第17話 未来予知
先に動いたのは――泰山昇からであった。
「ハッ――!」
踏み込み、飛び出したそのスピードは声すら置き去りにし、認識した時にはすでに昇の身体は孫一のすぐ目の前にまで距離を詰めていた。
「はやっ――⁉︎」
まるで瞬間移動のようなあまりにも速いスピードに、孫一の背後に立っていた新人ヤクザの正人は思わず声をあげてしまう。
「フンッ――!」
続けて繰り出される、同じく目にも止まらぬ昇の拳。比較的軽めの一撃でも、まともにくらえば頬の骨が砕かれるであろうそれは――、
「ふん……!」
――わずかな上体のそらしで、あっけなくかわされてしまった。
軽く後方にステップを踏み、昇から少し間合いを空ける孫一。鷹の如き鋭き瞳は変わらず昇をとらえつつも、息一つ乱れていない。
「さすがにすんなりと一発で沈める事はできないようだな……」
「…………」
「だが……これはかわせるか⁉︎」
再び足を強く踏み込み、またも一瞬で相手との間合いを詰める昇。
続いて繰り出すは右フック。これも顔を横にそらしてかわされるが、間を空けず続けて左ジャブをかわした先の顔面へと放っていく。
「ハッ――! ラァッ――!!」
またもかわされるが、惑わず右、左と続けて拳を放つ昇。その一撃でも当たれば、たいていの人間は瀕死に至るであろう力と気を込められた拳。
だが――、
「くっ……!」
すでに十発以上放った拳は、しかしただ一撃も彼の顔面や身体にかすりもしなかった。
「ハァ……ハァ……」
昇の動きが止まる。構えは解かずとも額は汗で濡れて、息も一拍一拍大きく吐き出されていた。
「どうした? 互いにまだダメージを与えていないというのに、貴様だけがすでに追い詰められているではないか?」
「黙れ! 一撃だけでいい……ただ一撃与えられれば、それで私の勝ちなのだ……!」
ボクシングというのは拳による『パワー』が重要視されるイメージが強いが、与えられる一撃が重いのはあくまで大前提とされるものであり、最も重要なのは拳を当てられる『スピード』である。
どれほど破壊力のある一撃でも、当たらなければまったく意味をなさない。ジャブなどの軽い攻撃で牽制しつつ、間合いや相手の隙などを計算したうえで、いかに相手がかわしきれないスピードで一撃を与えられるか――一発KOが珍しくない世界だからこそ、スピードを重要視するボクサーは決して珍しくない。
泰山昇もその一人であった。もちろん与えられる一撃が致命傷になるようにと、当然パワーは鍛え上げている。だが何よりも、彼は拳と踏み込みのスピードを少しでも速く――相手が反応しきれないほどのスピードになるようにと重点を置いて鍛え上げてきたのだ。
彼の拳は常人の眼や反射神経ならば、まずかわせないほどのスピードを誇っている。だが、八咫孫一はその一撃を何度もかわし続けたのだ。
「クソッ――!!」
さらなる踏み込み。すでに昇の体力は悲鳴をあげていたが、彼は接近と攻撃のスピードを決してゆるめなかった。
初撃――。
二撃――――。
三撃――――――。
変わらず目にも止まらない速さの拳は――やはり孫一の頬をかすめる事すらなく、あっさりとかわされてしまう。
「なぜだ……なぜ当たらぬ……⁉︎」
攻撃が当たらない事へのイラだちと焦りで、すでに昇の冷静さは失われている。逆に孫一の方は変わらず息を乱す事なく、余裕ありげに中指で眼鏡を押しこむ仕草を見せていた。
泰山昇の拳は、間違いなく見てからかわせるものではない――それこそ、未来を予知できるような眼でもなければ、かわす事などできるはずがないのだ。
「……一度や二度ならともかく、私の拳を全てかわせるなど、それこそ未来を予知できるようなものでもなければ――」
「――できるとも、未来を予知する程度など」
「なっ……⁉︎」
あっけらかんと言い放つ孫一に、昇は戸惑いの表情を思わず浮かべてしまう。
「予知――というよりは予測だな。あらゆるデータを集め、そのデータを元に相手の動きを予測する。あらかじめ貴様とこうして闘う事を想定していた俺は、泰山昇のデータを集められるだけ集めた。貴様のこれまでの実績、戦い方……映像に残っているもの、写真に残っているもの、文章として残っているもの――貴様の闘いに関する資料を俺は、数日使って頭に入れ込んでおいたんだよ」
「な……私との闘いのために、そこまで……」
「直系組筆頭だからな……それぐらいの準備はするさ。あとは集めた貴様のデータを元に、あらゆる動きを脳内で想定した。どのような戦い方でも、予備動作と結果にはどうしても間が発生する。俺が見ていたのは貴様の攻撃そのものではない。踏み込み、攻撃に入るあらゆる予備動作を見極めれば、その後の貴様の動きを予知するには十分な情報となり得るんだよ」
「バカな……いくら私の情報を集めたとはいえ、パンチの予備動作から実際の攻撃までほとんど隙などないはずだ……!」
「十分なんだよ、そのわずかな隙でな。泰山昇、特に貴様は闘いにボクシングという型を取っている。俺はすでにボクシングに関しても多くの知識を取り入れていた」
「なっ――⁉︎」
「ボクシングだけではない。俺はあらゆる格闘技の知識を頭にインプットしている。格闘技を闘いに使う奴の闘い方は、結局はその格闘技というオリから抜け出せる事は滅多にない。自己流であれば知識が少ないゆえに後手に回ることになってしまう事も多いが、格闘技を使うものならばその格闘技の情報さえあれば、敵の動きをシミュレートするなどそう難しいものでもないんだよ」
「ぐっ……」
あらゆるデータを集めているとは言っているが、いくら予備動作で相手の動きを予測できるとはいえ、その予測に反応するための反射神経はやはり反則に近いものがある。データの処理能力、そして即座に動く事のできる反射神経は、すでに常人の域を逸脱していた。
「さらに言えば、貴様だけではない……青龍会直系組のデータは、各組長から末端の小物まで、全員分のデータを俺は頭に入れている」
「「「は――⁉︎」」」
昇の闘いを見守っていた直系組のヤクザたち全員が顔を青ざめる。孫一のデータに関する執念は、もはや化け物じみたものに彼らの目には映ってしまっていた。
「直上的に動くヤクザなどもう古い。ヤクザ同士の抗争において、情報というものは何よりの武器となる。その上であえて断言してやろう。泰山昇――もはや貴様の実力では、俺に勝つ事は絶対にできない……!」
「…………」
攻撃が当たらないという絶望的な状況――その中でも、泰山昇はむしろ冷静さを取り戻し、一度深呼吸して息を整えた。
「なるほど、たしかにお前の言う通り、私の攻撃はお前には届かないのだろう……だが、それがどうした?」
「っ……」
拳に気を纏わせる――。
焦る必要はない――。
攻撃が当たらないなど、そんな事は昇が諦める理由にはなり得なかった――。
「当たらぬなら、当てるまで拳を撃ち続けるだけ。かわすだけとは言えど、相手の予備動作から攻撃を読むにはかなりの集中力が必要なはずだ。私の体力が先に切れるか、お前の集中力が先に切れるか……改めて勝負だ、八咫孫一!」
「…………」
自信を取り戻した昇を相手に――しかし孫一は呆れるようなため息を吐き出した。
「どうやら……俺の想定していた以上に、貴様は俺という人間を知り得ていないらしい。それだけでも闘いにおいて有利であるという事実を喜ばしく思うべき事ではあるのだが――――裏を返せば、俺という人間にそれほど警戒していなかったという貴様の驕りに、何よりもハラワタが煮えくり返りそうだ……!」
イラだったような様子は今までも見せてはきたが、ここにきて明確に、八咫孫一は怒りの表情をあらわにする。
「改めて未来を予知してやろう、泰山昇――次の踏み込みで、貴様は俺に敗北する」




