第10話 第一ラウンド、夕焼けにて
――黒澤諏方は歓喜していた。
――自ら最強を名乗った豚山猪流は、己が拳のたった一撃で沈んでしまった。
――これではなんのためにわざわざこの学校に来たのかがわからない。
だが――、
目の前のこの男なら――、
「……まるで好敵手を見つけたかのような顔だな」
「……嬉しくねえわけがねえさ。テメェみたいな強え奴をブン殴るために、オレはこの学校に来たんだからよぉ……!」
諏方の拳が握りしめられる。今にも殴りかかりたい衝動を抑えるために、興奮で大きく吐き出される息を静かに落ち着かせた。
「戦闘狂か……困るんだよ、貴様のような力のある不良に目立った動きをされるのはな」
孫一は身体の向きを変えて武尊と茶髪リーゼントを背にし、諏方と正面に向かい合う形となる。
「豚山は弱いし性格も最悪の部類だが、あんなのでもこの学校の秩序を保つためには必要だった。力のある人間が目立てば、必然的にこの学校そのものが目立ってしまう。そうなれば他の不良高やチームに目をつけられ、余計な抗争に巻き込まれてしまう。……嫌なんだよ。俺はただ静かに、本を読んでいたいだけなんだ」
「……不良らしからねえセリフだな?」
「俺は好きで不良になったわけでもないし、この学校も好きで通ってるわけじゃない。四天王制度を作って三年、仮初であってもようやく平和を享受できているんだ。この学校の平穏を乱す奴は、誰であろうと叩き潰す……黒澤諏方、転校初日から悪いが、貴様の転校先を病院のベッドにさせてもらおう……!」
再び目に見えない圧迫感に襲われる。だが諏方は怯むどころか、より楽しげにニヤリと嗤った。
「……どうやら、豚山を倒せたのはまんざら偶然というわけでもなさそうだな。黒澤諏方、貴様『気』は使えるのか?」
聞き慣れない単語を耳にし、諏方は怪訝に眉根を寄せる。
「木? 木刀か? 悪いが、オレは素手派だ」
「そうか……安心したよ。どうやら、これ以上強くなる余地はなさそうだ」
そう言い終えた瞬間――孫一の姿が消えた。
「――はやッ⁉︎」
正確には消えたわけではない。予備動作なく孫一は一瞬で、諏方の懐へと踏み込んだのだ。
そして――、
「――――ガハッ⁉︎」
孫一の拳が諏方の腹に一撃を入れ、彼の口から勢いよく血が吐き出された。
たしかに目に止まらぬスピードではあった。だが、腕の振りの勢いからしてそれほど重い一撃ではない。
にもかかわらず――、
「ぐっ……くっ…………!」
諏方は軽いはずのたった一撃で、膝を折ってそのまま床へと倒れ伏したのだった。
「アニキ⁉︎」
「兄貴ッ!」
すぐさま駆け寄る武尊と茶髪リーゼント。諏方は目を見開いたまま意識を失っており、身体全体が痙攣で震えていた。
「拳に『気』を纏い、相手の体内へと気を直接送り込む。拳そのものに大したダメージはなくとも、荒れ狂う気が貴様を内部から破壊する――これが、今の『不良』の闘い方だ」
中指でメガネを押し上げ、その奥にある冷徹な瞳で孫一は倒れた転校生の少年を見下ろす。
「救急車を呼ぶならすぐにしろ。今の一撃で数ヶ月は立てなくなるだろうが、放っておけば一生車イス生活だ」
そう言い残して孫一は踵を返し、彼らの前から立ち去ろうとする。
「…………アニキ!」
「…………兄貴⁉︎」
後ろから聞こえる何かに驚いたような声に、孫一の足が止まる。
「――――ハァ……ハァ……」
ありえない――だが背後にある息づかいは、間違いなく転校生のもの。
「――馬鹿……な⁉︎」
後ろを振り向いた孫一は、その光景に目を見開く。
「ハァ……ハァ…………」
立ち上がっていた――しばらく立てないほどのダメージを負ったはずの黒澤諏方が立ち上がっていたのだ。
「ありえない……気も操れない人間が、今の一撃を受けて立ち上がるなど…………いや、この呼吸の間隔、肺活量のバランス、周囲の大気の流れ……貴様、やはり気を使えるのか……⁉︎」
本来ならば孫一の送り込んだ気で、諏方の身体の内部はズタズタになっているはずである。彼が今立っているのはおそらく、彼自身の気が内部の孫一の気を取り除いたためであろう。
「……だが先ほどの奴の『気』を使えないという言葉が嘘とは思えない。ならば知識もない状態で、天然で気を練り上げられたとでも言うのか……?」
気を練るためには特殊な呼吸法、大気の流れの読み取り、経絡へ取り込んだ大気のコントロール――どれもが特殊な知識を必要とし、仮に知識はあっても修得するには長いトレーニングを経た上で、ようやく気のコントロールができるようになるのだ。
一朝一夕で至れるような技術ではない。だが目の前の銀髪の少年は、間違いなく気をコントロールできていた。
「……………………ラァッ!!」
眼前の出来事に呆然としてしまった孫一に向かって、諏方は口から血をこぼしたまま目を見開き、勢いよく飛びかかった。その様はまるで獲物を襲う獣のようで、ギラギラとした瞳の色には、もはや理性を感じられない。
「オラァッ――!!」
諏方は飛びかかった体制のまま右拳を振り上げ、勢いよく孫一の顔面にめがけて振り下ろす。
「――チッ!」
孫一はとっさに顔の前に腕をクロスさせ、諏方の拳を両腕で受け止めた。
「ぐっ……」
腕全体に疾る軋むような痛み。だが耐えられないほどではなかった。
「…………ッ」
諏方は着地と同時に廊下の床を蹴り上げ、後方へと距離を取る。深く湿った息づかいと狂気を孕んだ眼差しはまっすぐに、目の前の孫一を捉えていた。
「……頭に血が昇って暴走しているように見せてその実、反撃を警戒して深追いせずにすぐさま間合いを取る冷静さは残っている……いや、野生の勘と呼ぶべきかな?」
「うぅぅぅ…………」
まるで本当の獣のように、低く唸る銀髪の少年。
「だが、今の一連の動きだけで貴様の闘い方も理解した――貴様の足りないものもな」
「ッ――⁉︎ …………ウォアアアアアッッ――!!」
再び拳を握り、孫一へと飛びかかる諏方。
「……スピードは立派だが、動きが単調だ。これでは予測するまでもなくかわされるぞ」
当たれば骨をも粉砕しかねない一撃はしかし、身体をよろけるわずかな所作だけでかわされてしまった。
そのまま孫一は一回転して諏方のガラ空きとなった背後へと回り込み――、
「はぁッ――!!」
諏方の首裏に、素早く手刀を叩き込んだのであった。
「うっ…………⁉︎」
首裏への一撃によって諏方は再び意識を失い、またも床へと倒れ伏してしまう。
「背は低いが、しなやかな筋肉はパワーとスピードを両立させるいい体格だ。危機感知能力も高く、何より知識なしに気をコントロールできたその天性は稀有と言える。豚山程度では相手にすらならなかったろう。それでも――」
息一つ乱さず、転校生を見下ろす瞳を細めながら孫一は人差し指でメガネを押し上げる。
「貴様の言う頂点とやらに至るには――まだ遠い」
黒澤諏方と八咫孫一――夕焼け色に染まる文芸部室の扉の前にて、後に何度となく闘う二人の最初の決闘は、あまりにもあっさりと決着を迎えてしまった。




