第11話 蒼龍寺葵司という男
「――なんかの病気にかかっているのは本当の事なんじゃないですか……?」
「…………」
四郎と源隆――互いの瞳が相手の真意をはかるように、真剣な眼差しで見つめ合う。
今日の源隆の振る舞いを見る限り、彼がなんらかの病におかされているようには感じられなかった。しかし、目の前で彼が掴んでいる盃に入った液体は、健常な人間が飲むにはあまりにも鋭く鼻腔を突くような、尖った薬の匂いが漂っていたのだ。
諏方は特別医療にくわしいというわけでもないが、この匂いは間違いなく病院などで嗅いだ事のある香りであった。また、過去に彼は薬湯を使う不良とも戦った経験があり、その時に嗅いだ記憶のある匂いはまさに目の前の液体の匂いと酷似していたのだ。
「おじいさんの今の奥さんである柳さんは、元医者であると本人から聞きました。…… 別にそこに愛がないとは言いませんが、彼女があなたと結婚したのも、あなたを集中的に治療するためなんじゃないですか?」
依然、老人を見つめる諏方の瞳は鋭く、詰問の声にもわずかに厳しさが混じる。
「……諏方おじさんとずっと音信不通であったおじいさんが、今になって危篤になったからと最後に孫の顔を見たいと連絡をしたのも、本当の事なんじゃないですか? でも余計な心配をかけまいと、俺らの前では気丈に振る舞って、それでもつい遺言のような言葉を白鐘にこぼしてしまった――違いますか、源隆おじいさん?」
「…………」
源隆もまた、しばらく彼の瞳を黙ったまま見つめていたが、やがて諦めがついたかのように「フッ……」っと不敵な笑みを見せて、また盃を口元に近づける。
「存外に鼻がいいんじゃのう。これでも匂いがしないよう、かなり薄めたものを飲んでおったんじゃがのう……」
再びぐびっと盃を口にかたむけ、薬湯を一気に喉に通していく。見た目だけなら豪快に酒を飲んでいる図にも見えるが、飲んでいるものが薬だと思うとどこか老人の姿が相応に弱々しくも見えた。
「……数年前から心臓がちと痛みだしてのう。痛み自体は大したものでもないし、こうして薬を飲んでおれば大きく痛む回数も少ない。儂としては特にどうと思う事もないし、なんならマズイ薬を飲んでる方が嫌になるというもんじゃが、いかんせん青龍会の若い連中や柳がうるせえんでのう」
妻や部下たちのことを思い出し、思わず呆れたように笑う源隆。だが当の部下たちにとっては、長年青龍会の顔として生きてきた会長が心臓を悪くしているという事態は大騒動もののはずである。他のヤクザ組織に知られてしまえば、襲撃されるキッカケにもなりかねない。
何より、本人がおそらく自分の身体が長くもたないかもしれないのだと考えているのであろう。でなければ、孫である白鐘に『親より長く生きろ』などというメッセージをわざわざ伝える理由が諏方には思い浮かばないのだ。
「人間である以上、いつかは死ぬ時が来るものじゃ。違いはそれが遅いか早いかというだけ。むしろ、儂のような悪党がよくもまあここまで長生きできたものじゃと儂自身感心しておる――あるいは、悪党だからこそ長生きできたのやもしれんのう……」
老人は何を想うか、誰を想うか――目を細めて、夜の庭園をしばらく見つめる。
「まあ、こうは言うたが先の宴会でも宣言したように、儂はまだ死ぬ気は毛頭ない。……せめて、この青龍会を継ぐに足る者を選ぶその時までは、死にたくても死ねねえんじゃあのう……」
「青龍会を……継ぐ者……」
源隆の唯一の子である青葉が蒼龍寺の名を捨てた以上、現時点で正式に彼の後継者となりえる者はいない。
青龍会という大きな組織の後継ともなれば、どんなヤクザでも手が伸びるほどに欲しがるものだ。今は仲良く共に酒をくみ交わす直系の組同士であっても、後継を巡って争う事態も起こりかねない。
源隆の言葉通り、正式な後継者を選ぶまで彼は死ぬわけにはいかないのであろう。病におかされて弱々しく見えた老人の姿が、今は凛々しく強く――諏方の目には、そう見えたのだ。
「さて、老人の月見に長々付き合わせてすまんかったのう、四郎少年。明日は朝早くに青葉とここを発つのじゃろ? 小僧が起きておるにはもう遅い時間じゃ。そろそろ寝ておくのがいいじゃろうのう」
そう言って盃を真上に垂直になる角度まで持ち上げ、老人は残りわずかになった薬湯を全て飲み干し、静かに立ち上がる。そして四郎へと背を向けて、縁側を立ち去ろうとする。
「――最後に一つだけ、訊いていいですか?」
振り向かず庭園を見つめたまま、諏方は源隆を呼びかけてその足を止めさせる。その後すぐには質問せず、少ししてゆっくりと彼は問う。
「――おじいさんにとって、蒼龍寺葵司とはどんな人だったんですか?」
その問いはあまりにも予想外であったのだろう、源隆は心の底から驚いたような表情で四郎の背中へと振り返る。
諏方自身、なぜこのような質問をしてしまったのか、そこに深い意味など考えてはいなかった。だが宴会にて源隆が白鐘に対し、父親である諏方への印象を問うたように、源隆が葵司に対してどういう印象を抱いていたのか、ふと気になってしまったのだ。
「…………」
源隆はまたすぐには答えない。沈黙の中、風にゆれる木々の音だけが耳を素通りしていく。
「……カカ、また妙なことを訊くもんじゃあのう……」
「……たまに諏方おじさんが葵司さんのことを話していた時があったので、つい気になって」
互いに不良界の頂点である『三巨頭』に数えられた諏方と葵司。だが葵司相手にもまた、諏方はそれほど長い時間交流をはかっていたわけではない。拳を交わし、時に手を取り合って戦う事もあったが、それでも蒼龍寺葵司という人間を仲間である『蒼青龍』のメンバーや、妹の碧ほど深く知っているわけではないのだ。
「そうじゃのう……不良のくせに清廉実直というべきか、何に対しても真面目で、厳しく、そして家族や仲間というものを何よりも大切に想う男じゃった。少し向こう見ずなところがあるのが難じゃったがな」
「っ……」
たしかにと、源隆の語る葵司の人物像は諏方の見てきた彼そのものであった。その圧倒的な力とカリスマで多くの不良たちを従え、一般人に危害をくわえぬよう不良界を統制した男。自分の大切なもののためなら、命を懸けるのにためらう事のなかった男――。
たとえ彼との時間がわずかなものであったにせよ、その少なかった時間は今でも思い出に焼きつくほどに、諏方にとっても存在の大きい男であった。
――だからこそ、目の前で彼の死を見届けた諏方は今もなお――。
「……もし奴が存命であったなら、儂は迷わず葵司を後継者に選んでおった。息子だからというだけではない。これからのヤクザ界にとっても、葵司のような実直さを持った存在は必要であるべきものじゃった。……じゃが、どんな人間であってもいずれは死ぬ。葵司はそれが早かったというだけの話じゃ。この世の条理というものは、とかく理不尽にできているものじゃあのう……」
「…………」
『――俺はいずれ、親父の跡を引き継ぐ。親父やお袋、碧に青葉だけじゃない。青龍会は俺の家であり、家族だ。俺は……家族を守るためにヤクザになる……!』
――ふと、思い出すは葵司の言葉。彼と共にあるヤクザの集団との戦いを終えた後、初めて諏方に語った彼の本音。
それまで無愛想な表情しか見せた事のなかった葵司が初めて浮かべた穏やかな笑みを、諏方は今もハッキリと覚えている。
「…………」
『本当は嫌だった……! あの家で、最後まで大好きなお父様とお母様と一緒に過ごしたかった……!』
妹である碧もまた、この家が、家族が好きだったと言っていた。
二人のこの家への思いが、家族への思いがとても強いものであったのだと諏方は思い出す。
――今ならわかる。諏方もまた、娘である白鐘や、シャルエッテにフィルエッテ。守るべき大切な家族が、今の彼にはあるのだから――。
「訊きたいことはそれだけかのう……それと一応言っておくが、儂が本当に病にかかっているのは孫や嬢ちゃんたちには内緒にしておくれのう。知ったところでいらぬ心配ではあるが、余計な同情はいらぬからのう」
「……先生……娘である青葉さんぐらいには、言ってもいいんじゃですか?」
「……あやつは蒼龍寺の名を捨てた。東野青葉はもう、儂の娘ではないのじゃよ」
背中越しに、ここを立ち去る足音が聞こえる。
「…………」
源隆が去った後も、諏方は無言で縁側に一人座ったままでいる。
――兄が、姉が愛したこの家を、妹が嫌ったままでいるのは果たして正しい事なのであろうか――。
ふとよぎる思いを、諏方は振り払うかのように頭を横に振る。
「……これはあの二人の問題だ。俺が余計な事をするべき話じゃねえんだ……」
そう口にはするも、心の中は言い得ぬもどかしさが拭いきれない。
――少し寒くなった夜風が肌を刺す。
「…………寝るか」
諏方は本来の目的である水を飲みに行くためゆっくりと立ち上がり、未だ月夜光る縁側をあとにしていくのであった。