第6話 不可侵なる山
桑扶市役所――日々来所される老若男女の市民たちの対応に追われる職員たちの後方では、書類を握って忙しなく走る他の職員たちを尻目に、それなりに上の役職にいるであろう中年の男性が数枚の紙束をもう何分もの間、睨みつけるような視線で刻まれた文字と数字を何度も往復していた。
「どうしたんですか、課長? 難しい顔で書類と睨めっこして」
課長と呼ばれた男の隣のデスクに座っていた同年代らしきもう一人の男性が、書類を見つめ続けている彼に軽めの口調で声をかけた。
「ああ……去年の狭間山の登山者数の記録だよ。ここ数年はどうも右肩下がりだからね。今や桑扶市と城山市にとって唯一と言ってもいい観光名所なのだから、人が減ればその分財源も減ってしまう」
「あー……まあ仕方ないっすねー。何年か前から傘を持った女の幽霊の目撃談が絶えないですし、物好き以外の一般人は近づきにくくなっちゃいますよ」
「まったく……デュアルタワービルがあった二十三年前までは、両市とも活気に満ちあふれる街になると思ってたんだがねぇ……テロ事件さえなければと、今も思わずにはいられないよ」
「あの年は市議会議員の汚職が発覚したり、城山高速の謎の倒壊があったりと、まさに激動の一年でありましたなぁ……」
当時の城山市、桑扶市とともに起こった騒動を振り返り、二人は深くため息をつく。その頃は共に市役所の新人職員であった二人だが、毎日が激務に追われる日々であったのだった。
「しかし狭間山ですかぁ……なぜか今まですっかり忘れていましたなぁ」
照れ臭げにそう語る部下に対し、課長は呆れたような視線を送る。
「おいおい、勘弁してくれよ。市役所職員が市の観光名所を忘れるはないだろう」
「あー……忘れていたというよりは、課長からその名前を聞くまで記憶からすっぽり抜けていたというか……」
「ふむ……実を言うと、私もたまたま机の上に置かれた資料を見て、ふと思い出したのだよね。まるで頭の中にあってなぜか消えていたデータが復元した気分だよ」
「なんだ、課長も忘れていたんじゃないですかー。……とはいえ、今もなぜか不思議な気分なんですよねー。なんというか――」
部下は一人回転イスを回して、雨降る暗い窓の外を見つめる。
「――今日はなぜだか、あの山には立ち入ってはいけないような、そんな感覚に襲われているんですよね」
◯
――六月十五日、午前十一時三十分――
「うーん……地味ぃ!」
雨のせいか、普段以上に人通りが少ない町中を三人の少女たちが歩いている。三人は共に傘をさし、その中の見た目活発げな少女が、吠えるように不満げな声をあげていた。
「諏方おじさんを乗せてたみたいに、こうブワーって空を飛んでくのかと思ってたのに、決戦を前にしてなんで三人でのんびりと歩いていってるのさ?」
「わがまま言わないでください。相手は魔女なのです。飛行魔法はそれほど魔力を消費しないとはいえ、わずかでも魔力は温存するに越した事はないでしょう」
ブー垂れる友人を呆れるように横目で見つめながら、フィルエッテは彼女を軽く窘める。
「でも、わたしもススメさんの言う通りだと思います! こう、空から向かっていった方がなんというか、緊迫感あるように感じられるじゃないですか……!」
「無駄な緊迫感で魔女が倒せるなら、ワタシだってそうするわ。シャル、特にあなたは魔女との戦いにおいて勝利の要となるのだから、その時まで極力魔力の消費を抑えるのを徹底しなさい。……ワタシたちが全力をもってしても勝てる可能性の薄い戦いなのだから、ほんの少しでも勝てる可能性を上げるためには、詰められるところは徹底的に詰めるべきなのよ」
「っ……わかってますよ、もちろん……」
シャルエッテはなるべく普段通りのテンションを維持しようとしていたが、やはり緊張に支配されてしまっているのか、歩く動きもどことなく固く見えてしまっていた。
そんな妹弟子の様子に「ハァ……」ため息を吐きながらも、フィルエッテは彼女を励ますように微笑を浮かべる。
「大丈夫よ。勝てる可能性はわずかであっても、そのわずかな可能性を確かなものにするために、今日まで準備してきたのでしょ?」
「フィルちゃん……」
「それに、ワタシたちは『魔女の弟子』よ? 弟子はいずれ師を超える事も考えなきゃ。……一人では魔女を越えられなくても、二人でならきっと、魔女を越えるという奇跡だって起こせるはずよ」
「っ……はい! わたしたち二人で、日傘の魔女を倒しましょう!」
すっかりと気合いを入れたシャルエッテに、普段通りに落ち着いているフィルエッテ。二人の魔法使いの少女たちの様子を見て、進はヴェルレインがどれほどの実力を持っているかわからないままではいるが、それでも二人ならきっと勝てるだろうと、信頼のこもった瞳で彼女は二人を見つめるのであった。
◯
そんな会話をしているうちに、三人は狭間山の入り口にまでたどり着く。木々が生いしげ、高くそびえる山はまるで世界そのものから切り離されたかのように、周辺と比べて明らかに異様な空気に包まれていた。
「認識遮断と人払いの結界が張られていますね……どうやらワタシたち以外の邪魔者は、徹底的に排除する気でいるようです。……上空の方にも、強い結界が張られています。どちらにしろ、空からの侵入はできなかったようですね」
「うーん……奇襲とかは仕掛けられないって事か。でも正面からとか、明らかに罠張ってますよーってやつだよね?」
「……いえ、正々堂々と正面から入山しましょう。あの方の成そうとしている目的は未だ測りかねていますが、その道程には予測がついてます。自分の元にワタシたちがたどり着くまで、あの方が罠を張っているという事はないでしょう」
そう言っていつの間にかローブを羽織っていたフィルエッテは、躊躇なく山道の入り口の階段へと足をかけた。
「……なんつーか、ああ見えてけっこう肝が据わってるよね、フィルルちゃんって」
「フィルちゃんは普段はクールだけど、大胆なところもカッコいいのですよ……!」
姉弟子を自慢げに語るシャルエッテも、いつもの白いローブ姿に衣装をチェンジしていた。
「ほんじゃこちらも、敵の本拠地へと堂々と乗り込みますか!」
「はい!」
意気揚々とフィルエッテに続いて、山の中へと入っていく進とシャルエッテ。しかし歩いて十分ほどして、進の息が徐々にあがっていった。
「あれー? 狭間山の傾斜って、そんなに急じゃないはずなんだけどなぁ……なんつーか、空気がメチャクチャ重たいっていうか……」
「っ……そうか。今この山は人間界ではありえないほどに自然魔力に満ちあふれて、聖域と化していたのでしたね……! 進さん、少しお待ちを」
そう言ってフィルエッテは立ち止まり、何もない空間から鎖が巻かれた杖を取り出して、杖の先をかざして彼女に魔法をかける。少しして、進の周りに淡い光が彼女の全身を包んだのであった。
「……うおっ⁉︎ 一気に空気が軽くなった!」
「進さんの身体をマナが触れないよう、薄い結界を張りました。濃い魔力は人の身体には毒になりますからね。これでしばらくは山の中にいても、身体が楽でいられるでしょう」
全身が想像以上に楽になったのが楽しいのか、進はその場でクルクルと回転する。
「サンキュー、フィルルちゃん! ……あ! でも、魔力温存したいって言ってたのに、余計な魔力使わせちゃったかな?」
「ご安心を。これぐらいの結界なら、さほど魔力は消費しませんので」
「そっか。……でもやっぱりごめんね。アタシのわがままでみんなについて行って、そのせいでちょっとだとしても、魔力を使わせちゃったんだもの」
少しばかり気まずげな表情になる進に対し、なぜかフィルエッテはクスクスと小さく笑いだす。
「なんでそこで笑うん⁉︎ アタシなりに真剣だったんだけど……」
「ああいえ、申し訳ありません。……安心してください、進さん。シャルが進さんもついてきてくれた方が嬉しいという意味、少しだけわかってきたんです」
「ほえ? まだ応援モードにも入ってないのに?」
「……あなたがいなければ、多分ワタシもシャルと同じように、いくばくか緊張していたと思うのです。でも、進さんのようなムードメーカーがいるおかげで、心が少しばかり軽くなっているのを今は感じます。それだけでも、ワタシはあなたに感謝しなければなりません」
微笑み、礼を言うフィルエッテに、なぜか進は身体を震えさせる。
「はぁー……クール系美少女の笑顔独占できるとか最高かよ……!」
「あ、今のは素直に気持ち悪いです」
「ちょっと、わたしがいるのも忘れないでください! わたしだってフィルちゃんの笑顔を堪能しています!」
「あなたも黙ってなさい、シャル」
再び呆れ顔になるフィルエッテだが、それでも彼女たちとの何気ないやり取りに、表にしていなかった緊張がやわらいでいくのを改めて感じるのであった。
そうして山道を少しずつ進んでいく三人。目的地である丘の上の広場まで舗装された山道は続いているので、登山自体はそれほど大変なものではなかった。
「そういやさ、アタシもすっかり飲み込んでたけど、魔女って結局普通の魔法使いと何が違うん?」
ふとした疑問をたずねる進。彼女自身、魔法使いの存在を知ったのは最近の事であり、魔女に対する知識も薄かったのだ。
「そうですね……まだ広場まで五分ほどありますし、ワタシたちも復習がてら、魔女に関して我々の知る範囲で語りましょう」
――そうして『魔法使い』の少女は、ゆっくりと『魔女』について語りだす。
「『魔女』――それは我々魔法使いにとって到達点の一つであり、敬意と羨望、そして畏怖の意味が込められた、特別な称号なのです」




