第12話 三巨頭①
何百、何千という人々が忙しなく道を行き交い、ビル工事の騒音や信号の音がけたたましくも日常に溶け込む東京都下のとある繁華街。人間が砂つぶのように広がる砂漠の中でも、オアシスのような場所は存在する。
街の一角、駅前の雑踏から少し離れて比較的静観な立地に構えられた喫茶店。小鳥のさえずりすら聞こえるほどに静かなこの場所は、喧騒またたく都会の中の聖域であった。
そんな喫茶店の木陰差し込むテラス席にて、一人の青年が文庫本を片手に読書に耽っていた。
否――彼は青年ではなく正真正銘少年である。
オールバックの青みがかった黒髪はヒモで後ろで一本に束ねられ、切れ長の瞳に整った鼻立ちは男ながらに蠱惑的な色気を感じさせる。青いジーンズコートに身を包んでおり、同じテラス席に座る他の客たちと比べてもひときわ目立つ座高の高さはおおよそ二メートル近い身長はあろう事がうかがえる。
スポーツ選手と見まごうほどの体格と纏う雰囲気、静かな佇まいは二十代前半ぐらいの好青年と間違えそうになってしまうが、彼はれっきとした高校三年の少年であった。
「――また『節義なきシリーズ』ですか、総長?」
総長と呼ばれた少年と対面になる前の席に、アイスコーヒーを片手に持ったもう一人の少年が座る。
青いワイシャツの下から覗くガッシリとした筋肉に、渋みすら感じさせる強面は眼前の少年以上に高校生離れしており、一見すれば放課後にカフェに来ている高校生同士というより、若手のサラリーマンと建設会社の職人が打ち合わせしているといった場面のといった方がしっくりくるであろう。
「こういう洒落たカフェで読むなら任侠物よりも、文学小説の方が様になるんじゃないですか?」
「そう言われてしまえば返す言葉もない。だが、物事を考えるにはここのような静かな場所が適している。特にこの節義なきシリーズはただのヤクザ物のように思えてその実、根底には深いテーマがあるのだと俺は思っている」
語りながら青コートの少年はページから目を離さず、作中で描かれる情景描写を頭の中に想像する。
「ヤクザ同士の抗争を描いた節義なきシリーズ。出所したてのヤクザの構成員である主人公は、組同士の抗争の中で常に葛藤を抱いている。兄弟分の盃を交わし組内の下剋上を狙う若頭と、自分を可愛がってくれる組長との板挟み。同じヤクザであってものしかかる罪悪感。主人公は悪でありながらも、人間らしい悩みを常に抱えている。特に小説版は、映画以上に主人公の内面描写に重きを置いているのだ」
一般にも名前が知られる程度には人気の高い任侠映画シリーズ――節義なき戦い。派手なアクションが売りの一つではあるが、主人公という一人のヤクザの心情、生き様を徹底的に描いており、悪でありながらも善の心を捨て切れない不器用な漢を取り巻く人間ドラマは、ヤクザ映画というニッチなジャンルながらも日本映画界でも屈指の名作の一つとして長く愛されるシリーズとなったのだ。
「俺には常に考えている命題がある。正義が人を救えるように悪もまた、救える命があるのではないか――とね」
ページをめくりながら、青コートの少年の感情の見えない声音にわずかに熱がこもる。
「正義が悪を倒す勧善懲悪は王道にして至上の物語であろう。だが、正義は罪のない他者は救えたとしても、自ら打ち倒した悪まで救うのは難しい。近頃は敵対した悪をも救う作品も増えつつはあるが、たとえ正義であっても救える範囲は限られている。悪も含めて万人を救うことは正義あっても難しい。だがもし、正義が取りこぼした命でも、悪ならば救うことはできないだろうか……」
青コートの少年の脳裏に浮かぶは杖をつき、その小さな背中に多くを背負った一人の老獪なる男――。
「もちろん、基本的には悪を倒せばいい正義とは違い、悪が他者を救うというのは遥かに困難なことであろう。加えて悪が善行を成したとしても悪そのものである限り、その行いが理解され、称賛される事はほとんどない……それでも、悪であるからこそ救える命もあるのではないか――私は常に、その命題の答えを追い求めている」
「高校生が考えるには重すぎますよ、そのテーマ……さすがは読書感想文にて、小説本一冊分の文章を書き上げて教師を困らせただけはありますが。真面目すぎると呆れられがちな私が言うことでもないでしょうが、もう少し高校生らしく軽いノリで日々を過ごしてもいいのではないでしょうか?」
「……少し努力しよう」
と言っても変わる気はないのだろうと心の中で諦めつつ、青いワイシャツの男は持っていたカバンから複数の書類を取り出した。
「こちら、来週の『三巨頭会議』に参加予定の不良チーム、およびそれぞれのメンバーのリストになります。三巨頭傘下のチームとメンバー全員ではありませんが、総数三百は参加できるかと。合わせて無人駐車場使用許可も地区へすでに申請済みです。近所迷惑にならない等の条件下であれば、いつも通り三時間程度の使用許可は得られるでしょう。それにともない、参加チームにはそれぞれ騒音などの注意がけの連絡もすでに済んでおります」
「会議の日付が昨日決まったばかりだというのに、一日でそこまで仕上げたか。さすがだ、泰山昇。改めて君を副長に任命して正解だと思ってるよ」
「お褒めいただき光栄です。それと、例の桑扶高校の転校生の件ですが――って、総長?」
青コートの少年はいつのまにかテラス席を立っており、店の近くで何やら困り顔の老婆の方へと向かっていた。
老婆は目が見えないのか、目の不自由な人用の白杖を握っており、そんな老婆を見下すように目の前で立ちはだかっていたのは、アロハ服を着込んだ二人組の男性だった。
「だから言っただろ、バアさん。慰謝料だよ、慰謝料。テメーがぶつかったせいでオレはケガしちまったんだからよ、払うもん払うってのが筋だと思わねえか、あ?」
どうやら男性二人と老婆は道端で身体をぶつけたようで、その事について揉めているみたいだった。
「そ、そんな……足音が聞こえたのでちゃんと右によけたはずなのに、まるで合わせるように足音が目の前に……」
「あん? じゃあなにか? オレたちがわざとアンタにぶつかったとでも言いてえのか、バアさん⁉︎」
「そ、そこまでは……でも……」
「――いや、君たちがお婆さんにわざと当たりに行ったように、私には見えていたよ」
静かな佇まいで、三人の間に割って入る青コートの少年。当然、老婆を睨み下ろしていた男性たちの瞳は少年の方へと向けられた。
「あ? テメー何モンだ? オレたちにケンカでも売っ……て…………」
少年の姿を視界に捉え、言葉を失う男性たち。小さな老婆を見下ろしていた視線は、やはり二メートルほどの大柄であった少年を見上げるものへと変わった。
「疾く去るがいい。何もせずに消えるなら、こちらも不必要に追いはしない」
相変わらず感情の見えない声音で警告の言葉を上げる少年に対し、しかし男性の一人は強い怒気を纏わせて彼を睨み上げる。
「テメー……ちょっとデケェからってよ、あんま調子に乗ってんじゃ――」
「――ま、待てよ! コイツはやめておけ! コイツは……いや、この方は……『蒼青龍』の……!」
「あずーる、どらご…………コ、コイツ……じゃなくて、この人が、アズールドラゴン総長の『青龍』⁉︎」
途端――目の前に立つ少年がまるで怪物のように二人の男性には映ってしまう。
「「す、すんませんでしたあああ――!!」」
青コートの少年の正体に気づいた男性たちは、あわてて逃げ去ってしまった。
「よかった――誰一人、傷をつけずに済んだ」
安堵のため息が漏れ出す少年。そんな彼の元に、アイスコーヒーとカバンを持った昇が駆け寄った。
「まったく、後先考えずに動かないでくださいよ。それと、コーヒー代は立て替えておいたので、あとで総長分の支払いをお願いします」
「ああ、すまなかった。俺の分だけとは言わず、お前のも合わせて支払おう」
「いいですいいです。たしかに私の家庭は貧乏ですが、自分のコーヒー代ぐらいは払えますよ。ところで、そこのお婆さんはどうなさるんですか?」
青コートの少年は老婆の方へと向き直り、少し声をやわらかくして話しかける。
「どこかおケガはございませんか?」
「いいえ……あなたのおかげで助かりました。まだまだ障害者に厳しい世の中ですが、貴方のように寄り添ってくれる若者がいる事を大変喜ばしく思います。よろしければ、お名前をお訊きしても?」
「……いえ、名乗るほどの者ではありません。それより、どこかへ行かれますでしょうか? 差し支えなければ、私がご案内いたしますが?」
「まあ、紳士的ね。それに、とても澄んだ声。貴方の言葉には嘘偽りがなく、優しくて、高潔で、そして――とても孤高な方なのね」
「……いえ、私はただの迷い人にすぎません」
どこか切なげに目を細めながらも、青コートの少年は老婆の手を取ろうとする。
そこに――、
「――おい! 不良が人助けしてんじゃねえぞ、蒼龍寺葵司!!」
耳鳴りがしそうなほどの爆音に混ざりながら一人の男が声を上げ、気づけば何十台ものバイクが葵司たちを取り囲んでいたのだった。