第53話 六月二十二日、病院にて
――六月二十二日、午前――
開いた窓から流れるそよ風が、ゆらゆらと白いカーテンを揺らす。天気は気持ちのいいほどの快晴。青々しい空はその一角だけでも、真っ白な部屋に彩りを与えてくれた。
「ハァッ! ハァッ!」
静寂たるべき部屋の中で、少年の張り上げた声と突き出した拳が空気を揺らす。
銀髪の少年――黒澤諏方は白い布を纏いながら、かけ声とともに一打一打拳を交互にまっすぐ突き出していた。
「…………フゥ」
「――フゥ、じゃないわよ。お医者さんから安静にするようにって言われたわよね、お父さん?」
「――ゲッ! 白鐘⁉︎」
開かれた引き戸のフチに肩を預けて腕を組みながら、少女は自身よりも背の小さくなった父娘を睨み下ろしていた。
「で、でも……身体を動かさねえとなまっちまうって言うか……」
「――ベッド」
「――はい、すんません……」
諏方はおとなしく室内のスミに置かれた白いベッドへと潜る。
――諏方とヴェルレインの決闘から一週間が経過した。
気を失った諏方はすぐさま境界警察の治療施設へと運び込まれ、そこで三日間の集中的な治療を受けていた。
魔女との戦闘で受けたダメージはかなり深刻であり、たとえ治療が成功したとしても最悪一生全身不随になってもおかしくなかったという。
だが、諏方自身の回復力の高さもあってか治療は無事成功し、後遺症も特に残らないとの事だった。
あとは人間側の医療の領分になるのだと諏方は人間界の病院へと移送された。その間、彼は一度も目を覚ます事がなかったのだが、つい昨日彼はようやく意識を取り戻したのであった。
現在二人がいるのは病室である。境界警察の方でも治療されてたとはいえまだ身体中は傷だらけのままであり、今も白い病院服の下は包帯でぐるぐる巻きの状態であった。生きているのが不思議と医者も驚いており、経過観察も含めてまだしばらくは入院しなければならないであろう。
「ん? そういや今日は一人なのか?」
「なに? あたし一人じゃ不満?」
「いやいや! そういう事じゃなくて……」
昨日彼が目を覚ました際は、連絡を受けた白鐘がシャルエッテやフィルエッテと共にすぐに病院に駆けつけてくれたのだ。
「冗談よ。シャルちゃんとフィルエッテさんは進と一緒に買い物済ませてから来る予定。あたしが先に来たのは、お医者さんとお話があったからよ」
「そっか……わりぃな、面倒かけちまって」
「別に。家族なんだからこれぐらい普通でしょ? お腹すいてる? 先にリンゴだけ買ってあるから、剥いてあげる」
そう言って白鐘は持参してきたビニール袋の中にあるリンゴを一個取り出し、ベッド横のイスに腰かけて手慣れた手つきで果物ナイフを使い、リンゴの皮を剥き始める。
「お父さん、昨日はもう動けるようにはなったって言ってたけど、やっぱり傷も完治してないし、少なくともあと一週間は入院した方がいいってお医者さんが言ってた」
「うっ、一週間かぁ……病院ってやる事ねえし暇なんだよなぁ……」
「……で、実際どうなの?」
視線をリンゴに向けたまま、白鐘は父に静かに問う。
「さっきのパンチ……ちょっと見てただけだけど、いつもよりキレが落ちてた気がした」
娘からの問いに、諏方は少し驚きを見せる。
「いつのまにそこまで見えるようになったんだ……?」
諏方の動きの精度は、それこそ素人目でわからないほど普段との違いは少ない。わずかな精度のズレを見抜けたのは、白鐘が長く父親の戦いを見守り続けたからこそであった。
「……まあ、痛みそのものは言うほど大きくねえってのは本当だ。ただ……気が上手く練られなくなっちまったんだ」
「気が……?」
手が止まった白鐘の瞳が父に向けられ、諏方は静かに娘にうなずく。
「多分だけど、今回の闘いで気を使いすぎちまったのと受けたダメージがデカすぎたせいで、身体の内側に流れる気を通すための回路みたいなもんがズタズタになっちまってるんだ。気がまったく使えなくなるってわけでもねえんだが、出力はしばらくの間は落ちちまうだろうな……」
右手を握ったり開いたりしながら拳を見つめる諏方。魔女との互いの生死をかけた決闘はあまりにも激しく、一命は取りとめたのの決闘の代償は大きいものであった。
「……ま、時間はかかるけど回路の方はいつかは治るし、しばらく激しめのケンカは控えりゃなんとでもなるさ。……ヴェルレインみてえな奴が来たら、さすがに今の状態じゃ勝てる気はしねえけど……」
「まーたケンカの話。すっかりバトル漫画の主人公みたいになっちゃったわね」
「たはは……何も言い返せねえぜ。でも……この拳はお前や家族を守るために振るう――そのスタンスだけは、これからも変わらねえぜ」
身体が若返り、魔法使いに娘がさらわれたあの日から、諏方はかつて不良とのケンカのために使った拳を家族を守るために振るう誓っていた。その信念だけは、今も変わらないままでいたのだ。
「――それならやっぱり、あの魔女さんが言ったように……あたしも強くならなくちゃだよね」
ふと、リンゴ剥きを再開していた白鐘の手が再び止まる。
「……おいおい、まだヴェルレインが言ってたこと気にしてたのか? 強くなるったって、いくらなんでもお前が闘うってのは――」
「――わかってる。お父さんたちみたいな怪獣大決戦に参加するつもりはないわよ。……でも、やっぱり見てるだけってのは嫌なの」
剥き途中のリンゴを強い眼差しで見つめながら、白鐘は父に対する娘としての思いを吐露する。
「お父さんのことは信用してる。どんな相手だって、お父さんなら勝てるって信じてるから送り出せる。でも……もし、あたしにできることがないまま、お父さんがいなくなるような事があったら……あたしは一生後悔するし、自分を許せなくなる」
少女は顔を上げ、決意を込めた瞳でまっすぐに父を見つめる。
「だからあたしは――自分のできる範囲でお父さんやシャルちゃんたちをサポートしたい。……自分がどこまでできるのか、そのために何をすればいいのかはまだわからない。だけど、あたしのできることでお父さんたちを助けられるのなら――あたしはそのために強くなりたいの……!」
「白鐘……」
思わず涙ぐみそうになるのを必死にこらえる諏方。彼は心の中で、亡き妻に向けてつぶやく。
『お前に見せてやりたかった……碧、俺たちの娘は、誰かを思いやれる強い子に成長ったよ』
「…………あ、そうだ! お前に渡してえもんがあったんだ!」
そう言って泣きそうになるのをごまかすように諏方はベッドから身を乗り出して、横にある小棚の引き出しからチリンと音のするアクセサリーらしき何かを取り出した。
「これって……ネックレス?」
諏方が娘の手に渡したのは、銀色のネックレスだった。鎖状のヒモに、中央には飾りとして鈴のようにチャリンチャリンと音を鳴らす銀色の小さなベルが付いている。
「碧の……お母さんの墓参りの時に、霊園近くのみやげ屋さんで買ったんだ。ほら、まだ誕生日プレゼント渡してなかったろ?」
「あ、そっか……いろいろありすぎて、すっかり自分の誕生日も忘れてた」
誕生日当日の父親と魔女の決闘はもちろん、その後もしばらく父親が意識不明の状態にいたという事もあって、もはや誕生日どころではなくなってしまったのだ。
当然、予定していた白鐘の誕生日パーティーは中止。諏方の意識が回復した昨日まで、黒澤家にはしばらく暗く重い空気に包まれていたのだ。
「ありがとう……これ、付けてもいい?」
「もちろん」
白鐘はネックレスの留め具を外して自身の首にかける。
「っ……」
ネックレスを付ける時の仕草と付けた後の少し大人びた娘の姿に、普段は子供としてしか見ていなかったふいの白鐘の女性としての一面に父親である諏方は思わず感嘆の息を漏らしてしまう。
それに気づかず、白鐘は手のひらにネックレスのベルを乗せてしばらく見つめる。
「白鐘だから鐘の付いた銀色のネックレス……ちょっと安直だけど、お父さんにしてはいいセンスなんじゃない?」
「そこはもうちょっと素直に褒めてくれよ……そういや話した事なかったっけか、白鐘の名前の由来」
「あー……あんまり気にした事なかったけど、今さらながらに白鐘って珍しい名前よね?」
キョトンとする娘の横で、父親は昔を懐かしむように風吹く窓を見上げる。
「白鐘って名前を付けたのは――お前の母さんだ」