第2話 少年が不良に至るまで②
「ええ……ええ……はい……わかっております……はい……彼の身柄については、あとは私が――」
黒いコートを纏った初老の男性が歩を進めながら、携帯電話を片手にどこかへと連絡を取っていた。オールバックの銀色の短髪に整った鼻立ち、力強く鋭い瞳は一発で外国人である事がわかる。
しかし、彼が話す日本語は外国人特有のイントネーションの違和感はなく、それだけで彼が長く日本に住んでいるであろう事が伺えた。
男は電話を切り終えると、隣に立っていた制服を着た警察官と共に建物の奥へと進んでいく。
男が今いるのは警察署だった。若干戸惑い気味の警察官の案内で二人は署内のとある一室へと向かっていた。周りの他の警官たちは直前に起こった事件のために慌ただしく動きながらも、署内を我が物顔で進んでいく黒コートの外国人を奇異の目で一瞥する。
「……こちらになります」
「ありがとう」
目的の部屋へたどり着き、警察官がドアを開いて外国人の男は特に躊躇するような様子も見せずに入室する。
部屋の中には二人の人物が先に入っていた。一人は女性警官であり、彼女はもう一人隣に座る少年へと寄り添うように同じくイスに座っていた。
女性警官は男と二、三言葉を交わした後、少年の方を心配げに見つめながらも部屋を後にする。部屋に残ったのは少年と外国人の男の二人のみとなった。
「っ……」
先ほどまで眉一つ動かさず冷静でいた男が、目の前の少年の様子に目を細めてしまう。
頭に布をかけられた少年の瞳は――完全に生気を失っていた。
十代後半にしては小さな背丈と、顔は血の気が引いて青みがかっている。少年の様子には、明らかな栄養失調の傾向が見られた。目の前にあるのが死体だと言われたら納得してしまいそうなほどに、少年の肉体も精神も完全に壊れていた。
「フゥ…………」
男はわずかにざわつく自身の心落ち着かせるため、長く深いため息を吐き出す。無意識にコートの胸ポケットにしまっていたタバコに手を伸ばしそうになってしまうが、ここが警察署内であった事を思い出してすぐに手を引っ込めた。
「……久方ぶりだな、黒澤諏方少年。君は覚えていないだろうが、私はニコライ・ジターノフ。君の母親の兄――つまりはあの男と同じ、君の叔父に当たる者だ。くわしくは説明できないが、いろいろと手順を飛ばして私の監視下のもとであの男に代わり、君を保護する事が決まった」
「…………」
「現役を退いていたとはいえ、あの男の本性を見抜けなかったのは私の落ち度だ。これは私の罪滅ぼしでもある。……今さらになってしまうが、どうか君を引き取らせてほしい」
少年に向けて手を差し伸べるニコライ。
しかし――、
「…………」
やはり少年は何も答えず、身動き一つすらしなかった。
「……私のことは信用しなくて構わない。君の精神状態を思えば、安易にこの手はつかめまい。だが……私の家には黒澤椿――君の姉がいる」
「…………っ」
わずかにだが、諏方の身体がピクリと反応を示す。
「今となっては彼女が君にとっての唯一の姉弟だ。……黒澤椿だけは、信用してもいいのではないか?」
「…………」
諏方はゆっくりと顔を上げて光のない瞳で、自身を見下ろす銀髪の男を見つめ返す。彼の手をすぐに取らないまでも、自身を見つめる瞳を逸らすこともしなかった。
「……同意と受け取るぞ。さて、まずは休息を第一としよう。歩けるか? 無理ならおぶってやっても構わんが。今は恥じるという感情が出る余裕もないだろう?」
「…………」
諏方はやはり何も答えず、だが机に手をかけて自分の力で立ちあがろうとする。
「……っ⁉︎」
だが、上手く足に力が入らなかったのか、諏方の身体が思わずよろけそうになってしまう。
「……やはりまだ緊張状態が解けていないか。おぶられるのが嫌なら、せめて肩を貸しなさい。孤独の中で戦うのは今日までだ。少しずつでいい――他者を信用するということを覚えなさい」
そう言ってニコライは強引に諏方の腕を引っぱり、彼の倒れそうになる身体を支える。
「ッッ――――⁉︎ ……………………」
諏方は最初強い拒絶感にニコライの手を引きはがそうとしたが、彼の年齢を感じさせない腕力はそれを許さなかった。
「っ……」
抵抗するそぶりを一瞬見せるも、意外にも諏方はニコライにおとなしく従った。
――あの日もあの男に強い力で腕をつかまれた。同じような力強さはあったが、不思議とこの男にはどこか安心できるような、そんな温もりを感じられた――。
諏方は依然警戒の瞳は向けながらも、何も言わずに彼に肩を貸したのであった。
◯
――強い雨が降っていた。
――だが、長年地下に監禁されていた諏方にとって、雨の感触も新鮮に感じられた。
古風なレンガ調の一軒家。その庭先に車を停め、ニコライは再び諏方の腕を肩に回しながら玄関へと向かう。傘をさせなかったとはいえ、数歩程度の距離にも関わらず二人はずぶ濡れになってしまうほど雨が強い。
「…………」
「…………」
チャイムを鳴らし、待機する。その間は互いに無言。
まもなくしてタタタと駆ける音が扉の向こう側から響き、それに合わさるように上気した息づかいも聞こえる。
「――諏方!!」
黒澤椿は高揚した表情を浮かべながら、玄関の扉を開け放つ。
「っ……」
――間違いなく、彼女は姉である黒澤椿だった。
幼い頃の記憶はもうほとんどかすれる程度にしか残っていなかったが、浅黒い肌と艶のある黒髪のポニーテールは、男まさりだけど優しかった姉の面影をたしかに残していた。
「……………………うぷ」
――胃の中がせり上がる感覚がした。
――目の前にいるのはたしかに弟なのだろう。母と同じ銀色の髪。黒髪だった自分が子供の頃にうらやましく感じたのを今でも覚えている――。
――だが、目の前にいるソレはそれ以外がまるで別人のようだった――。
綺麗だった銀色の髪はボサボサで、きらびやかに輝いていた子供の瞳は濁った黒になっていた。
――こんな死に体のような少年が、弟なわけがない――。
無意識にわき上がった拒絶感――一瞬でも彼を弟である事実を拒否してしまった自分に耐えきれず、椿は口を抑えながら弟に背を向けて、トイレへと駆け込んでいってしまった。
「っ…………」
姉との再会の喜びはたったの一分程度で霧消する。わずかに灯った希望すらも消え失せてしまい、少年の精神は完全に閉ざされてしまった。
「……私の計算ミスだ。どのような状況でも動じないよう、精神力も鍛えたつもりでいたが……やはり身内相手となると、まだ律しきれぬか」
深くため息をつくニコライ。肩を借りたままの諏方はもはや何の反応も見せる事はなくなってしまった。
「――あなた!」
またも聞こえる玄関へと駆ける足音。
椿に続いて顔を出したのは、ニコライと同じぐらいの老齢の、しかしどこか可憐さを感じさせる銀色の髪の女性であった。
「ナタリア、まずはこの子を風呂で洗ってあげてくれ。その後用意した部屋に案内を。今は何より休息が必要だ」
「……この子が、あの諏方ちゃん? ……わかったわ。ほら、おばさんと行きましょ?」
ナタリアと呼ばれた女性は諏方のもう片方の肩を持ち上げ、彼を家の奥へと連れていった。
「……黒澤諏方をあのようにしたのは黒澤剛三郎の醜悪さを見抜けなかった私の罪でもある。すまなかった、アナスタシア……」
悔恨の言葉を亡き妹に向けながら、ニコライは一人タバコに火をつけた。
◯
「今日からここがあなたの部屋よ。まだベッドとクローゼットしかないけれど、欲しい物があったら遠慮なく言ってちょうだい?」
案内された部屋は白を基調とした洋室で、たしかに物は少ないが赤く分厚い毛布のかかったベッドに大きめのクローゼット、窓には赤いカーテンがかかってたりと、殺風景とまでは言わない立派な部屋だった。
――少なくとも、あの地下室よりは人の住む部屋としての機能を十分に果たしていた。
「…………」
地下室に簡易シャワーはあったがそれでも数年ぶりにまともに風呂に入れて、ススなどで汚れた全身もヨレヨレだった髪もある程度は綺麗になった。それでも当然、少年の精神が回復するわけもなく、この家に来てから諏方はまだ一度も言葉を発していない。
「……お腹は空いているかしら? ボルシチを温めてあるから、よかったら食べてって?」
そう言ってナタリアはあらかじめ温めてあった赤いスープを持って諏方の前に差し出す。しかし、彼は目の前のスープに目線も向けず、手に取ろうともしない。
「……やっぱり見慣れない料理は嫌だったかしら? あなたのお母さんの得意料理でもあったから、きっと子供の頃に食べた事あるとは思うのだけれど……」
「……………………お母さんの……?」
「っ……!」
ナタリアの前で諏方が初めて口を開いた。
朧げではあったが、たしかに目の前で湯気立つ赤色のスープを母が作ってくれたような記憶がある。
「…………」
諏方は震える手でスープに添えられたスプーンを手に取り、少量をすくってゆっくりと口へと運んだ。
「…………」
スープを口に含み、時間をかけて味わう。その間もナタリアは心配げな瞳で諏方を見つめていた。
そして――、
「…………う……………………うぅ…………」
赤いスープに透明な雫が混じる。
「ごめんなさい! お口に合わなかったかしら……? 待ってて、今すぐ別の料理を――」
「あ――おいしい…………です……」
少年は泣いたまま、お皿をつかんでどんどんとスープをスプーンですくって飲んでいく。口に広がるトマトの酸味――それはたしかに、小さい頃に母が作ったスープの味だった。
「っ……よかった。……改めまして、私はナタリア・ジターノフ。あなたをここに連れてきたニコライの妻で、あなたの叔母さんになるわね。困った事があったら、なんでも相談してちょうだい? ……もう、あなたを苦しめる悪い人はここにはいないのだから」
「っ……」
優しい眼差しに見守られながら、諏方はボルシチを食べ進める。
静かに諏方の食べ進める様子を眺めていたナタリアは、彼が食べ終えるのを見計らって空になったスープ皿を受け取る。
「それじゃあ、今日はおやすみなさい。今後の事は、また落ち着いたらみんなでゆっくり考えていきましょう」
「…………」
また無言になってしまった諏方を一人にしたくないという気持ちはあったが、それでも自分がいては気が休まらないだろうとナタリアは部屋を出ようとする。
「……あなたを引き取らなかった私たちが言えるようなことではないと思うけれど、ワタシも夫も……椿ちゃんも、あなたの味方だからね?」
最後にそう言い残して、ナタリアは諏方の前から去っていった。
「…………」
警察に保護されてから十数時間、久しぶりに諏方は独りになる。今日一日で周囲の環境が目まぐるしく変わり、状況を受け入れようにも脳みそは半分も働かず、ただただ呆然とするしかなかった。
「…………」
とりあえず何をすればいいかもわからず、諏方はベッド寝っ転がる。
独りぼっちの世界――いつもと違うのは、見える景色が石造りの壁と暗い天井ではなく、白い壁に明るい天井であるという事だった。
「……………………ベッド…………フカフカ……」
昔は当たり前に感じてたやわらかな感触に全身を包まれる。
――もう、あの堅い地面の上で寝なくていいんだ――。
枕にひとすじの涙をこぼしながら、少年はまどろみの中へゆっくりと沈んでいった。




