第6話 もう一人の妻
諏方がこの蒼龍寺邸での碧との思い出を語り、しばらくが経った頃――、
トントン――、
――っと、諏方の部屋の襖をノックする音が響く。青葉に続き、また来客だろうかと襖を注視していると、
「――失礼しはります」
短い入室前の挨拶。そのわずかな一言だけで、襖の奥にいる人物が相当な美人であると想像できるくらいに、お淑やかで深い女性の声が聞こえた。
「っ……」
そして――その声に一人、青葉だけがけわしい表情を浮かべている。
襖がゆっくりと開かれる。その奥から現れたのは、青葉のように振袖を身に纏った女性だった。だが、淡いピンク色の可愛らしい振袖の青葉に対し、女性の振袖は漆黒に染め上げ金色の帯を纏った、映画などでよく見られる『極道の妻』のイメージにピッタリの衣装であった。
「黒澤四郎はん……でよろしかったどすか?」
女性は正座で一度深くおじぎをした後、顔を上げてにこやかな笑みを浮かべる。
「え⁉︎ あ、はい。そうですけど……」
見目麗しい女性に笑みを向けられ、諏方は顔を真っ赤にしながらドギマギしてたどたどしい返事になってしまう――すぐ横で彼の娘がキッと鋭い視線を向けたような気がするが、諏方は気づかないフリをしておく事にした。
「あらあら、女の子も集まって実に楽しげでええどすなぁ……っと、自己紹介もなしに失礼しましたわぁ。ウチは蒼龍寺柳と申します。青龍会会長、蒼龍寺源隆の妻、いわゆる極妻言うもんですわ。よろしゅうおたのもうしますぅ」
「っ――⁉︎ クソジ……源隆おじいさんの奥さん……?」
諏方はここ一番での衝撃の事実に、ショッキングな表情を隠せないでいる。
柳と名乗った女性はおそらく三十代から高くても四十代前半の、『熟女』というカテゴリーにちょうど当てはまる程度の年齢ではあるだろうが、その肌ツヤや大人の色気に混じるほのかな可憐さは、二十代と言われても十分に通じる若々しさを感じさせる。さらには京都出身であるのをほのめかすような自然な訛りの混じる京都弁が、彼女の雅な色気をさらに引き立てていた。
そんな女性が、倍以上離れているであろう老人の妻であるという事実に――正直うらやましいと少し感じつつ――諏方は戸惑い、しばし唖然としてしまう。
「こんな美人を取っ捕まえるとは……やるな、ジジイ」
小声で漏れ出る本音に、唯一それが聞こえていた娘は呆れのため息を吐き出した。
「あれ? でもたしか、お爺ちゃんの奥さんって亡くなられたんじゃあ……?」
「……ふふ、あなたが白鐘ちゃんやね? あの人のお孫さんだけあって、可愛らしゅうも凛々しさがあって立派な娘さんやわ」
どストレートであるが嫌味を感じさせない褒め言葉に、白鐘も思わず照れを隠せないでいる。
「ウチはまあ、後妻言うて源隆はんの二人目の奥さんいう事になるんやわ。あ、年の差ありすぎてよく財産狙いや言われるんやけども、そないな事あらへんから安心しとくれやす、ふふふ……」
その含み笑いは冗談によるものなのかいまいち判断がつかず、一瞬ゾワッとしたような寒気が背中を通り抜ける。
「ほんで貴女がシャルエッテちゃんで、その隣にいる子がフィルエッテちゃんやね……どこの国の子かはわからへんけど、留学生やったらぜひ日本の文化を楽しんでってくれおすな?」
「あ……ハ、ハイ!!」
「よ、よろしくお願いします……!」
二人の魔法使いの少女たちもまた、特に普段物おじしないマイペースなシャルエッテでさえも目の前の女性のきらびやかさに圧倒されて、戸惑い気味に挨拶を返した。
――そして、柳の視線は彼女から目を背けたままでいた青葉の方へと向けられる。
「青葉ちゃんも久しぶりどすな……元気でいてはったか?」
「…………」
青葉は顔に暗い影を落としたまま、彼女に返事をしないでいる。
このわずかな間だけで、この二人がおそらく良好な関係性ではない事が容易に想像できてしまう。先ほどまで和やかだった空気が、一気に気まずいものへと変わってしまっていた。
「……ごめんね、みんな。ちょっと疲れがたまっちゃってるみたいだから、自分の部屋で少し横になってくるわね」
そう言って青葉は立ち上がり、柳の前を横切って部屋を出ようとする。
「あらあら、青葉ちゃん、帯が緩まってはるよ――」
「――お母さんの振袖に触らないでッ!!」
青葉の口から発せられた怒鳴り声。今まで常に穏やかであった彼女の声と同じとは思えないほどに、それは耳をつんざくように部屋中へと響き渡った。
「……っ! ……ごめんなさい」
ハッとなって彼女は正気に戻ると、柳や部屋にいる自分の生徒たちに頭を下げた後、小走りで諏方たちの前から去って行ってしまった。
「……仕方あらへんよな。青葉ちゃん、本当のお母さんのことが忘れられへんもん。そんなお母さんの居場所を奪うような女が来はったら、心許せるわけあらへんよね……」
こういったやり取りは一度だけではないのだろう。柳の笑みに、やりきれない寂しさのようなものが入り交じる。
仕方のない事なのだろう。青葉はただでさえ、実家である蒼龍寺家を毛嫌いしている。そんな彼女の唯一のより所であった母親の居場所に、母を名乗る別の女性が入り込んでしまったのだ。常に優しい笑顔を絶やさない彼女があれほど荒れてしまうのもしょうがないのだと、諏方も白鐘もどこか察してしまうのであった。
「……っと、お客人の前でこんな辛気臭い顔しちゃあきまへんわな。そや! まだ夕食までに時間もありますさかい。時間潰しがてら、ウチが蒼龍寺邸を案内しましょうか?」
再びにこやかな笑みを浮かべるおっとり極妻。諏方たちは一度顔を見合わせた後、
「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
この空気のままでいても気まずいだけだろうと、諏方たちは合わせて彼女の提案に乗る事にした。
「ふふ……まだお若いのに振る舞いが丁寧やねぇ。もっと気楽にしてもらってええんよ? それじゃあ、題して『青龍会体験ツアー』行ってみましょうか」
「お、お手柔らかに……」
――この人、思った以上にテンションが面白い人なのでは?――。
方向性の捉えずらい柳のテンションに戸惑いつつも、諏方たちは彼女の案内で再び蒼龍寺邸を回る事となったのだった。
◯
「訛りでお察しの通り、ウチは京都出身で源隆はんに嫁ぐまで京都を出た事がほとんどあらへんかったんですわ」
案内がてら、柳は自身のことを諏方たちに説明し始める。蒼龍寺邸の内装に京都弁を話す振袖の女性が目の前にいるためか、より京都の旅館に来たような錯覚をしてしまいそうになった。
「柳さんは京都で舞妓のお仕事でもなさっていたのですか?」
「嫌やわ、もっとフランクに『柳ちゃん』と呼んでくれても構へんのやで? って、そんな年でもあらへんか」
ペロっと舌を出す仕草には、年齢を思わせない愛嬌さが感じられる。これは源隆ならずとも、魅了される男性も多いであろう。
「残念ながら舞妓はんみたいに華やかな仕事ではあらへんやったけど、これでも一応お医者さんやってはったんよ。見えへんやろ?」
「「えッ――⁉︎」」
諏方と白鐘の驚きの声が重なる。振袖を着こなすその見た目からは、とても医者をやっていたとは想像できなかったのだ。
「人を治すお仕事でこう言うのもあんまり良くあらへんのやけど、これでもけっこう稼いでたんよ。でもな、ある日京都で旅行中に倒れて搬送された人がおってんな、まあ過労で倒れたってだけやからそこまで大した事はあらへんやったんやけど、何人も若いもんが付いてえろう大騒ぎになってもうてな。結局その人は数日間入院する事になったんよ。ほんでまあ、その人の入院中に世話して気づいたらウチの方が惚れこんでもうてな……猛アタックして医者の道も捨てて、結局極妻になったってわけなんよ」
「キャッ」っと顔を赤くして照れだす極妻。おそらく『その人』というのは源隆の事を指しているのだろうが、医者という安定した職を捨ててでも嫁いでいった辺り、彼に本気で惚れこんでしまったのだろう。先ほどは彼女も冗談混じりに言っていたが、財産狙いにしても医者という肩書きを捨ててヤクザの妻になるというのはいくらなんでもリスクが大きすぎる。
彼女の様子を見ている限り、柳の源隆への愛は本物と見ていいのかもしれない。
「……しっかし、あのクソジジイのどこがいいんだか」
「ふふふ、その『クソジジイさん』も、話してみるとけっこう可愛いらしいんどすえ」
「あ、やべ⁉︎」
小声でつぶやいたつもりの諏方の独り言が、柳にはバッチリ聞こえていたようだ。
「耳、けっこういいんですね……?」
「ふふ、あんま気にしなはってもええんよ? 実際にあの風体でヤクザやさかい、なかなか理解されへん事もわかっとる。……でも話してみると、あれで案外悪い人じゃないんよ。まあ、ヤクザって時点で悪いお人なんやけどな」
「っ……」
柳の言葉には愛情はもちろんだが、その中に彼に対する敬意も感じられた。源隆を愛しているという彼女の言葉に諏方は半信半疑ではあったのだが、彼女の声色にヤクザの妻になるという覚悟が見受けられ、だからこそ源隆もまた、彼女を嫁へと迎えたのであろう。
「さてさて、そうこう言うとるうちに到着ぅー。まずは青龍会がどんなお仕事をしとるか、事務所をちょろっと覗いてみはるか」
一階まで降りて少し奥を進んだのち、他の部屋よりも大きめの襖がいくつも並ぶ通路へと到着する。襖には対峙する龍と虎の絵など、客間よりもより激しめで豪奢な日本画が描かれていた。
その一つ――一番手前側にあった部屋の襖を、柳は無遠慮に開く。
瞬間――、
「オラァッ! てめぇどこの組のもんじゃ⁉︎ ウチらに喧嘩売っとるって事は、青龍会に喧嘩売ってるのと同じやぞ? わかっとるんかコラ⁉︎」
「おいゴラァッ! 今月の上納金の期限もうとっくに過ぎとるぞ! 指詰める覚悟はあるんかゴラァ⁉︎」
「ああん⁉︎ テメェらがこの前ウチの縄張り荒らしたって話は聞いとるんやぞ! なんなら今からテメェんところの事務所に顔出したろか、ああ⁉︎」
屋敷そのものを揺らしかねないほどの怒号が響き渡る。事務所と呼ばれた部屋には何人ものヤクザがそれぞれ電話を取っており、絶えず彼らの口から発せられる怒鳴り声が空間そのものを支配していたのだ。
柳は気まずげな笑顔でそっと襖を閉じると、まるで防音室のようにヤクザたちの声はピタリと止んだ――どういう構造してんだ、この襖?――。
「うん、コホン。今の時期繁忙期みたいなもんでな、若いもんたちも忙しゅうはるんよ。まあ、大目に見たってなぁ……」
なんとか笑って誤魔化そうとするも時すでに遅く、女性陣たちはすっかり怯えモードに入っており、互いに震える身体を抱きしめ合っていた。
「まったく、今日はお客人も来てはるんやからお仕事は控えめにしろ言うたのに……この分やと、他の部屋も修羅場っとるところやろし、うーん……あ、そうや! 縁側の方はまだ見てへんのやろ? せやったらそこだけは平和やろから、そちらの方に案内しはりますか」
そう言って柳は一度道を引き返してしばらく歩き、少し開けた通路へと出る。左側は変わらず襖のある部屋が続いていたが、右側は一転して奥まった角の先を障子によって閉めきっていた。
柳は障子にゆっくりと近づき、丁寧な動作で開いていくと、
「うわぁー! キレイ……」
その先は、庭園を一望できる縁側であった。ししおどし響く池に緑鮮やかな松の木。踏みしめる木の床の音と横に広がる古風な館の外装も相まって、外側から見た庭園とはまた趣の違う景色が、見る者の心を癒していく。
「ここが蒼龍寺邸自慢の縁側。絶景の癒しスポットやろ? ヤクザは何かと心が荒む仕事やからな、ここで一休みする若いもんもけっこういてはるんよ」
綺麗なのは景色だけではない。鳥のさえずりや池のせせらぎ、時折吹く風に揺らされる松の木など、庭園から流れる自然の音を聴くだけで、先ほどのヤクザたちに対する恐怖心もスゥーと消えてしまうほどに心が浄化されていくような心地よさを感じられた。
「すごいです……まるでこの一角だけ、狭間山のような静謐さを感じられます。この場所は、お屋敷の中でも特別な場所なのですね」
「ふふ、シャルエッテちゃんは詩的やね。もちろん、朝や昼間に見る庭の景色もええもんやけど、ここは月もよう綺麗に見えるんどすえ。ウチの旦那はんなんかも、よくここで月を見ながら一人酒を飲んではるんよ」
「っ……」
――その光景を、諏方はよく知っている。
ここからの景色は彼も好きであった。高校時代、碧と会うために蒼龍寺邸によく泊まりに来ていた諏方は、彼女とここで眺めるこの景色が好きだったのだ。
そして、月夜の出る日にこの場所で一人酒を呑んでいる源隆の後ろ姿も何度となく見ている。普段は威圧的であったり陽気であったりと掴みどころのない老人ではあったが、この場所に座る彼の背中だけは孤独な年寄りのような、そんな寂しさを感じさせる背中であったのだと、今も彼の記憶に焼きついている。
――彼は今でも月の出る晩にここで一人、変わらず酒を呑んでいるのであろうか――。
「あら、そろそろ挨拶回りの時間どすな……そうや、よかったらみなさんも一緒にいかがやろうか?」
手を合わせ、またにこやかな笑顔を柳は諏方たちへと向ける。
「たしかに青龍会はヤクザで綺麗な組織とは言えへんけども、それでも悪いところばかりではないはるんところをぜひ見てほしいんどすわ」




