第3話 娘から母へ
――六月十五日、午前九時――
ポツポツと降る雨音と灰色に染まる空のもと、形は様々なれど均一に並べられた墓石広がる静寂の霊園。その一角、広げられた黒い傘の下で美しい銀色の髪をたなびかせながら、少女は目の前の墓石に向けて一人微笑んでいた。
「久しぶりだね、お母さん」
優しく、穏やかに、少女は写真以外で顔を見た事がない母親に挨拶をする。
六月十五日――この日は黒澤白鐘の誕生日であり、彼女の母親である黒澤碧の命日でもあった。
病弱である碧は白鐘を身籠った時に医者から、子供を生めば身体が耐えきれずに死んでしまうであろうと告げられたらしい。その医者の言う通り、彼女は娘を生んですぐに亡くなってしまった。
それ以来、毎年六月十五日は父と共に母の墓参りに行くのが黒澤家の通例行事となった。白鐘にとっては自身の誕生日である以上に、命を賭して自分を生んでくれた母へ追悼し、感謝する大切な日であったのだ。
――黒澤白鐘は母のことを詳しくは知らない。
父から聞く印象は、もっぱら天然であったということ。時に大人しく、時に大胆に。その行動原理はその場で思いついた考えを即座に実行するアグレッシブさにあり、とても病弱だとは思えないほどに活発的であったという。だが頭が悪いというわけではなく、心に芯を持ち、間違ってると思ったものには毅然として立ち向かう強さを秘めていた。
それを聞くまでは、白鐘は母に対して穏やかで儚げな印象を持っていた。母が写った写真はどれも優しげな笑みを浮かべており、父の言うような大胆な人間とは程遠いものであったのだ。
だが、つい先日父から母が実家を出る際のアグレッシブであったエピソードを聞いて一気に母のそれまでのイメージは見事に崩れ去った。ヤクザの家系であったというのも含めて、母が活発的だったという事実にもはや疑いはしない。
――でも、そんな心の強さがあったからきっと、お母さんはあたしを命懸けで生む事を決めたのだろう――。
たとえ会った事がなくとも、白鐘は母を尊敬していた。出産すれば死ぬ――それがわかっていてもなお、母は娘を生む事を選んでくれたのだから。
「お母さん……この二ヶ月半で、あたしやお父さんの周りはすごく変わったよ。本物の魔法使いは現れるし、お父さんは魔法で若返るし、あたしはさらわれたり、裏社会の人たちの事件に巻き込まれたり……本当に、すごく濃密な二ヶ月だった」
白鐘は劇的に環境が変わったこの二ヶ月半を振り返る。
――魔法で父が若返り、魔法使いの少女と同居する事になったこと。
――同級生と魔法使いにさらわれ、父が助けに来てくれたこと。
――近所の女の子がさらわれ、魔法使いの少女と一緒に助け出そうとしたこと。
――学校がゾンビパニックになったこと。
――二人の魔法使いの決闘を見守ったこと。
――親友の父親が狼男になったり、半グレに襲われそうになったこと。
――父を幼い頃に虐待したマフィアと父が戦ったこと。
――父がかつての不良仲間であったヤクザと決闘したこと。
こうして並べるだけでも、あまりにもいろいろな事がありすぎた。きっとこれからも、白鐘と彼女の家族にとっての受難の日々は続くかもしれない。
「たまにね、やっぱりつらい事があって、心が挫けそうになった事も何度もあった。…………でもね、お母さん」
一度深く目を伏せるも、すぐに顔を上げて爽やかな笑みを彼女は浮かべる。
「あたし……今の毎日がすごく楽しいんだ。お父さんと同じ学校に通うってのはなんだかもどかしく感じる事もあるけど、シャルちゃんやフィルエッテさんに出会えた事、四人で過ごす日々はすごく刺激的で、不謹慎かもしれないけど……怖いと思う事も含めて、みんなで一緒に乗り越えるために頑張るのがすごく楽しい……!」
様々な巨悪と衝突し、そのたびにつらい思いをする事も多かった。それでも、父や友人たちとその困難を乗り越えるために踏み出した一歩を、白鐘は尊いと思えたのだ。
「えへへ、日常としてはあまりにも波瀾万丈だけど、こういう青春も悪くないかなぁって、今は思えてる。それに……」
白鐘の脳裏に、一人の少年の後ろ姿が浮かぶ。
――普段はぐーたらで、頼りなくて、それは今もあんまり変わってなくて……それでも、誰よりも強くて、いざという時は頼りがいがあって、背は小さくなったのに、誰よりも背中が大きく見えた、自分と同じ銀色の長い髪をたなびかせた、あたしにとって誰よりも大切な家族――。
胸が高鳴る。その姿、細かな仕草、そして時折見せてくれる、若返ったのにかつてと変わらないはにかんだ笑み――彼のそんな一面を思い起こすだけで、自然と頬は昂揚してしまう。
「それにね、最近なんとなくだけどわかってきたんだ…………お母さんが、お父さんのことを好きになった理由……」
「――何が好きになったって?」
突然横からかけられた声に、白鐘はギョッとした表情を向けながら思わず飛びのいてしまう。
「お、お父さんッ! いつの間に⁉︎」
いつから立っていたであろうか、黒いスーツに身を包んだ若返りし姿の父――黒澤諏方はキョトンとした表情で首を傾げている。
「ああいや、戻ったのは今ちょうどだけど……もしかして、俺には聞かせられない内緒の話だったりした?」
本当に白鐘の言葉を聞いていなかったのだろう、諏方はからかうような意地の悪い笑みを見せていた。
「まったく……これだからデリカシーのない男親は。娘と母親同士の内緒話なんて付き物でしょ……!」
「えと……うん、なんか悪かった」
父としては冗談のつもりであったが、娘の真っ赤に激昂する顔を見て思った以上に怒らせてしまったのだと反省する。
「……で、お供え用の花を買いに行ったわりにはずいぶんと時間かかったわね?」
「あ、ああ! いやー、なかなかいい花が揃ってたもんで、どれにするかマヨッチマッテサー、アハハ……」
確かに父の右手には、菊を始めとした色とりどりの花束が握りしめられている。もう片方の手には墓にかける用の水の入った桶が握られていた。
父の言う通り、先ほどまで近くにある花屋でお供え用の花を仕立ててはいたのだろう。それにしても、桶を霊園から借りるのも含めてここからそれほど距離はないし、時間もかからないはずだ。だが父が花と桶を用意して戻ってくるまでに三十分は要している。父が花と桶の準備をする以外に何かしていたのは明らかであった。
「…………お父さん、何か隠し事してる?」
妙に焦るような父の様子を訝しむ娘。父は唐突に口笛を吹き出し始め、怪しさはさらに増すのだった。
「な、なんでもねえよ⁉︎ ほ、ほら! 早くお母さんのお墓をキレイにして、花も供えるぞ!」
やはり父の挙動は怪しさ満点ではあったが、妙に頑固なところがある父にこれ以上追求しても何があったか口を割らないだろうと白鐘は諦めのため息をつきながら、花を供えるために父から花束を受け取る。
雨ですでに墓石は濡れていたものの、細かい砂の汚れ等は洗い流されてはおらず、桶の水を上から注いで布巾で磨きあげる。
ある程度汚れを拭き取った後、左右の花立てに花を三本ずつ供える。黄色の菊、白の百合、紫のスターチス――三色の花を、左右に一本ずつ。
灰色だけの寂寥であったお墓も、花を供えられて一気に色鮮やかとなった。これで天気も良ければなおキレイに見えたであろう。
続けて諏方は同じく墓に供える用の線香を取り出す。この雨ではすぐに火も消えてしまうであろうが、それでも滅多に来る事のないお墓参りなのだからと、火をつけて墓石の前に置かれた線香立てにかける。一本手渡された白鐘も、同じように墓に線香を供える。
合掌、黙祷――しばらくの間、雨音のみが耳を響かせながら、二人は無言で墓石の前で手を合わせる。
どれほど経っただろうか、諏方は一度呼吸を整えた後、ゆっくりとまぶたを開ける。
「……久しぶりだな、碧」
墓の下で眠っているかつての妻に、諏方は穏やかな笑みを向け、優しく語りかける。
「というか、こっちの姿の方がお前には馴染みがあるよな? ……信じられないかもしれないけど、若返っちまったんだ、俺」




