第35話 月下の語らい――後――①
――風吹きすさぶ青空の下の高速道路。
本来、道路の上で行き交うはずの数多の車両はそのどれもが停止しており、立ってはいけないはずの人々がみな車から降りている。
――高速道路を使うものなら一目でわかる異様な光景。
――事故か、あるいは道が崩れたのか。
否――それ以上に異様な光景が、高速道路の上に広がっていた。
人々が取り囲む輪の中で二人――銀色の長い髪をたなびかせ、白い特攻服を身に纏った少年と、オールバックで青いコートを着た少年。
二人はそれぞれ傷だらけで、共に息を切らしながらも互いに強く睨み合っていた。
少年たちを囲む人々は誰もが二人を感嘆の眼差しで見つめ、息を呑んでいる。
まるで時が止まったかのように静かなこの世界は、絶え間なく車が走行しているはずの高速道路の上では本来ありえないはずの光景だ。
「…………っ!」
静止された世界の中で、銀髪の少年は何かに耐えきれなくなったかのように、一人嗚咽を漏らした。
『……泣いているのか、黒澤諏方?』
視線を外さぬまま、オールバックの少年は問いかける。
『うるせえ……うるせえうるせえうるせえ…………!』
右腕で涙を拭う。しかし、どれだけ拭ってもあふれ出す涙は意志に反して止まらなかった。
『……テメェは悔しくねえのかよ…………?』
みっともなく涙をこぼしながらも、黒澤諏方はさらに強い眼差しでオールバックの少年を睨みつけた。
『こんな形で……こんな形で闘う事になって、テメェは悔しくねえのかって訊いてるんだよ⁉︎ 蒼龍寺葵司ッ!!』
◯
「――ッ⁉︎」
飛び起きる。目の前に広がるは一面の闇。呼吸は荒く、心臓が飛び出るかのように鼓動が激しく高鳴っていた。
「っ…………」
胸を押さえ、呼吸を落ち着かせる。鼓動がある程度静まる頃、改めて前方を見渡す。
視線の先には月明かりで薄暗く照らされた白い壁。首を軽く左右に振り、見覚えのある景色であると認識はするも、頭に靄がかかったかのように思考は定まらず、しばらく自身がどこにいるのか把握することができなかった。
「ここは……いったい…………」
「おぬしが泊まっていた部屋じゃよ。しかし驚いたのう……よもや、あれほどの傷を負いながら半日程度で目を覚ますとはのう」
「…………」
ボーとした頭のまま声のした方向に首を動かし、少しして黒澤諏方は驚きで目を見開かせた。
「どわああああああッッ――⁉︎ 何してんだクソジジイ⁉︎」
布団の上にいた諏方は、上半身だけを起こした状態のままものすごいスピードで老人から距離を離す。そんな様子を老人は酒の入った特大の盃片手に、実に楽しげに笑いながら眺めていた。
「なんじゃい、龍に睨まれた蛙のように怯えおってからに。せっかく看病してやってるというのに、失礼な奴じゃあのう」
そう言いながら老人はなお楽しげに、盃の中の酒を口に含む。看病とは言うが、酒を片手にしているその姿はとても献身的に看病している様子には見えなかった。
「っ……俺はいったい……?」
諏方は呆れ半分、混乱半分の思考を整理するため、周りを改めて見渡して状況を整理する。老人の言う通り、二人が今いる部屋は蒼龍寺邸の諏方が泊まっていた客間であった。部屋を照らすのは月明かりのみであったが、目が慣れて薄暗闇の中でも部屋の状態が把握できるようにはなった。
「ぐっ……!」
ここにきて思い出したかのように、身体中をピリリと痛みが疾っていく。
「下手に身体を動かすんじゃねえのう。儂の妻の治療を受けたとはいえ、本来ならば絶命してもおかしかねえ怪我だったんじゃからのう」
嫁自慢も含めてか、やはり楽しげな調子で老人は語る。
「……柳さんが、治してくれたのか……?」
「そうじゃ。柳が元医者だという話は聞いとるじゃろ? おぬしが気ぃ失った後、あやつがすぐさま応急処置してくれたおかげで、おぬしに大事はなかったんじゃからのう」
◯
「あら? どないしなはったん、青葉ちゃん?」
「えっと、そのぉ……」
台所の水場にて、柳が先ほどまで諏方の額を濡らしていたタオルを洗っていたその場に、青葉が気まずげな表情で入っていった。
「白鐘ちゃんたちならさっきまで四郎はん……諏方はんに付きっきりで看病しておって、今しがた部屋に戻ってお休みしたところどすえ」
「あ……はい……」
青葉は気まずげな表情のまま、彼女から目を逸らして床を見つめていた。そこからしばらく無言の時間が続くも、少しして青葉の方から口を開く。
「その…………ありがとうございます。四郎くん……諏方お兄ちゃんを治してくれて……」
「……礼には及ばへんよ。元医者として、当たり前の事をしはっただけや」
「…………」
穏やかな表情で語る柳に何も返せず、青葉は再び口を閉ざしてしまう。その様子をチラッとだけ柳は見つめ、仕方ないといった顔で今度は彼女の方から口を開く。
「それだけを言いにきたんちゃうやろ、青葉ちゃん?」
「っ……」
柳に促されながらも、やはり青葉はしばらく無言になってしまっていたが、少し時間を置いた後に意を決して、目の前の彼女へとまっすぐに視線を向ける。
「お訊きしたいことがあるんです……柳さん……!」
その言葉を口にするために、どれだけの勇気を有したであろうか――タオルを洗い終えた柳は静かに水気を絞りながら、青葉の瞳を見つめ返す。
「初めて名前を呼んでくれはったな、青葉ちゃん」
「っ……!」
ハッとしたような表情のまま固まってしまう青葉とは対照的に、タオルを絞り終えた柳は心の底から嬉しそうな笑顔で彼女と正面を向かい合う。
「今からお茶淹れはるから、ゆっくりお話しましょか」
◯
「――つまりは、孫一との闘いで倒れた俺を柳さんが治療してくれた後、半日ほど寝てたって事か……」
「そういう事じゃあのう。妻に感謝するんじゃよ? あやつが応急処置せんかったら、今もおぬしは布団の中で悪夢を見とったままじゃったろうからのう」
「悪夢……」
諏方は先ほどまで見ていた夢を思い出せないでいる。ただ覚えているのは、それは悪夢というよりはきっと、とても悲しい夢であったであろうという事だけ。
「……オッケー。とりあえず、現状は把握できた。さてと――」
ふいに諏方は右の拳を握りしめて、突然源隆に向かって勢いよく殴りかかった。
「ッ――⁉︎」
だがしかし、源隆はあたかも諏方のパンチを予測していたかのように、首を横に傾けて彼の拳を軽くかわしたのだ。
「テメ……クソジジイ……!」
諏方は一瞬戸惑うも、すぐさま二発目三発目と両拳を繰り出す。しかし老人は表情一つ変える事なく、彼の拳をことごとくかわしていった。
「テメェ、クソジジイ! 俺が勝ったら一発ブン殴らせろって約束だったじゃねえか⁉︎」
「ああ、約束したとも。じゃが、それをかわさぬとは一言も言ってねえのう?」
「なっ――⁉︎ 屁理屈こいてんじゃねえ、クソジジイッ!」
その後も何発か諏方は拳を老人に向けて放つが、結局一発とも彼に当たる事はなかった。
「治りたての身体で殴ろうとも、赤子ですらかわすのは容易いんじゃあのう。まあたとえ全快であっても、当てさせる気はなかったがのう」
「ぐっ……クソジジイ……!」
明らかな挑発に怒りがさらに燃え上がるも、畳に盃の酒一滴すらこぼれぬほど最小限の動きでかわされている事に気がつき、冷静さを取り戻して諏方はため息を吐いてから拳を引っこめる。
「覚えてやがれよ、クソジジイ……」
「カカカ! ほざくなら、もっと鍛えるんがいいんじゃあのう」
老人の言動はやはり癪に触るが、体力のほとんどが残っていない今の状態ではどうあがいても彼を殴りつける事ができないのも理解はしているため、諏方はおとなしく拳を引っこめる。
「クソジジイ……テメェ、いつから俺が黒澤諏方だと気づいていやがった?」
諏方はこれ以上老人にイラだっていても仕方がないと、話題を変える事にする。老人はしばし沈黙するも、酒をまた一口含んだ後――、
「もちろん最初からじゃ。八咫のも言うとったが、おぬしの気はそう簡単にごまかせるもんじゃあねえのう」
「っ……」
諏方自身、振り返ればなんとなくそんな気はしていた。時折彼に向けられていた老人の視線は、明らかに初めて会った少年に向けるものではなかったように感じられたのだ。
「……本人から直接聞いたわけじゃねえが、前に戦ったマフィアの話だと、裏社会じゃ魔法使いの存在がある程度認知されてるみてえだな。俺が若返ってた事に驚いてなかったあたり、アンタも魔法についての知識はそれなりにあると見た。いったい、アンタは魔法使いについてどれだけ知ってやがるんだ?」
蒼龍寺源隆はヤクザ界の頂点にある『青龍会』の会長。当然、裏社会において彼の地位は絶大なものだ。
――よくよく考えてみても、そんな彼が魔法使いの存在を認知していないはずがなかったのだ。
魔法使いの存在を知っているのなら、諏方が若返っていた事に最初から気づいて、なおかつ驚くような反応を見せなかった事にも辻褄がつく。
果たして、老人はどこまで魔法使いの存在を知っているのであろうか――。
「……それを知ってなんになる? 今回の騒動におぬしを巻き込んだ手前で言えることでもねえが、おぬしは表側の人間じゃ。魔法使いの存在を知ってるとはいえ、世間的に見れば一般人でしかないおぬしが裏社会の事情を知ったところで、なんの特にもなりゃしねえのう」
「っ……」
これは老人の言う通りでもあった。源隆はたしかに諏方の義父にはあたるものの、妻である碧は亡くなる以前からすでに蒼龍寺家から縁を切った身。つまりは諏方自身も、裏社会の人間というわけではないのだ。
そんな諏方が裏社会の事情を知ったところで、得るものは余計な事態に巻き込まれる可能性が高まるという事だけ。自身だけならともかく、白鐘やシャルエッテたちまで巻き込んでしまう可能性がある以上、今より先に彼らの世界に踏みこむ必要性などあるはずもなかった。
「……じゃあせめて、これだけでも答えてくれ、クソジジイ」
それでも、諏方は一つ問いただせなければならない疑問があった。
その疑問は、昔から諏方が源隆に対し抱いていたもの。だが、知ってしまえば後戻りのできぬ解答を返される可能性を考え、今まで踏み込めなかった禁忌――。
「二十三年前――デュアルタワービルで起きたテロ事件」
「っ……!」
その話題を口に出され、ここにきて初めて老人の瞳が鋭くなる。
「……あの事件に俺たち『三巨頭』が関わった理由は、誘拐された碧を救い出すため。そして……あの戦いで俺以外の二人は命を落とした……」
「…………」
黒澤諏方、蒼龍寺葵司、園宮茜――三巨頭と呼ばれた三人の不良は、囚われた蒼龍寺碧を救うためにテロリストたちと戦い、そして諏方を除いた二人の少年少女の命が犠牲となった。
今思い出しても、あれほどに心が張り裂けた戦いは諏方の中にはない。
――だが、あの戦いにおいてテロリストたちの狙いは、蒼龍寺碧にはなかったのだ――。
「あのテロリストたちの狙いは、蒼龍寺源隆――アンタの命だった」
デュアルタワービルのテロリスト襲撃――その襲撃は、当時あのビルにいた蒼龍寺源隆を狙って起こされたものであったのだ。
「確かにアンタは、裏社会では大物なのかもしれねえ。だがよ……結局はヤクザの首領でしかないアンタ一人のために、テロリストどもがわざわざビルを占拠してまで命を狙う理由が俺にはわからねえんだ……!」
政治家やそれに近しい者ならばいざ知らず、たかがヤクザのためにテロリストたちがテロを起こした理由――その疑問は昔から、諏方がずっと抱いてきた蒼龍寺源隆に対しての疑念であった。
「蒼龍寺源隆――アンタはいったい、何モンなんだ?」




