第2話 厄日
娘が去った道先を、僕はただ力なく眺めていた。
普段からそっけない態度を見せる子ではあったが、ここまであからさまに冷たくされたのは、彼女の中学時代の反抗期真っ盛りだった時期以来な気がする。幼い頃は元気いっぱいで明るい女の子だったのだが、その時期は僕とよくケンカをしていたものだ。
高校にあがってからはケンカの数も減り、会話は依然ぎこちないものの、また昔みたいに仲良くなれたと思っていたんだが……。
「あれ? おじさん、なにそこで突っ立ってんの?」
いつの間にか玄関前に、いつも通りに僕と白鐘を迎えに来たであろうお隣の天川進ちゃんが到着していた。
さっぱりとした短髪に中性的な容姿は、制服が男子用でも違和感ないぐらいに少年的だが、ちゃんと化粧をしているあたり立派に女の子をしている子だ。
彼女は白鐘が小さかった頃からの友人であり、僕とも親しくしている。そんな彼女がキョトンとした表情をこちらに向けていた。
「あっ、いや、なんでもないんだ……」
僕の歯切れの悪い返事に、進ちゃんの視線が怪訝なものへと変わる。
「ふぅん……白鐘は中?」
「……ああ、すまない。先に行ってしまったよ」
その言葉を受けて何か納得をしたのか、彼女は手をポンと叩いた。
「ふむふむ、アタシの推理したところ……加賀宮くんが先に迎えに来たのかな?」
彼女の口にした名前に反応してしまい、思わずその肩を掴み、揺さぶってしまう。
「加賀宮という男を知っているのか!?」
「し、し、知ってるもなにも、く、く、クラスメートなんだから、知らないわけ、な、な、ないでしょ!」
ギブギブと言って僕の腕を叩く進ちゃん。すまないと謝って僕も手を離す。
「ぜぇ……はぁ……まあ、おじさんがこんだけあわててるってだけで、何があったかはだいたい予想がついたよ」
息を落ち着かせるため、彼女は自身の胸を抑えている。
「先におじさんを安心させるために言ってあげるけど、一応二人はやましい関係とか、そんなんじゃないからね」
「ほ……本当か……!?」
安堵で身を乗り出してしまいそうになるのを、彼女の手で制される。
「けれど、警戒しても損はないと思うよ。なんて言ったって、あの加賀宮くんだからねぇ……」
彼女の悪戯っぽい笑みに、嫌な悪寒が背中を襲う。
「えっと……彼はいったい何者なんだい?」
「うーんとねぇ、加賀宮グループって聞いた事あるかな?」
「加賀宮グループ? たしかここ十年で、日本経済のトップクラスに急成長した大企業だよね……えっ? まさか……」
「そう。ご明察通り、彼はその加賀宮グループの御曹司なのです」
眩暈で頭を抱えてしまう。そりゃあたしかに、彼からはどことなく爽やかさの中に気品の高さも感じられたが、大企業の御曹司となればそれも納得である。
こちらも一サラリーマンゆえ、直接関わってる企業でもないというのに、粗相がなかったかと不安になってしまうのは社会人の嫌な性だな。
「御曹司ってことは当然お金持ちだし、そのうえイケメンでバスケ部のキャプテン。女子にはもちろん、男子にも優しいことでクラスの人気を総なめ。まさに、彼は我が高のアイドルなのですよ」
話を聞けば聞くほど、彼の高スペックぶりと比べて自分が惨めに思えてしまう。……一介のサラリーマンがなに高校生に対抗意識を燃やしているんだという話でもあるのだが。
「……しかし、なぜそんな学校のアイドル様が、ウチの娘をわざわざ迎えに来るんだ?」
「あー、それはですねぇ……」
気まずそうな表情のお隣の娘さんに、僕も訝しみの視線を向ける。
「おじさん怒らないから話しなさい?」
「……落ち着いて聞いてね、おじさん? 彼、この前クラスのみんなの前で、白鐘に告白しちゃいまして……」
彼女の報告に、しばらく理解が追いつかなかった。
「ぱっ、ぱーどぅん?」
「英語反対」
「もう一度お願いします」
「だーかーらー、クラスのみんなの前で、加賀宮くんが白鐘に愛の告白をしたんだってばぁ。まるで恋愛ドラマの最終回みたいにね」
「告白? …………ん? こっ……こくはくだぁぁあ!?」
驚きとショックで、また彼女の肩を掴んでしまった。
「いやーん、おじさんに○○○されるぅ」
「いや、それはシャレにならないからやめて! それよりもどういうことなんだ!? 僕の娘が⁉︎ あの少年に⁉︎ 愛の告白をされちゃったのか⁉︎」
「だから落ち着いてってば、おじさん!」
気が動転している僕の腕が彼女に振りほどかれる。朝っぱらからオーバーな動きをしているためか、互いにぜぇぜぇと大きく息を吐き出してしまっていた。
「たしかに白鐘は告白はされたけど、当の本人はまだ返事を保留してるから! だから二人はまだカップルとか、そういうのじゃないからね」
「そ……それは本当か?」
まだ二人が恋人同士ではないという事に安堵はするが、
「――でも、返事を保留してるって事は……今後恋人同士になる可能性も……」
「ああ…….まあたしかに、片や爽やかイケメンでお金持ちの御曹司。片やクールでトップクラスの成績を持ち、人目を引く銀髪とその美貌で少なからずの隠れファンを増やしていってる美少女。絵面的にはまさに理想のカップルだよねぇ。上手くいけば玉の輿なわけだし、娘を取られたくないのもわかるけど、ここはいっそ二人を応援するってのも――ってあれ、おじさん?」
「…………」
「……もしかして、立ったまま気絶してる? おじさん!? 戻ってきて、おじさーん!?」
○
「――ろさわくん! 聞いているのかい? 黒澤くん!」
「あっ……はい!?」
いつの間にか目の前に立っていたのは、笑顔が可愛い娘の親友ではなく、仏頂面のハゲかけた上司であった。
「まったく、どうしたんだ? 今朝からボーとして、君らしくもない」
「あっ、えっと……申し訳ありません」
どうやら無意識に会社にまで来ていたらしい。無意識でも来れてしまうあたり、嫌な意味で社会人を全うしている気分だ。
上司に呆れのため息を吐かれ、目の前に資料の束を投げ出される。
「ともかく! 昼休憩が終わったら、先ほど指摘した部分を全部直すように」
「はい、わかりました……」
資料をまとめ、自分のデスクに戻る。
ここまでの記憶は曖昧だった。
どうも嫌な話を聞かされたショックで、茫然自失となっていたようだ――いやまぁ、何があったか忘れられるほど都合のいい頭ではないので、正確には思い出したくないふりをしているだけなんだが……。
僕が作成した資料の文章も支離滅裂になっている。そりゃあ上司に叱られるのも無理はなかった。
「大丈夫ですか……黒澤係長?」
お茶を淹れに来た眼鏡の地味めながらも美人な新人OLが、心配げな表情でこちらの顔を覗いていた。
「あはは、大丈夫だよ……」
有望な新人の女の子を心配させまいと、必死に笑顔でなんとか取り繕う。
「そうですか……。あのぅ、よかったら私とお昼一緒に食べませんか? 係長の娘さんのお弁当は美味しいですから、私のとおかず、少し交換しませんか?」
彼女もこちらの重たい雰囲気を察してか、明るく振舞ってくれている。よき新人を持ったことに、今はただただ感謝だ。
「ははは、うちの娘の作るお弁当はかなり美味しいから、そんじょそこらのおかずとは交換できない――よ……?」
鞄の中をあさるも、弁当箱を包んでいるはずの布の感触を一切感じられない。
「あっ……」
たしか白鐘が今朝、お弁当はキッチンに置いてあると言っていたが、朝食を食べた記憶もなければ、弁当箱を手にした覚えもない。
「お弁当、忘れてきちゃった……」
今にも泣きそうな顔で彼女の方に振り向いてしまう。
「あの……作りすぎたんで私のお弁当、半分食べます?」
「……いや、今日は外で食べることにするよ……」
後輩のOLにお昼を恵んでもらうのはさすがに情けなさすぎるので丁重に断っておく。
とはいえ、あまりの自身の不甲斐なさに本気で涙が出そうになってしまった。
○
「はぁ……帰りたくない」
憂鬱さで重たくなる身体を引きずりながら、夕闇に染まる帰り道を一人歩く。いつもなら、自宅へは最寄り駅から商店街をまっすぐに行くのだが、自然と遠回りになる人通りの少ない路地裏を歩いて行く。
今朝の娘とのやりとりと、娘が告白されたという事実を知ってしまった二重の気まずさでどんな顔をして帰ればいいかわからず、わざとゆっくりとした速度で自宅へと帰る。
本来は一日の疲れを娘の顔を見る事で癒すのだが、今日はそれすら億劫に感じてしまいそうだった。
彼女が反抗期だった時も、そんなふうに思った事はなかったのだがなぁ……。
「いつかいつかとは覚悟していたけれど、やっぱり父親としてはつらくなるなぁ……」
自分でもよくできた娘だとは思っている。早くに妻を亡くし、仕事しかできない僕を支えてくれたのは、いつだってあの子だったのだから。
とはいえ、相手は気立てのいい美少年で、しかも大企業の御曹司だ。中小企業に長年勤めている程度の自分では、反対する理由がどこにも見当たらない。
「でもなぁ……」
理屈的にはわかっていても、気持ち的には納得いかないのが親という生き物だ――っと、親になって改めてわかることである。
「……ここは白鐘とちゃんと話し合うか」
両手で自身の頬を叩く。
いつまでも一人でうじうじ悩んでいたって仕方がない。これは娘の将来に関わる事だ。娘の気持ちをちゃんと確かめ、そのうえで娘のためにできうる限りの事を協力しよう。
相手が金持ちだろうが貧乏人だろうが関係ない。果たして白鐘を本当に愛しているのか? そして彼が本当に娘を幸せにしてくれるのか? 重要なのはそこなのだ。
自分のやるべきことを見いだし、少しだけ気持ちが楽になった。
「――おっと」
突然、右肩に誰かがぶつかった。振り向くと、いかにも不良らしき若者がこちらを睨みつけている。
「おいオッサン。なにぶつかってんだゴラ?」
心の中でため息をつく。いつの時代も、こうした人間はいなくならないものだ。
「……すまないね、どこかケガはしていないかい?」
「あ? こっちは肩打ってチョーイテーんですけど? やっべ、こりゃ入院しなきゃだわ。イシャリョウが必要だわー」
わざとらしく肩を押さえる若者。なんの工夫もない決まりきった台詞に、内心苦笑してしまう。
「それはすまなかったね。だけどいかんせん、僕も低収入なものでね。これで勘弁してくれないかな?」
僕は財布から一万円札を二枚取り出し、若者に差し出す。彼は素早く、先程まで肩を押さえていた手でお札を握り取って確認する。
「おいオッサン、なめてんのかゴラァ? たった二万ぽっちじゃよー、すぐ使っちまうだろうが!」
若者は律儀に二万円を胸ポケットに入れながらこちらを怒鳴り散らすと、それを合図としたかのように、何人かの仲間らしき不良たちが僕を取り囲む。
予想通りではあるが、やはり最初から僕を襲う目的だったみたいだ。肩にぶつかったのもおそらくわざとであろう。
「とりあえず、財布の中身全部こっちによこせ。そうすりゃあ、痛い目にはあわずに済むぜ?」
下品な笑い声が路地裏に気味悪く響く。
助けを呼ぼうにも、こんな人通りの少ない路地裏では期待もできそうもない。
――振り返れば、今日はとことん碌な目に遭っていない。娘とはケンカし、彼女に告白したという男と出会い、会社では仕事が手につかずに上司に怒られ、こうして今は不良に襲われている。
「なんというか……厄日だな、今日は」
間もなく夜の闇に染まろうとする夕暮れの空を眺めながら、誰に言うでもなく、僕はポツリ呟いた。