずの銀髪の少女が、今度は彼を見下ろしていた。
その複雑そうな表情からは何を思っているか、彼には読み取れない。
「……はは、笑いなよ、白鐘さん? もう、僕には何も残っていない。一番信頼していた人には裏切られ、一番気が休まった居場所すらもなくなってしまった。もうすぐ、僕のこの誘拐騒動も、両親の汚職事件も発覚するだろうね。……ふふっ、ああ……こんな惨めな結末こそが、僕にはお似合いだな」
その力なき笑みは、ただ虚しいだけのものだった。絶望しきり、全てを諦めたが故の、虚しい笑いだった。
パンッ! ――っと、乾いた音が鳴る。
加賀宮祐一の頬が赤くなっていた。
白鐘の手の平が、彼の顔を叩いたのだ。
「……何があっても、加賀宮くんが私達にした事は許さないし、同情もしない。でも――」
再び加賀宮は、目の前の少女の顔を見上げる。その瞳には涙を浮かべながらも、彼女の表情は毅然としていた。
「せめて、加賀宮くんが何でこんな事をしようとしたのか、それだけでも教えてよ? ……それを聞いても、加賀宮くんを許さないことには変わらないけど――納得だけはしたいの」
――この女性は、本当に強い人なのだと彼は思った。
先程まで乱暴にされていたのに、死にそうなほどの目にも遭ったのに、それでも、彼女はまっすぐな瞳で、元凶である本人に対峙したのだ。何も知らないままで終わりたくはないと、自らの恐怖を抑え、加賀宮祐一の前に立ったのだ。
――ああ、やっぱりこの人が、僕の好きになった人なんだ――。
自身の中に抱いていた彼女への思いを再確認し、少年は痛む身体に耐えながら、対等に語るために立ち上がった。
「いいんですか? あの二人をこのまま放っておいて?」
困惑した表情で、二人を見守るシャルエッテ。
「『ここはあたしに任せて』なーんて目でこっちを見たんだから、俺としては見守る事しかできないさ。子供を信頼するのも、親の務めだからな」
ため息を吐きながらも、諏方は娘の背中を見つめていた。
「……あの馬鹿娘、普段はクールに振舞って人を寄せ付けないくせに、ちょっとでも関わったら放っておけなくなるほど、お人好しだからな。まったく、誰に似たんだか……」
記憶に過ぎるは一人の女性。――彼女はいつだって、優しい笑みを浮かべて、時としてどんな理不尽にも立ち向かった。
――そんな彼女の強さを受け継いでくれた娘が、諏方には何よりも誇らしかった。
自然と娘を見つめながら微笑む諏方に、シャルエッテも安堵の笑みを――、
「――っ!?」
いつになく真剣な表情で後ろを振り向いたシャルエッテに、諏方も珍しく戸惑ってしまう。
「どうしたんだ、シャルエッテ?」
返事はなく、ただ強く一点を見つめる魔法使いの少女。
「今……一瞬だけですが、物凄い大きな魔力を感じました……」
少女が見つめていた一点。諏方はその位置に誰が立っていたのかを思い出し、背中を悪寒が駆け抜けた。
瓦礫の海から、何かが這い上がる金属の異音。盛り上がった波からは、腕が一本突き出された。その手の平の上から、巨大な炎が一瞬にして燃え上がり、すぐさまソレは投げつけられた。
「なっ――」
その炎の標的となったのは、諏方やシャルエッテではなく、瓦礫の海の横にいた二人の男女だった。
「――ちくしょうっ!」
「スガタさんっ!?」
シャルエッテが止める間もなく、諏方の身体が動いた。
「きゃっ――!」
「なにっ――!?」
猛スピードで迫り来る炎。ソレが二人を燃やす寸前、彼女達の前に諏方が飛び出した。
「がっ――あああああああああああああああッッッッッッ――――!!!」
二人を庇うように、諏方の身体は、投げつけられた炎で燃やされてしまう。
「お父さんっー―!」
「黒澤四郎ぉ――!?」
戸惑い、怯える二人の目の前で、一人の不良が炎で燃やされてしまった。彼の身体が地に倒れても、炎はなお燃え続けていた。
「――――ふふふ、ええ、わかっていましたとも。貴方に直接炎を投げつけても躱されるだけ。ならば、貴方の姉君のように、銀髪の少女の方に炎を放てば、自ずと当たりに行ってくれるとね」
瓦礫を払いのけながら、ヴァルヴァッラがくず鉄の海の中からゆっくりと立ち上がる。口元は笑っていたが、その瞳には、怒りによる明らかな殺意が宿っていた。




