第20話 ゆずれぬ思い、その先に
ニヤリと笑みを浮かべる蒼龍寺源隆を除き、その場にいた全ての者が――常に冷静さを崩さなかった孫一でさえ、目を見開いて驚きの様子を隠せずにいた。
「グホッ――! …………ハァ……ハァ……」
口から血を吐き出し、息絶え絶えながらも、泰山昇は立ち上がった。腕は力なくダラーンと垂れ下がり、目の光も少しずつ薄まっていたのだが、その奥に灯る闘志はまだ燃え尽きてはいなかった。
「……驚いたな。まともに俺の一撃を受けて、立っていられたのは貴様で三人目だ」
人差し指で眼鏡を押し上げ、孫一は少なからず敬意を込めた瞳で彼を見つめる。
「……だが、その様子では立っていられるのがやっとといったところだな。俺の気で貴様の体内は経絡、筋肉に内臓含めてズダボロ状態だ。今そうやって立っているだけでも身体に負荷がかかって、さらに内部を痛めつけているのだろう。……悪いことは言わん、また倒れておけ。それ以上無理をしたところで、貴様の敗北は覆らんぞ」
「ハァ……ハァ……」
わずかな吐息にも血の臭いが混じる。一見血は口から流れているだけで、全身は砂利で薄汚れているのみで大きなケガは見えないため、それほど重傷には思えないのだが、昇の身体の内部――内臓や筋繊維の一部は傷だらけで、呼吸すら痛みを伴うほどの深刻なダメージを負っているのだ。
もはや立っている事そのものが奇跡。今ここで膝を折って意識を失っても、誰も彼を責める事はできないであろう。
だが――それでも昇は倒れなかった。すでに死に体である身体は、彼の気合いだけで立ち続けているのだ。
「…………私は、あの日からずっと後悔を背負い続けている」
「……っ⁉︎」
声もわずかながら掠れてはいたが、それでも昇は懺悔にも等しい言葉を紡いでいく。
「葵司総長の妹君、碧さんが監禁されたあの『デュアルタワービル』事件……あの時、私は――いや、『蒼青龍』の誰もが総長の隣に立つ事ができなかった……あの時あの方の隣に立っていたのは、同じ三巨頭の二人だけだった……」
「っ……」
その事件は孫一もよく覚えていた。彼もチームのリーダーである諏方と同行する事はなかったが、それでも間接的に深く関わった事件であったからだ。
「あの時私がいれば――だなんて、くだらないたらればは言わない。私がいたとて総長の死を避けられたかといえば、私にそのような力はなかっただろう。……だが、それでも私はあの方のそばにいたかった、あの方のそばで戦いたかった。…………せめて、私の目であの方の死を見届けたかったッ……!」
激情に駆られ、気づけば昇の瞳から涙が流れていた。
情けなく見えるであろう――だが誰も、彼のその姿を笑う者はいない。強い思いが込められた彼の言葉を、遮るような無礼者はこの場にいなかったのだ。
くやしかった――最後の最後に、忠誠を誓った主の隣に立てなかった事が、彼のために拳を振るえなかった事が、何より――その死を見届けられなかった事が。
頼ってほしかった――相手はテロリスト。自分を含め、チームの仲間たちを巻き込みたくなかった彼の思いはわかっている。それでも――チームのメンバーの力を、彼には頼ってほしかったのだ。
蒼龍寺葵司が死してから二十三年が経つ――昇はあの日から一日たりとて、その日を後悔しない日はなかった。
それでも――、
『――あとは任せたぞ、昇』
――思い出すは電話越しに聞こえたいつも通りのような、しかし、たしかに覚悟を決めた漢の声。
――昇には、総長から託された言葉があった。
何を託されたのか、それは今も具体的にはわからない。
蒼青龍は残念ながら解散した。時代を象徴したカリスマのうち二人が亡くなり、不良という存在は自然と世間から淘汰されていったのだ。
――ならば、私が守るべきものとは――。
「――私は、この家を……青龍会を守る! ……あの人が命を懸けて守ってきたように……私もまた……命を懸けてでもこの家を――青龍会という家族を守るのだッ!!」
――いつか総長が辿ったかもしれない軌跡。その象徴を守るために、泰山昇は青龍会所属のヤクザになったのだ。
「泰山組長……」
昇の舎弟である泰山組のヤクザたちは、ただ組長の名を呼ぶことしかできない。ここで横槍を入れても、それは強き思いを背負って立ち上がった組長への侮辱にしかならないからであった。
「…………」
時折吐血が止まらないながらも、気迫を込めた瞳で睨み続ける彼の視線を、孫一は冷静に受け止める。
「なるほど……身体の崩壊に抗いながら未だ立ち続けるその諦めの悪さは、背負うものがあってこそか……」
一瞬、孫一の瞳に憐れみが混じったような色が見える――だが、その瞳は瞬時に射殺すような鋭いものへと変わり、
「悲劇の主人公ぶってんじゃねえよ――泰山昇」
その声には、明らかに怒りの感情が滲んでいた。
「重いものを背負っているのが自分だけだと思うなよ? 俺にも、蒼龍寺会長に指をささげるこの時までに、いろんな思いを背負いこんでいるんだ……!」
「っ……」
なるべく感情を抑えるようにと、孫一は冷淡な声のままそう言い放つが、その節々で何か覚悟を決めたような、そのような強い覚悟が彼の口から吐き出されていく。
「大小の問題ではない。俺とお前、互いに信念を持って対峙した以上、どちらかの思いは潰される――それだけの話なんだ」
右拳を固め、ゆっくりと孫一は昇に近づいていく。彼の放たれる気から、先ほど以上に強い殺気が感じられた。
「組長ッ――!!」
再びかけられる舎弟たちの声。それを受けてもなお、泰山組長は立ち上がり続ける事をやめず、孫一もまた歩みを止めはしなかった。
孫一の足は、昇の目の前に来たところで止まる。小さく深呼吸し、握りしめた右拳に静かに気を込める。
「……改めて敬意を表するよ、泰山組長。貴方の信念は、間違いなく本物だった」
「っ……」
「それでも――俺の信念もまた、他人に譲るわけにはいかないのだ」
拳を振り上げる。今度こそ、くらえば致命的な一撃となるであろうその拳を、今の昇に止められる手段はなかった。
昇はもはや立っている事がやっとの、生きた屍同然の状態。反撃はもちろん、孫一の拳をよける余力すらもう彼には残っていない。
「ハァ……ハァ……」
――それでも、瞳だけは強く彼を見すえる。決して彼の顔から逸らしはしない。それが、立つ事しかできない昇の最後の抵抗であった。
「殺しはしない。だが、二度とベッドから立ち上がれると思うなよ」
容赦なく振り下ろされる拳――もう間もなくして、その一撃は昇の身体を大きく吹き飛ばしていくであろう。
――申し訳ありません、葵司総長……!――。
心の中でそう謝りながら、昇は彼の拳を受け止め――、
――――ガシッ!
――その拳は昇の顔面に届く事なく、彼の目の前で突然に止まった。
「なっ――⁉︎」
自然と閉じてしまった瞳の先の暗闇から、孫一の戸惑い混じりの驚いてるような声が聞こえる。
そして――、
「――いい加減にしろよ、八咫孫一……!!」
――さらに聞こえたのは、昨日からよく耳にしていた少年の声。
瞳をゆっくりと開ける。薄ぼやけた視界の先に立っていたのは、女性のものと見まごうかのような美しい銀色の髪をたなびかせる少年。
「……っ⁉︎ 黒澤四郎……様……?」
「黒澤……諏方…………?」
共に戸惑いながら、少年の偽名を呼ぶ二人のヤクザ。
二人の間に一人立った黒澤諏方は、放たれた孫一の右拳を手首から強く握りしめて止めながら、怒りのこもった表情で目の前に立つかつての『仲間』の姿を見上げていたのだった。




