第1話 少年が不良に至るまで①
「ハァ……ハァ……ハァ…………」
――剛三郎宅の地下室に閉じ込められてから十数年の時が経った。
時計もカレンダーもなかったが、剛三郎が時折持ってくる雑誌などからおおよそ外の日数を知ることはできた。
学校には通えなかったが、読み書きに関しては市販の教科書やドリルなどの教材、それらを書き写すノートなども与えられていたので最低限の教養は身に付けられた。
水道も通っており、質素ではあるが大量の缶詰めや保存のきく乾パンなども置かれており、食べる分に困る事もあまりなかった。
だが――それ以外の人間としての尊厳は全て剥奪された。
拷問とセクハラ――それがこの地下室での少年の日常だった。腕を縛られ、鉄や木の棒、鞭などでひたすらに身体を叩かれ 、血やアザだらけになった身体を時間をかけてねっとりとまさぐられる。
虐待にかけられる時間は日によってまばらだった。一時間程度で終わる日もあれば、一日のほとんどを費やす日も珍しくはない。
最初の数年は身体を叩かれるたびに泣き叫び、身体を触れられることによる嫌悪感に苦しまない日はなかった。
剛三郎がなんの仕事をしていたかは知らないが、一日中空ける日も少なくはない。そんな日でも、彼が地下室に来るかもしれないという恐怖は常に付きまとい、安心して眠れた日は一度たりとしてなかった。
「ハァ……ハァ……ハァ…………」
いつしか拷問にもセクハラにも慣れてしまっていた。それは抗うことのできない事実への諦観か、それともとうに精神が磨耗した事によるものか――多少の痛みや嫌悪感に声を上げる事も次第に少なくはなっていった。
その頃から、黒澤諏方は身体を鍛え始めた。
黒澤剛三郎を殺す――。
一点のみに絞った目標が、少年の生きる唯一の希望となった。
身体の鍛え方などは剛三郎の持ってくる雑誌などにも載っており、彼のいない一日は筋トレや簡単な武術を真似したりなどで費やした。
――やがて少年が監禁されてから十数年が経ち、彼の身体は長年閉鎖された空間に閉じ込められていたとは思えないほどに鍛え上げられた。
背丈は年齢のわりに小柄ではあったものの、しなやかに引き締まった筋肉はパワーとスピードを同時に兼ね備えた、武人として立派な肉体へと仕上がったのだ。
――この身体ならば、あの男を殺すことができるはず――。
「ハァ……ハァ……ハァ…………」
少年の目の前には石造りの壁。十数年変わる事のなかった光景。
その壁が一ヶ所、まるでハンマーなどで叩かれたかのようにクレーター状に大きくヒビ割れていた。
「ハァ……ハァ……ハァ…………!」
ヒビ割れの中心部に、少年は拳を打ち込む。地響きとともに地下室全体が大きく揺れる。
半年近く、剛三郎はこの地下室に顔を出さなかった――。
家を留守にしているのか、または家にいても単に地下室に来なくなったのかはわからない。
その間に諏方は拳を鍛えるため、ひたすら壁に拳を打ち込んでいたのだ。
もちろん脱出路を作るためのものではない。そもこの地下室から自力で出るなど、十代を超える前にはすでに諦めていた。
ただひたすらに、黒澤剛三郎を殴り殺すために少年は壁を相手に拳を鍛え上げていたのだ――。
「ハァ……ハァ……ハァ…………」
小さな身体に殺意を込めて、少年は叔父が地下室へ現れるのをひたすらに待ち続けた。
某年三月――諏方が十七歳を迎えるこの年、剛三郎はまだ一度も地下室に顔を出していない。
準備は整ったというのに、肝心の殺すべき男は姿を現さなかった。
仕事が忙しくでもなったのか、それとも少年を虐待することに飽きが来てしまったのか。
――理由なんてどうでもいい。いつまでだって待ってやる――。
殺してやる――早く来い――殺してやる――歪んだ顔をさらに歪ませてやる――ハラワタをぶちまけさせてやる――殺してやる――殺してやる――殺してやる――殺してや――――、
――――、
カチャリと――ドアの鍵が開く音がした。
考えるよりも、先に身体が動く。階段下へと駆け寄り、身を潜ませる。
呼吸を殺す。瞳は鋭く、殺意は強く、拳を痛いほどに握る。
殺す殺す殺す殺す死ね死ね死ね死ね殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる――、
階段を降りる音に耳をすませる。
聞こえる足音は複数あった――。
一人ではないという事だろうか――だが、今の少年にそんな事は関係ない。仲間がいるのならそいつらも全員殺してやるまでだ。
一段、一段と石造りの階段を踏みしめる音が聞こえるたびに興奮で心臓が跳ね上がりそうになり、都度息を整えて精神を落ち着かせる。
――あと三段階段を降りたらアイツの目の前に乗り出して、反応するよりも前に顔面に拳を殴り落としてやる――。
あと三段――、
あと二段――――、
あと一段――――――――、
「――――剛三郎ォォッッッッ――!!!」
「――誰だッ!! 誰かそこにいるのか⁉︎」
声の主である男が手にしていた懐中電灯の明かりに照らされ、思わず脚を止めてしまう。
眩しすぎる光に一瞬目が眩むも、手を顔の前にかざしながら階段上に立つ複数の人影を確認する。
どれほど前の事だろうか――子供心にカッコいいと憧れた青い制服を纏った者たちが、少年の目の前に立っていた。
「――警察だ! ……君、もしかして行方不明になっていた黒澤諏方くんじゃないのかい?」
一番手前の懐中電灯を持った男が少年に問いかける。
少年はしばし目の前の状況を処理しきれず、呆然と立ち尽くしてしまう。そんな彼の様子に気づいてか、先ほど警察を名乗った男が口調を優しくして言葉を続ける。
「安心してほしい、黒澤諏方くん――君を監禁したであろう黒澤剛三郎は先ほど我々が逮捕した。もう、君を脅かすものはいなくなったんだ」
「ッ――――!!」
――彼の言葉を聞くと同時に、脳がショートしたかのように真っ白になる。
殺すべき男に振るうはずだった拳は力なく下ろされ、瞬間目の前の光景がプツリと途切れた――。




