第37話 月下の語らい――後――②
「儂が何者か――それがおぬしの問いか?」
月明かりが淡く照らしだす古き良き旅館のような、空間そのものに静謐さを感じさせる和の個室。深き夜を迎え、虫たちのさざめくような小さな鳴き声が鼓膜を響かせる。
向かい合うは少年と老人――二人は共に真剣な眼差しで互いを睨み合い、わずかに漏れる吐息さえも耳に痛く刺さるほどの緊張に満ちた空気が流れる。
「……二十三年前のデュアルタワービルで起きたテロ事件――あれはアンタの命を狙ったために起こされた事件だ。アンタの地位を考えれば、裏社会の人間にとってはたしかにその首は魅力的だろうさ。それでも……たかがヤクザのトップであるアンタを狙ったにしては、あのテロはあまりにも大規模すぎた。アンタは本当にただのヤクザなのか? それとも……アンタには別の裏の『顔』がまだあるのか?」
当時の光景を思い出しながら言葉を口にするたびに、まるで喉が焼けるように呼吸そのものが熱を帯びてるのではと錯覚してしまうほどに熱い。息も乱れ、異様な興奮に心臓が痛いほどに高鳴っている。
「儂の別の顔――か……」
老人はひたすら冷静に、大盃に入った酒をゆっくりと口に含む。そして盃を持ったまま、再び諏方のまっすぐな視線を見つめ返して――、
「なんで糞餓鬼ごときに、儂の秘密を言わなきゃならんのじゃ? ゔぁーか」
「………………あ?」
「つか、なんでそこまで儂のことを知りたがるんじゃ? まさか、儂の娘をかどわかしといて、父親の儂まで口説き落とす気か? きもちわる」
なおも嘲るように茶化す老人に対し、諏方の怒りは頂点を超え、そばにあったテーブルの角を拳で叩き割ってしまう。
「わかってんのかよ、クソジジイッ! アンタのせいで、あのテロでテメェの息子が亡くなったようなもんなんだぞッ⁉︎」
「っ……」
源隆にとっても、その戦いは心を締めつけるほどに苦い過去であった。
二十三年前――テロを起こした者たちの正体は『フィアー』と呼ばれる傭兵集団。彼らは他国の戦争などに何度も介入し、多くの戦場を血に染め上げた。当時はテレビでも何度となくその名は報道され、一部の国では英雄視されるほどの『戦争』のプロであった。
「傭兵集団『フィアー』……あのテロ事件でアイツらを雇ったのは、当時のアンタの部下だった。……ヤクザの世界において、上司が部下に下克上されるだなんて事はそれほど珍しくはねえ。だけど……ただのヤクザが親に反乱するために、戦争屋を雇ってビルを丸ごと占拠するなんざ聞いた事がねえ⁉︎ オレたち『三巨頭』が突入したあのビルは、間違いなく『戦場』だった……!」
城山市と桑扶市――二つの町を象徴するビルはあの日、銃弾飛び交う『戦場』となった。
「……アンタが本当にただのヤクザの会長なら、アイツらがテロを起こしてまで手に入れたくなるほどの価値が、アンタの首にあったとは思えねえ……」
「…………」
「もう一度訊く……クソジジイ、アンタはいったい何モンなんだ……⁉︎」
諏方は落ち着きを取り戻し、真剣な眼差しで老人に再度問いかける。
「…………」
老人はしばらく口を開かぬまま盃を畳に置き、その横に並ぶように置かれていたキセルを手に取り、火を点けて静かに煙を吸い、吐き出す。
「黒澤諏方よ……おぬしには、この地球が何色に見える?」
「…………は?」
唐突に突拍子もない問いを返され、諏方はしばし呆然してしまい、答えるのに少し時間を要してしまった。
「……青だろ、そりゃ?」
当然の返答――地球は青色というのは直接目にする事がなくとも、常識として知覚される程度の話でしかない。
だが――、
「儂にはのう……黒く見えるんじゃあのう」
――本来常識ではありえない色を、老人は口にした。
「……は? 今になってボケが進んだか、クソジジイ?」
今度は諏方の方が嫌み含む言葉で煽るも、老人は真剣な表情を崩さないでいる。
「たしかに光の当たる表面だけなら青くも見えよう。じゃがのう……ほんの少しでも深い海の底を潜れば、そこに広がるは黒い深海。真っ黒も黒。光すら飲みこむほどの黒こそが、この地球そのものの真実の色よ」
「っ……?」
未だ老人の言葉の要領を得られず、諏方は首をかしげることしかできない。
「黒澤諏方よ……おぬしはその暗い海の水面に足をかけてる状態じゃ。本来ならば青が広がる表の世界は、魔法使いという常識の外と出会った事によって、裏の世界へと繋がってしまった」
「…………」
「じゃが、おぬしが立っているのはまだ浅瀬じゃ。少し裏が見える程度なら、人としての常識は保てよう。じゃが……浅瀬に立つおぬしの足をつかみ、深海に引きずりこもうとする者たちがこれから大勢現れる。おぬしが望む望まないに関わらずじゃ……。そしてその手はおぬしだけじゃない――おぬしの娘である白鐘や、おぬしと関わった者たちをも巻き込もうとするじゃろう……」
「ッ――⁉︎」
諏方はここにきてようやく、老人の言葉の意味を知る。
蒼龍寺源隆の正体を知る事――それはすなわち、本来関わるべきではない世界へ関わる事となり、それは同時に白鐘たちを危険な世界へと巻きこむ事に繋がりかねないという、老人からの警告でもあったのだ。
「……つまりは、アンタが何者であるかを知らない方がいいって事か?」
「いや、遅かれ早かれ、いずれか知る事にはなるじゃろうのう……。浅瀬でも黒い海に立ったというのは、いずれその世界へと向かい合わなければならぬという事なんじゃよ」
キセルの口から吐き出される煙が、月明かりの照らす室内にゆらゆらとゆらめく。しばしの間、重い空気とともに無言の時間が流れる。
「……つーか、俺がシャルエッテとの出会いも知ってんのな。たく、どこまで俺を監視してやがんだよ」
「……今言える事があるとすれば、おぬしの考えている通り、儂は『魔法使い』という存在を深く知れる位置におる。魔女の弟子であるシャルエッテ・ヴィラリーヌが人間界に来たという情報からおぬしの名が出たのじゃから、順序で言うなら逆なのじゃよ」
「…………」
「……ま、意図せずとも誰かを助けるためにこちら側の世界に足を踏み入れるのはおぬしらしくはあるがな。その行動の是非は問うまいて。じゃが……そのおぬしの善行が、黒澤白鐘を含めた周りを巻き込む事になった事実も、また否定できぬもの」
「…………」
源隆の言う通り、諏方が川で溺れるシャルエッテを助けたあの日から、彼と娘の日常は変わった。それはたしかに、娘や周りを非日常へと巻き込むキッカケになった事に間違いはないだろう。
それでも――、
「俺は――後悔してねえ」
呼吸が落ち着き、諏方は強く拳を握りしめる。
「俺はシャルエッテを助けた事を後悔してねえし、偶然とはいえ、若返った事で助けられた命だっていっぱいある。だから――あの日シャルエッテを助けた事も、碧を助けるためにテロリストたちと戦った事も、後悔なんてしたことない……!」
「っ……」
諏方の向けるまっすぐな眼差しに、源隆は思わずため息を漏らしてしまう。
「…………たく、せがれみてえな眼をしやがりおって……」
源隆は少しだけ嬉しげにキセルを口に含み、ゆっくりとまた煙を吐き出す。
「なら、儂から一つ助言をくれてやろう」
「ん? クソジジイが俺にか? どうせロクでもねえこったろ?」
「カカカ、儂も嫌われたもんじゃのう! なに、たいした話でもない。老人の戯言と切り捨てたければそれでもよい」
いつもの調子の笑い顔に一瞬戻るも、すぐさま唇を引き結び、真剣な瞳で老人は義息子をまっすぐに見やる。
「――もっと強くなれ、黒澤諏方」
「っ……⁉︎」
それはあまりにも単純な助言であり、しかし老人の普段聞けない落ち着いた声から、それがふざけたものではないのだけは諏方にも伝わる。
「おぬしやおぬしの大切な者たちを深海に引きずり込もうとする者たちは、これからも数多現れる。その中には、おぬしがこれまで相手にしてきた者たちよりも強く、厄介な力を持つ者たちもおろう。だから、今よりも強くなるのじゃ。あの時のように、大切なものを取りこぼさぬために」
「っ……」
――源隆の言葉は諏方の知る限り、真っ当な形で彼に向けられた初めての真剣な言葉であった。
内容だけならたしかにそれほど難しい話ではない。守りたい者のために強くなるべきというのは当たり前の事だ。
それでも、老人にとってこの単純な言葉こそが、諏方に伝えるべき最も重要な助言であった。
――源隆もまた、あの凄惨なテロ事件で力及ばずに、息子を失ってしまった父親であったのだから――。
「……これから、もっと強い奴らが現れる――か」
今まで相対してきた敵たちが強くないと言ってしまえば嘘になる。多かれ少なかれ、彼らは諏方や周りの者たちを苦しめてきたのは間違いないのだから。
――だがそれでも、明確に彼らよりも遥かに強い者を一人、諏方は知っている。
日傘を広げ、その下で妖しくほほ笑む魔女――少なくとも今の諏方にとって、戦う事になるであろう最大の敵――。
「……アンタの助言に従うのは癪だが…………アンタに言われずとも、俺は強くなるさ」
月明かりの下に照らされる、少年の力強い笑み――、
「これからどんな敵が来ようと、俺は俺の大切な家族を守ってみせる。そのためなら――今より何倍だって強くなってみせるぜ!」
自信に満ちた彼の表情を見つめ、老人は満足げに笑みをこぼす。
「その意気やよし――と、言いたいところじゃが、まずおぬしに必要なのは休息じゃろうのう?」
「っ――⁉︎」
その一言とともに額に一瞬激痛が走った後、諏方の目の前が真っ暗闇へと変わる。
目にも止まらぬ速さで源隆は、そばに置いてあった杖の柄を諏方の額にコツンと当てると、それだけで少年は気を失ってしまったのだった。
「たく、たかが半日寝たぐらいで全快してるつもりになってんじゃあねえのう。いくら身体が若返ったとて、精神まで若返って向こう見ずになる必要もねえからのう……」
少年は失神するも、しばらくして小さく安定した寝息が聞こえ始める。老人はキセルを逆さにして中の灰を灰皿に捨てた後、酒壺に入ったお酒を盃に注ぎ足し、再び口に含む。
――ふと、窓から月を見上げる。思い出すは、月明かりの下で無邪気にほほ笑む幼い頃の青髪の少女。
「まったく、おまえも酔狂な男を選んだものよのう……よい男はよい酒のように、相対するだけで酔わせてくれるとは言うが……カカ、儂もちとばかり、ほろ酔い気分になっちまったようじゃ」
月に向けて盃をかかげ、老公は一人、目を細めてその淡い輝きを見つめ続けるのであった。




