第5話 雪下のプロポーズ
『お父様――あたし、諏方くんと結婚する事に決めたので、この家を出てく事にしますね?』
二十二年前、雪積もる白の庭園の奥にそびえる冬の蒼龍寺邸――雪の降る音すら聞こえてきそうなほどの静寂に包まれた大広間にて、海のように青く長い髪をたなびかせる少女の口から、その場にいた全員がショックで爆発しかねないほどの"爆弾"は投下されたのであった。
少女の目の前の座布団にてあぐらをかくわ、彼女の父である初老の男性――蒼龍寺源隆。彼の背後には、対角線上にそれぞれサングラスをかけたスーツの上からでもわかる筋肉質の男性が二人。それぞれ三人が、共に青い髪の少女が投下した爆弾に対し、唖然とした表情のまましばらく動けないでいた。
そして――この場にいる誰よりも驚いたであろう銀髪の少年は彼女の横で、姿勢よく正座した体勢を崩さないまでも、大きく口をあんぐりと開けて彼女を呆然と見つめていたのであった。
――待て待てッ!! そんな話聞いてねえぞ、碧⁉︎――。
今にも飛び出そうになる抗議の言葉。しかし、そんな彼の心境を知ってか知らずか、碧は彼に視線を向けて――言ってやったぜ!――と言わんばかりに舌を出してキラッと効果音がしそうなウィンクを見せる。
『ほう……糞餓鬼、つまりは儂に叩っ斬られる覚悟はできとる――という事でいいんかのう……?』
当然、泣く子も黙る青龍会会長の悪鬼羅刹が如き瞳は、娘が結婚すると言われた相手の少年にへと向けられる。
――ああ、もう……どうにでもなれ!――。
相談すらなかった恋人のあまりにも大胆な発言に頭を抱えつつ、諏方は覚悟を決めるように一度深呼吸してから、まっすぐにヤクザの親分である少女の父へ真剣な瞳で見つめ返した。
『すぐに、とは言わないっすけど……碧と――お嬢さんと結婚したいとは思ってますッ!』
諏方と碧が恋人同士になってから一年、別段これまで互いに結婚というワードを出したりなど、飛躍的なところまで話をした事があるわけではない。しかし、まったく意識してなかったという事はなく、碧の方から言わせてしまったのならば、自身も嘘偽りのない思いを口にするしかなかったのであった――このような事態に追い込んだ張本人が横で『キャッ……』と恥ずかしそうに顔を赤くしているのにはあえて気づかないフリをする。
『…………』
しばらく睨みつけるような瞳のまま源隆は諏方をじっと見つめていたが、やがて諦めたかのようにため息をつき、だがすぐさま厳しめの視線を二人へと向け直す。
『……わかっているとは思うがのう、儂はすでに息子を亡くした身じゃ。本来の青龍会後継者の予定であった葵司がいない今、長女である碧に嫁ぐという事はすなわち、儂の後継者になるということ。その意味、おぬしなら理解できていようのう、黒澤諏方……?』
『っ……』
今青龍会で起きている一番の問題である後継者争い。蒼龍寺の長男であり、不良界のカリスマでもあった蒼龍寺葵司が当然引き継ぐであろうと思われた矢先、彼はテロ事件に巻き込まれて死亡してしまった。
蒼龍寺葵司という支柱が亡くなってから一年、青龍会内部では激動の後継者争いが始まった。会長に気に入られんがために傘下の組長数名が盃を交わそうと必死に彼に媚び入れ、その席を得ようと一部組同士での内部抗争にまで発展した。
一部の過激派は会長の手によって直々に粛清され、会長自身もしばらくの間は後継者を指名するつもりはないと表明はしたのだが、それでも依然睨み合いは続いており、青龍会はこの一年でかつてないほどの緊張状態に陥っている。
会長である源隆としては後継者たりえる存在がいてくれるのに越した事はなく、それが長女の夫ならばある程度周りを納得させるには十分であろう。
だが――当の諏方はヤクザになる気など一切なかった。
不良の身であったとはいえ、すでに彼が創設したチーム"銀狼牙"は解散している。今は平凡であるという将来を夢見てしまうぐらいには、彼の高校二年という一年間はあまりにも激動すぎたのだ。
――だがしかし、ヤクザの会長の娘と恋仲になってしまった以上、彼自身がいずれヤクザになってしまう覚悟もまったくないわけではなかった。
碧と結ばれるためなら、ヤクザという道は避けては通れない。一度ヤクザになれば、平穏な人生を望む事は難しくなる。
――それでも、碧との結婚が許されるのなら――、
『俺は――』
『――だから言ったじゃないですか。あたしは諏方くんと結婚するために、この"家"を出るって』
再度、蒼龍寺碧は同じ言葉を、今度は真剣な声色で放った。
『……お父様が後継者問題で頭を悩まされているのは当然理解しています。ですが……あたしは諏方くんをヤクザにする気はありません!』
『碧……』
自身の思いを代弁してくれたかのようにハッキリと口にしてくれた恋人の言葉に、諏方は嬉しさで思わずわずかにだが顔がほころんでしまう。
『……あたしの寿命ももう長くはありません。決してヤクザが嫌だとも言いません。でも……残されたわずかな時間を、あたしは諏方くんと平穏な人生という形で過ごしたいのです。普通に大学に通って、普通にお買い物をして、普通にご飯を食べて、普通に好きな人と時間を共にする……そんな"普通"を、あたしは最後に体験してみたいのです』
ヤクザの家系に生まれた以上、平穏という言葉は縁遠いものになってしまう。碧は自身に残されたわずかな時間を、憧れていた"普通の人間"として過ごすのが最後の望みであったのだ。
『お父様……これはあたしの最初で最後のワガママです。どうか、この家を出ていく事を許してください……』
『…………』
源隆は娘の儚いその思いを耳にし、だがすぐに答える事はできなかった。かわりに、彼は頭を下げる娘をしばらく見つめたのち、隣に座る少年へと再び視線を向ける。
『一つ問おう、黒澤諏方……おぬしは自身の命をかけて、"守れる"と誓うことができるか……?』
"碧"を守る――それは、彼女の兄である葵司ともすでに交わした約束。当然、諏方はその問いに迷いなく答えるつもりであった。
『もちろん、俺は――』
『――そう急くんじゃねえのう。儂が問うておるのは何も碧のことだけではない』
『っ……?』
目の前にいる初老の男の意図が掴めず、諏方は思わず怪訝な表情を浮かべてしまう。
『……碧の余命がそれほど長くないとはいえど、あと一、二年で死ぬわけではない。大学を卒業し、結婚して"子供"を産むまでの余裕はまだ残されておるじゃろう』
『っ――⁉︎』
『あたしと、諏方くんの子供……』
碧すら子供という単語を持ち出されたのは意外だったのか、表情に戸惑いが入り混じる。
『じゃがその子供が大きくなるまでには、碧もおそらくはもたんじゃろう……そうなれば、おぬしは父親として一人で母のいない子を守らねばならなくなる。この家を出るなら当然、儂らはおぬしのバックアップなどする気は毛頭ない。それでもおぬしは、"碧"とその"子供"を全て含めて、守りきれるのかと儂は問うておるのじゃ……!』
『っ……』
子供という未来までは頭になかった諏方は、すぐに返事する事ができなくなってしまった。目の前にある事だけではない――その先を見据えた未来を含めて全てを守りきれるのかと、彼は今恋人の父から問いただされているのだ。
『諏方くん……』
不安げな瞳で諏方を見つめる青髪の少女。
――彼女との子供だなんて、考えもしなかった――それでも、彼が答えるべき言葉は一つしかない。
瞳を閉じ、深く呼吸をし、身体の内側の気を循環させ、緊張によって高鳴っていた鼓動を静める。そして――ゆっくりと瞳を開いて、今まで以上に真剣な表情で恋人の父親をまっすぐに見つめた。
『守ります――俺の命全てをかけて、"碧"も"子供"も全力で守ってみせます……!』
自然な語調で紡がれた決意の言葉に、一切の迷いはなかった。
『フッ……』
ここに来て初めて、源隆のいつもの余裕のある笑みが戻った。諏方の答えに満足したという事であろう。
『よかろう……本日より、蒼龍寺碧は蒼龍寺家から勘当する。そこの糞餓鬼とどこへ行くなり好きにするがよい』
『お父様……!』
源隆の滅多に見せない父親としての自然な笑みを向けられ、碧は心より父親に感謝する。
『――と、今のはあくまで青龍会会長としての言葉じゃ。そして……』
源隆が右手を上げると同時に、両脇後ろに立っていた二人の部下が拳銃を取り出し、銃口を銀髪の少年へと向ける。
『げっ――⁉︎』
『――碧の父親である蒼龍寺源隆として、誰が儂の大事な娘と糞餓鬼なんぞの結婚を認めるかッ!!』
源隆が手を振り下ろしたのを合図に、二人のヤクザが拳銃を諏方に向けて撃ち放った。
『ちょっ⁉︎ ざけんな! 俺一応カタギだぞ⁉︎』
『知るかッ! ここで死に晒せ、糞餓鬼がぁッ!!』
次々と放たれる銃弾をギリギリでかわしつつ、立ち上がって隣の恋人へと駆け寄る。
『おい! 逃げるぞ、碧――って、なんで立たねえんだよ⁉︎』
『うふふ、正座で足が痺れて立てないのであります。というわけで、カッコよくお姫様をさらいなさい、王子様?』
銃弾の雨の中、能天気なお姫様に唖然としつつも、一度ため息を吐き出してから彼女をお姫様抱っこの格好で抱き上げ、そのまま大広間横の庭園へと続く障子を体当たりで突き破って脱出する。
『ええい! 糞餓鬼を生きて返すんじゃねえのうッ!!』
『うふふ、こういうのもおとぎ話のお姫様になった気分で悪くないわね』
『だぁー! もう、勘弁してくれええええッッ!!』
諏方はそのまま将来の妻となる碧を抱きかかえ、雪原と化した庭園を駆け抜けていったのであった。
◯
「――とまあ、碧はたしかに病弱で清楚な見た目はしてるけど、自由奔放でなかなか苦労させられたんだぜ……って、どうしたんだ? みんな目をキラキラさせて」
一通りかつての妻との話を終えたところで、諏方は女性陣がみな自身に向けて目を輝かせているのに気づいた。
「なによ……思ったよりラブラブじゃない、お父さんとお母さん。聞いててこっちが恥ずかしくなっちゃう……」
「はにゃ〜……昔のスガタさんもすっごくカッコよかったんですねぇ」
「なるほど、諏方さんの奥様からは男性を思い通りに絡め取る魔性みを感じますね……相手を罠にかける罠魔法の使い手としては、是が非でも参考にしなければ」
少女たちはそれぞれの感想を顔を昂揚させながら口にする。どうやら彼女たちなりに、諏方と碧の過去話は楽しめたようだった。
「そっか……ふふ、やっぱり碧お姉ちゃんも、葵司お兄ちゃんみたいにすごい人だったのね」
碧の妹である青葉もまた、諏方から語られた姉の人物像に思いを馳せていたようだ。
「それに……なんだか安心したわ。お姉ちゃんも私と同じ、お父様を嫌いだったのが知れて」
兄が父を尊敬していたのは子供心に知ってはいたゆえに、時折自身の父に対する嫌悪は間違っているのではと青葉は思い悩む事があった。それだけに、姉が自身と同じ思いを父に抱いていた事が知れたのは、彼女にとって嬉しく思える事でもあったのだ。
「…………そういうわけでもねえんだけどな」
「ん? 何か言った、諏方お兄ちゃん?」
「……いや、なんでもねえ」
ポツリとこぼれた言葉は妹の耳には届かず、諏方はなんでもないようにお茶をすすりながら、今は雪も降らない夏の青空を窓越しから一人見上げるのであった。
◯
――閑話休題。
――ここからは彼が娘たちに語らなかった、諏方と碧が蒼龍寺邸を抜け出した後のお話。
あの後、諏方は庭に停めてあった自身のバイクに碧と共にまたがり、蒼龍寺邸を無事に脱出したのであった。
『ここまで走れば、あいつらも追っては来ねえだろ。たく……碧もこんなムチャクチャな事する前に、せめて俺に相談しろって――碧?』
諏方は城山市までバイクを走らせ、道端に停めたところで後ろを振り返ると、碧がヘルメットをかぶったまま顔をうつむかせているのに気づく。
『……ごめんね? 諏方くんに無茶押し付けたような感じになっちゃって』
顔を上げないまま、彼女は諏方に謝罪の言葉を小さな声で告げる。
『碧……お前、泣いてるのか?』
ヘルメット越しからすすり泣くような音が聞こえ、うつむけている彼女の顔からは涙がポツリポツリとこぼれていたのだ。
『……カッコ悪いよね? お父様を怒らせて、せっかく蒼龍寺から抜け出せてスッキリしたはずなのに……なんだか涙が止まらないの……』
『…………』
諏方は自分のヘルメットを外した後、彼女のヘルメットもゆっくりと持ち上げる。ヘルメットの奥の彼女の頬には、あふれんばかりの涙が流れていた。
『お前……本当はあの家を出たくなかったんじゃないのか?』
『……っ』
諏方の優しい声音で諭され、彼女の涙が決壊する。
『本当は嫌だった……! あの家で、最後まで大好きなお父様とお母様と一緒に過ごしたかった……!』
『っ……』
『でもね……あたし見ちゃったの。葵司お兄様が亡くなった数日後に、縁側でお酒を飲みながらつらそうにしていたお父様の顔を……。あたしがあの家で最期まで過ごして、あたしがお父様の前で死んで、またあの顔になってしまうと思うと、あたし……耐えられなかった……!』
諏方でも滅多に聞く事のなかった碧の慟哭――。
彼女の余命はもって数年。そんな彼女が息子を失ったばかりの父の目の前で息を引き取ったら、また悲しい顔をさせる事を思うだけで、碧は今すぐに死んでしまうのではないかと思えるほどに胸が苦しくなってしまっていたのだ。
『でも……お父様も気づいているんでしょうね。じゃなきゃ、あれだけ銃撃って当たらないなんて事ないもの』
『はは……そりゃたしかに』
放たれた銃弾の嵐は、諏方たちにわざと当たらないよう軌道を調整されていた。おそらくは事前にこうなる事を会長が予見し、部下たちに指示していたのだろう。
互いを思いやりながらも、優しさのかけ合い方が不器用なところは父娘そっくりだなぁっと、諏方は心の中で苦笑する。
『……本当にごめんね。諏方くんを利用したみたいになっちゃって……』
『っ――⁉︎』
碧の声に、震えが生じたのを察した諏方。
『そのかわり、あたし――』
言いきる前に、碧の細身の身体を諏方は力強く抱きしめる。
『碧……結婚しよう。お前がいつかいなくなるその時まで、俺が全力で守ってみせる。……俺が、俺がお前の最期を見届けてやる……!』
それは、諏方なりの誓いの言葉。彼女の最期まで、そばで寄り添うと誓った少年の決意表明。
『…………その前に、まずは一緒の大学に通って卒業しなきゃ、でしょ?』
『……善処します』
途端に頼りない調子になった恋人にくすりと笑いつつ、弱々しくもありったけの力で少女も少年を抱きしめ返す。
『大学を卒業したら、今のプロポーズ、もっかい聞かせてね……?』
――雪降る誰も通らない町の中で抱きしめ合う二人は、コート越しに互いのぬくもりで身体を温め合うのであった。




