第16話 昔話
――星と月の光またたく夜空。夏の夜風は適度な涼しさで肌を心地よく吹き抜け、時期には早いが良い月見日和とも言える景色が広がっていた。
そんな夜空の下、桑扶市のビル群の中の一棟。十階建てのビルの屋上フェンス手前にはピクニックなどで使われる花模様のシートが広げられており、その上に二人の男女が座っていた。
男の方はシート中央に置かれたティーポットウォーマーで温められた紅茶の香りを楽しみ、優雅な所作で口に含んでいく。
「グフフ、夜空の下で飲む紅茶もまた乙なものだとは思いませんか、藤森小鳥さん?」
名を呼ばれたシートに座るもう一人の女性は彼の問いには答えず、ただ無言で紅茶を楽しんでいる剛三郎を睨んでいた。
「おや、紅茶はお嫌いでしたかな? 他にもコーヒーや緑茶などもご用意できますが、そちらの方がよろしかったですかね?」
「…………」
小鳥は剛三郎のさらなる問いかけにも、やはり無言を貫く。
「やれやれ……せっかくインドから取り寄せた最高級のダージリンティーをご用意したというのに、無駄なプライドで突っぱねて口にしないのはとてももったいないですよ?」
そう言いながら、剛三郎は実にご満悦といった表情で紅茶を静かにすする。醜悪な見た目ながらも、その作法は見惚れてしまいそうなぐらいに秀麗であった。
だがなお、小鳥は無言で彼を睨み続けている。
「……ふむ、一応は人質だからと一切の傷をつけずにいてあげましたが……少し甘やかしすぎましたかね?」
――ジャキッ。
「ッ――!!」
両脇から響く金属音に、小鳥の心臓がキュッと引き締められる。
シートの外には、二人の黒服の男がそれぞれ銃口を小鳥に向けていた。この場から逃げ出そうとしたりなど、何か余計な行動を起こせば一般人である彼女であっても彼らは容赦なく銃弾を放つであろう。
剛三郎の言う通り、小鳥は昨日彼らにさらわれて以降も一切の危害はくわえられなかったが、それでも常に黒服たちから銃を突きつけられて、彼女の気が休まる時は一度としてなかった。
「そうそう、そういう顔ですよ。人質なら人質らしく、怯えた顔でいてもらわないと。まったく、子供は無条件に怯えた表情を見せてくれるというのに……何もできない状況であるにも関わらず変に抵抗心を見せるのだから、やはり大人という生き物は存外に醜いものですねぇ……」
再び紅茶に口をつけ、カップの中身を飲み干す醜顔の男。
小鳥は一旦跳ね上がった心臓を落ち着けるための深呼吸をし、再び剛三郎を睨み上げる。
「……こんな事したって、黒澤係長は来ませんよ。係長は昨日熱で倒れたと聞いています。一日で治るとは思えませんし、無理してまで助けに行く価値なんて私にはありません……係長にとって私は、ただの後輩に過ぎませんから……」
自嘲気味に小鳥がそう口にするも、剛三郎は顔色一つ変えず、またティーポットから紅茶をカップに注いでいく。
「なるほど、電話向こうの心拍数がやたら高く感じたのはそういう事でしたか。それにしても……ただの後輩だというわりには、会社終わりによくあなたの自宅に通っていたみたいですが……本当にただの後輩なのですかねぇ……?」
「そ、それは……」
うつむき、何かを口ごもる小鳥。
「……まあいいでしょ。約束の時間になっても諏方くんが現れなければ、その瞬間にあなたの人質としての価値はなくなり、すぐに殺すだけです」
一切の躊躇なくそう言いのけ、剛三郎はまた紅茶に口をつけていく。裏社会の人間である彼にとって、人の命はその程度に軽いものであるのだろうと、改めて小鳥は彼の存在に恐れを感じてしまう。
「なんで……なんで係長の叔父であるあなたが、係長をそんなにも追いつめたがるんですか……?」
上司である諏方が幼い頃、彼によって拷問まがいの虐待を受けていた過去は剛三郎自身によってすでに聞かされていた。両親はもちろん、叔父などの親戚にも恵まれてきた小鳥にとって、同じ親族であるはずの剛三郎がなぜ諏方にこれほどの仕打ちを与えるのか、彼女はひたすらに疑問にあったのだ。
「そうですねぇ……まだ十二時までには時間もありますし、少し昔話でもしましょうか」
そう言って、シートの上の紙皿に置かれたアップルパイを頬張りながら、彼はゆっくりと『昔話』を語り始める――。
「むかーしむかし、ある平凡な家庭に、二人の兄弟が住んでいました。兄は幼いながらに容姿に恵まれ、さらにスポーツ万能で性格も優しい、まさに理想の男の子でありました。それに引き換え弟の容姿は醜く、運動も他人と接触するのも苦手という、兄とは真逆の生き物として生まれました」
「…………」
唐突に始まった昔話。話の中で出てきた弟が剛三郎本人であろうというのは、小鳥も察する事はできた。
「普通ならば、醜悪な弟は完璧な存在として生まれた兄を逆恨みでもするのでしょうが……彼は違いました。弟は完璧である兄に対して、恋慕にも似た憧憬を抱いたのです。兄弟のそれぞれの要素を神が配分して作り出しているのだとしたら、美となる全てを兄に配分した神に弟は感謝すらしました。自分がいかに醜い存在に生まれたとしても、それで兄が完璧な存在として生まれたのなら、それ以上に嬉しい事はないのだと弟は本気で思っていたのです」
「っ……」
語る剛三郎の言葉の端々に言いようのない異質さを感じ、聞いているだけで小鳥は身体中が悪寒で震え出していた。
「兄は中学、高校と成長していっても、美しさは衰えるどころかますます磨きがかかりました。優しい兄は、容姿も性格も最悪な弟にさえ優しく接してくれました。このまま兄がさらに美しい存在に成長し、それをそばで見守る事が生きがいになるのだと、弟はずっとそう信じていました。ですがある日……兄は変わってしまいました」
剛三郎の表情に影が差す――。
「兄は大学で『女』の恋人ができたのです……女はロシアからの留学生で、美しくたなびかせる銀色の髪が特徴的でした。その日から、兄は『誰のものでもなかった完璧な存在』ではなくなり、そこら中を歩くだけのただの一般人と同じ生き物に堕ちてしまったのです……弟はその事に落胆し、それ以降彼にとって兄はどうでもいい存在になりました」
他人を勝手に礼賛し、勝手に落胆する身勝手さ。それが、剛三郎という男の本質なのであろう――。
「兄は大学を卒業後、ロシア人の女と結婚し、家を出ましたが、弟はもはやそんな兄に興味もありませんでした。ですが……兄とあのロシア人の女は最後に一つだけ、弟にとって有益な役割を果たしてくれたのです……銀色の美しい髪を遺伝させた、完璧なる男児をこの世に生んでくれたのです……!」
「っ――⁉︎」
その男児は間違いなく、黒澤諏方のことを指しているのであろう。剛三郎の表情が、興奮で赤く高揚する。
「第一子は茶色がかった肌色が気に入りませんでしたが、第二子の方は兄に似た容姿と髪だけは評価できた女の銀髪を併せ持った、より完璧な存在としてこの世に生まれたのです……! 弟はその事実に喜び、興奮しました。そして同時に悟ったのです……もう兄の役割は終わり、あの夫婦の存在価値はないのだと」
「うっ――⁉︎」
さらなる怖気が全身を通り抜け、吐き気で胃の中がせり上がりそうになるのを小鳥は必死にこらえる。
――あまりに悪辣。
――あまりに醜悪。
――目の前の男の異常さに、全身の震えが止まらない。
「そして少年の両親が交通事故で死んだのを機に、弟は彼を保護者として引き取りました。彼をより完璧な存在に仕上げるため、月日をかけて弟は兄の息子を磨き上げたのです。まあ……弟の計画が成就する寸前で、警察の介入を許してしまったのは今でも深く悔やんではいるのですが」
剛三郎は二杯目の紅茶を飲み終え、取り出した葉巻に火をつける。煙を輪っか状にプクッと吐き出し、煙の輪っかが空に浮かび、霧散する。
「……しかし、もし魔法の存在が本物で、諏方くんが本当に若返っていたとしたら……グフフ、あなたを助けるためには、力のある若い身体に戻る必要がありますからねぇ……十二時まであと一時間。彼がどんな姿で来るのか、楽しみですねぇ……!」
「…………だめ……来ちゃだめです、黒澤係長……!」
叫びたくなるのをこらえ、悲痛な思いを小声で口にする小鳥。
――この男と関わる事そのものが、誰かを不幸にしてしまう。
小鳥は自分が殺されるかもしれないという恐怖以上に、尊敬する上司がおぞましき存在である彼と二度と会わないように遠くへ逃げてほしいと、心の中で必死に祈るのであった。




