第54話 娘の名前
――その頃の記憶はほとんどない――。
ある日の病院にて、妊娠してから少し経ってすっかりお腹も大きくなった妻がふいに語っていたのを諏方はよく覚えている。
――たしかにあの日の出来事をほとんど覚えてはいない。それでも、碧はあの日出会った女性の髪色と、彼女を背に夕日でオレンジ色に染まった河川敷の風景、そして耳に聞こえた誰かを祝福するような甲高い音がとても綺麗だった事だけは、胸に強く焼きついていた――。
◯
「お母さんが……あたしの名前を……?」
驚きでわずかに震える少女の声。そんな彼女に、父は優しく言葉を続ける。
「なんでも、子供の頃に俺たちと同じ銀色の髪をしたお姉さんに会った事があるらしいんだ。名前は聞けなかったけどすごく綺麗な人だってのは覚えてたみたいでな。そのお姉さんとお喋りしてた時に遠くから聞こえた教会かどこかの鐘の音が、すごく印象に残ってたらしい。だからもし、俺の遺伝で銀色の髪の女の子が生まれたら『白鐘』にしようって……二人でそう決めたんだ」
不思議な話ではあった。銀色の髪の人間などそうそういるわけではない。諏方は母親が銀髪のロシア人の女性であったため、母親の遺伝で髪色が銀になったのだ。
もしかすれば母と同じロシア人の女性だったのかもしれない。碧もそこまでは覚えていなかったため、結局そこはわからずじまいになってしまったのだった。
「っ……」
自分が生まれたと同時に息を引き取ったため、白鐘は母のことをよく知らない。
それでも、自分の名前を付けてくれたという母との繋がりを感じられて、先ほどの父親のように白鐘もまた少し涙ぐみそうになった。
「……でもこのネックレス、チャリンチャリン音が鳴ると目立つからさすがに学校とかでは付けられないかなぁ」
「それがそのネックレス、けっこう面白くてな? ベルの横に付いてる小っちゃいネジを回すと、音が鳴らなくなる仕組みに――」
音の止め方を教えるために諏方はベルを手に取ろうとして、チャリンと音が鳴るとなぜか彼の手が止まる。
諏方は元々このネックレスを誕生日パーティーの時に渡すために娘にバレないよう、あらかじめ音は止めていたはずだった。しかし、棚から出した時にネックレスはたしかにベルの音を鳴らしていた。
おそらくはズボンのポケットに入れていたどこかのタイミングでネジが回ってしまったのだろう。ヴェルレインとの決闘で激しく動いたのだ。その中でネジが何かに引っかかって回ったとしてもおかしくはなかった。
そしてヴェルレインのバースト魔法との激突の際に、遠のく意識の中で聞こえたあの音は――このネックレスの鐘の音だったのだ。
「そっか……俺を救ってくれたのはお前だったんだな、白鐘」
「え?」
父の突拍子のない感謝の言葉に、キョトンとなる娘。
「……あ、いけねえいけねえ! ――ほら、これで音が鳴らなくなったぞ」
無意識に出た言葉だったのか諏方は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、それを誤魔化すようにネックレスの音の止め方を教えた。
「あっ……ありがとう……」
「どっ……どういたしまして……」
「っ……」
「っ……」
両者共に気恥ずかしげな空気になってしまい、互いに赤くなった顔を隠すようにそっぽを向き合ってしまう。
「……そ、そうだ! リンゴ! リンゴを剥いてたんだった!」
沈黙に耐えられなくなった白鐘は思い出したかのようにベッド横のイスに置いていたリンゴと果物ナイフを手に取り、皮剥きを再開する。
「…………」
「…………」
再び病室は静寂へと戻るが、先ほどよりも気まずさは薄れていた。
シャリという果実を削る音だけがしばらく響き、やがてリンゴは器用にウサギの形へとカットされて皿の上に小分けに並べられていく。
「…………はい」
白鐘はつまようじを取り出してそれをウサギのお尻部分に突き刺すと、赤らめた顔のままジト目で父を見つめながら、彼の口元へとウサギを運ぶ。諏方はそれをただ戸惑い混じりの瞳で見つめていた。
「その腕じゃ自分で食べられないでしょ? ……だから……ほら……」
「いや、たしかに腕含めて身体中包帯巻いてるけど、これでもけっこう動けるんだぜ? さっきも、お前のネックレスを――」
「――いいから! ……滅多にしてあげられることじゃないんだから、こういう時ぐらいは甘えなさいよね……?」
「う……わ、わかったよ……」
どちらも羞恥心が限界度を超え、顔も茹だったようにさらに真っ赤にしながらも、諏方は白鐘の切ったリンゴのウサギを口に頬張っていく。
「…………おいしい」
娘の顔が見れずに目を逸らしながらも、小声で感想を口にする――恥ずかしさで脳が混乱していて、味がわからないのが本音ではあったが――。
「…………よかった」
「っ……」
白鐘のどこかホッとしたような声が心に強く残る。単純においしかったという感想に対するものなのか、自身が無事であった事に対する改めての安堵なのかは定かではないが、娘の嬉しさ混じりの静かな声はそれだけで父親の心も落ち着かせてくれたのだった。
「……はい、じゃあ二個目。ほら、さっさと口開ける」
「はいはい。あーん……」
「じー…………」
ふいに感じた病室の扉の向こうからの視線。わずかに開いた引き戸の隙間には、三人の少女たちがこちらを覗いているのが見えた。
「なっ――シャルちゃんにフィルエッテさんに進⁉︎」
白鐘はその場から飛び上がるような勢いで、大声を上げながらわなわなと震える指を扉の奥へと向ける。
「シャル……覗き見する時にいちいち『じー』って口にしなくていいのよ」
「ふぇ⁉︎ そうなんですか⁉︎」
「いやはや、二人っきりのあま〜い空間を邪魔するのはヤボってやつでしょ?」
「あま⁉︎ べ、別にそんなんじゃないからッ!!」
「おんや〜? アタシゃ親子二人っきりって言ったつもりだったんですケドネ〜?」
「ッ〜! このクソ進! 一発殴るから、そこに居直りなさいッ!!」
「アハハ……」
少女たち四人によって病室はすっかり騒がしくなり、諏方は呆れ笑いつつも目の前の光景に日常が戻ってきたように感じ入る。
――ふと、窓から風が吹いて白いカーテンをゆらした。
諏方は一人、窓越しに青空を見上げる。ゆったりと流れゆく雲は、一週間前の激闘すら忘れてしまいそうなほどに心を穏やかにしてくれた。
――果たしてあの魔女は、同じようにこの青空を見上げているのだろうか?――。
「ヴェルレイン・アンダースカイ……」
銀髪の少年は空へと向けて手を伸ばす。
不良と魔女の決闘――忘れようと思っても忘れることのできないあの激闘は、少年の記憶に深く刻まれた。
百を超える諏方のケンカの中でも、あの闘いに並ぶのは蒼龍寺葵司との高速道路での決闘だけ――。
それほどまでに、諏方にとって魔女との決闘は、得がたい経験へと昇華していったのだった。
彼女がどのような信念を背負っていたかはわからない。だが、他者の命を巻き込もうとした時点で彼女も悪人であった事にも間違いはない。
それでも――それら全てを抜きにしてあの決闘は諏方にとって心踊るものであった。
いつになるかはわからない――もしかしたらすぐかもしれないし、何年も先になるかもしれない。
それでもいつか、彼女とまた闘いたい――それが、黒澤諏方のまごう事なき本心であった。
「第三ラウンドは、オレが必ず勝つぜ――ヴェルレイン!」
結果として引き分けに終わった二人の決闘――その再戦と勝利を胸に誓い、諏方は天へと向けて強く拳を握りしめるのであった。




