第36話 月下の語らい――side青葉――
「ウチがなんで源隆はんと結婚したのか……どすか?」
緊張混じりながらも真剣な表情で青葉は、柳の問い返しに静かにうなずく。
二人は庭園の見える縁側へと移動し、柳は持ってきた急須に入った緑茶をゆっくりと湯呑みに注ぐ。月明かりに漂う湯気がゆらめく熱々のお茶からは、高級であろう深みのある茶葉の香りが鼻腔をくすぐるのであった。
「……意外やわな。てっきり、青葉ちゃんはウチのこと嫌ってはるんやと思うてたけども」
「……避けていたのは認めます。でも、これ自体は純粋に昔から気になっていたんです。柳さんは元医者でお金にも困っていなかったでしょうし、何十歳も年上で、しかもヤクザの頭であるお父様となんで結婚したんだろうって……」
気まずげながらも、青葉は自身の発した問いに言葉を付け足す。今まであえて踏み込まなかった疑問を、彼女は勇気を出して柳本人に問いかけたのだ。
「そうどすな……とても複雑な事情にはなりはるんやけども――」
そんな彼女の勇気に応えるかのように、柳もまた真剣な眼差しを青葉へと向ける。
「――ウチ、ジジ専なんや…………!」
「……………………は?」
思いもよらなかった柳の解答に困惑し、青葉の目が点になってしまう。そんな彼女の反応を見て、柳の真剣だった表情が破顔する。
「アハハ! 元関西人としてはそこはツッコんでほしいところやったで、青葉ちゃん?」
「なっ……柳さん! 私は真剣に――」
「あはは、かんにんや青葉ちゃん。あんまりにも真面目な顔で訊かれたもんやから、ついからかいとうなってしもうたんや」
依然笑い倒している柳に腹が立つ以上に、普段落ち着いた雰囲気を纏っていた彼女が初めて見せる素の表情を前にして、青葉は驚きを隠せないでいた。
そしてひとしきり笑い終えた後、柳はいつもの落ち着いた笑みへと戻る。
「せやなぁ……ウチも最初は源隆はんが病院に運ばれた時、カタギやない人間って聞いて怖いお爺ちゃんなんやろなってのが第一印象やった。でもな……お世話してくうちに気づいてしもうたんや」
淹れたて熱々の茶をゆっくりとすすりながら、柳はのちの伴侶となる源隆が入院してたかつての情景を思い浮かべる。
――真っ白な病室。開いた窓からそよ風が吹きつけ、カーテンをゆらし、小鳥のさえずりが室内に小さく響く。
検査のため、病室に入った白衣を纏う柳の眼に映ったのは――ベッドの上で上半身を起こしたまま、開いた窓をじっと眺める老人の姿。普段は黒服の男たちに囲まれ、常に飄々とした態度を崩さなかった老獪な男が、たった一人の時に垣間見せた、まるでどこにでもいる普通の老人のような一面。
「――――ああ、この人はきっと、今まで独りで孤独に戦ってきはったんやろうな――あの人の寂しそうな背中を見て、なぜかそう思うてしもうたんや」
裏社会という、本来ならば関わりえない別の世界の住人――その世界の中でも頂点に立つような男が一人だけの時間で、ふいに見せてしまった寂しげな背中を、柳は今でも鮮烈に覚えている。
「ほんであの人のそないな姿を見てるうちにな、こうも思うてしもうてん――せめてウチだけでも、この人のそばにいてあげようって。ウチだけでも、この人の心を支えてあげなあかんのやなって……」
昔を思い起こしながら静かに語る柳に、青葉はしかし懐疑的な瞳を向けてしまう。
「……納得できません。何百人って部下がいるお父様が、よりにもよって孤独だなんて……」
「それは青葉ちゃんが、源隆はんのことを表面的にしか見てへんやからと思うよ。それとも……お父さんがそないな人ではないと断言できるほどに、あの人のことをちゃんと見てはったんやって、青葉ちゃんは自信を持って言えはる?」
「――っ⁉︎ それは……」
――言えるわけがなかった。
――父が私を見てくれなかったように、私だって、父のことを見ていなかったんだから。
答えに詰まってしまった青葉を見て、しかし柳はそんな彼女の心境を悟ったように、笑みをたたえたまま瞳を伏せる。
「……青葉ちゃんは優しいなぁ。ほんとだったら源隆はんのことも、それにウチのことやって、もっと嫌いになりはってもおかしゅうないはずやのに……それでも、今こうして歩み寄ろうとしてくれはるんやもん」
「わ、私は……別に、嫌いってわけじゃ……」
「わかってはるよ。ほんまに嫌いやったら、いくらお父さんの頼みかて絶対ここに顔を出さへんかったやろ? 白鐘ちゃんの顔見せてくれはったのも、ほんまに嫌ってたらできへんかったと思う」
「…………」
否定できなかった。青葉は父のもうすぐ死ぬかもだなんて言葉は、虚言であるのを最初から見抜いてはいた。それでも、彼の孫である白鐘の顔を見せてあげようとこの家に帰ってきたのは、見せずに本当に死んでしまったら、きっと自分は後悔してしまうのだろうと思えたから。
「……今の青葉ちゃんは、お父さんに対して心の壁をかけはってるん状態やと思うんわ。だから、表面的なあの人の姿は見えはっても、あの人の奥底にある別の姿まで見る事ができへんくなる」
蒼龍寺源隆の表面上の姿――それはやはり、青龍会という大きなヤクザ組織の長としての姿――柳の言葉通り、青葉は父のそれ以外の姿を今も知れないでいる。
「今すぐ仲直りしてほしいやなんてことはもちろん言わへん。でもな、これだけは約束してほしいどす……もし、源隆はんにこれから何があったとしても、青葉ちゃんには最後まで、お父さんの味方であってほしいんや」
「私が……お父さんの味方に……?」
「せや……ヤクザは裏切りが当たり前のように横行しはる世界。今は味方やと思うてる人でも、いつかは源隆はんを裏切って、あの人を追いつめる事もありえるのがヤクザの世界や」
それは青葉でも十分に理解している。泰山昇のような忠義心に厚い者もいれば、八咫孫一のような野心家も存在するのがヤクザの世界。望まずとも、青葉も幼い頃からそんな世界を近くで見てきたのだ。
「だからせめて、青葉ちゃんには最後まであの人の味方であってほしい。もう源隆はんと血が繋がった家族は孫である白鐘ちゃんと、娘の青葉ちゃんしか残ってへんのやから……」
少し寂しげな表情になる柳。
――ああ、この人は本当に、父のことが好きなんだろうなぁ――。
柳の願う言葉の熱量から、彼女の源隆への強い思いが少し伝わったような気が青葉には感じられた。
だがしかし、青葉はすぐに返事ができなかった。たった二日間で埋められるほど、父との心の溝は決して浅くはなかったからだ。
自分と母を放ったらかしにした父を、青葉は未だに許せないでいた。ヤクザだからではない――一人の父親として、青葉は源隆を許せないでいたのだ。
「私は……」
答えの見えぬまま言葉を出そうとして――ふいに先ほどの柳の言葉が頭をよぎる。
『――――ああ、この人はきっと、今まで独りで孤独に戦ってきはったんやろうな』
――父は独りで戦ってきた。妻を亡くし、子を二人亡くし、最後の子は父の元を離れて――その後に、果たして父に何が残ったであろうか。
たしかに、父の周りには常に頼りになる部下が何人もいた――それでも、真の意味で家族であった者たちが周りからいなくなった父は、どれほどの孤独を背負ってきたのであろうか。
「私は…………」
――最初から私と母から距離を離したのは父からだ。それがのちに孤独に襲われようとも、それは自業自得と言えるものであろう。
――だけど私は、果たしてお父様の真意を知らないままに、これからも父との距離にフィルターをかけたままでいいのだろうか――?
白鐘ちゃんと会わせなければ――父から連絡が来て、そう思えたあの時のように、私は父の味方でいない事に果たして後悔をしないのだろうか――?
考える――。
きっと正解なんてない――。
「私は――」
今すぐ答えを出す必要なんてないのかもしれない――。
だから、私の選ぶべき選択肢は――、
「――もし、お父様が最期にどれほどの悪行を行ったとしても、それが自分のためではなく、誰かのためのものであったのだとしたら――――私は、お父様の味方になります」
それは、私が後悔しないための選択――。
父を父として愛すことはできないかもしれない。それでも、私はこれからの父の姿をはっきりとこの目で見極め、納得したうえで最期には父の味方でいたい――父を最期まで愛した、母のように――。
「…………うん、そうどすな。今すぐ選ぶんやのうて、青葉ちゃんがこれからお父さんのことを見はって、納得したうえで選ぶのがええとウチも思う」
柳は青葉の返答に満足がいったのか、小さく安堵のため息を吐く。
「……それと、柳さん…………」
改まるように、青葉は女性の名をか細く呼ぶ。
「…………私、振袖の帯締めるの下手なんです。いつもお母様にやってもらってたから……」
「……っ」
――顔を真っ赤にしながらも青葉はまっすぐに、血の繋がらない母である彼女の瞳を見つめる。
「…………よかったら、その……教えてほしいんです……振袖の着付け方…………柳さんの振袖……いつ見ても着こなしが綺麗だから……」
「っ……!」
――彼女が歩み寄ろうとしているのは父親だけではない。彼女がこの言葉を絞り出すために、どれほどの勇気を必要としただろうか。
思わず涙がこぼれてしまいそうになるのを堪えて、柳はいつもの優しげな笑みで彼女の瞳を見つめ返し――、
「ふふ……ウチ、これでも振袖にはうるさい方やで?」
「っ……はい……! 望むところです……!」
月明かりの下――柳の前で初めて、青葉は自然な彼女らしいはにかんだ笑みを見せられたのであった。