第12話 発熱
「……おはよう、白鐘?」
「ん……おはよう」
感情の込もっていない朝の返事。娘のこの声調での挨拶を、若返る前の諏方は何度も聞いてきた。
中学に上がった娘とケンカし、互いに心の距離が開いてしまい、しばらくは挨拶をしても返されない日々。
やがて高校に上がって少しずつ距離が戻り始めて以降は挨拶は返してくれるものの、今のようにそっけない返事が返ってくる事も多かった。
――若返ってからは比較的関係性も良好になってきたと思っていたのだが、昨日からなぜかまた距離を置かれてしまっている――。
――たしかに最近帰りが遅くなってしまってはいるけど、それだけでここまで冷たくされてしまうものなんだろうか……――。
「あ、おはようございます、スガタさん!」
「おはようございます、諏方さん」
「……おはよう、二人とも」
魔法使いの少女、シャルエッテとフィルエッテはいつも通りの挨拶をしてくれる。それだけで、諏方は心の底からホッとする。
テーブルを見ると、焼きたての食パンとブロッコリーのサラダが添えられたお皿。そのそばに置かれたマグカップからは淹れたてのコーヒーが湯気を立たせ、心を落ち着かせる香りが鼻腔をくすぐった。
そっけないながらもちゃんと朝食を用意してくれるあたり、完全に嫌われたわけではないようだと胸を撫で下ろした。
「今日は会社はお休みだけど、ちょっと予定が入ってるからこの後出かけるよ?」
「……いいんじゃない?」
白鐘は父に顔を向けず、テレビの方を見ながら自分の分のコーヒーを口にすする。
――これは、完全に無視されてるわけではないと喜ぶべきなのかどうか……――。
「諏方さん、あれ以来、身体に不調などはありませんでしょうか?」
おそらく薬の副作用の事を思い、フィルエッテは特に何かを察してたずねたわけではないのだろう。だが、その問いに思わず諏方は身体をビクつかせてしまう。
「……諏方さん?」
「あー……いや、あはは、大丈夫だよ。元気元気!」
マッチョポーズを取って元気アピールをする中年男性。
――本当は今にも倒れそうになるぐらい身体全体がダルいのだけど、どうしても僕には休めない理由があった――。
悟られる前に家を出なければと、諏方は急いで朝食をたいらげて立ち上がる。
「ごちそうさま、白鐘。それじゃあ、多分昨日と同じ時間ぐらいに帰るから――」
――瞬間、目の前が闇に染まる。
「――お父さんッ⁉︎」
わずか一瞬ではあるが視界が暗転し、気づけば膝をついて倒れかかる身体を右腕で支えていた。
見上げると、諏方の視界にようやく娘の顔が映る。その表情は心配げで、すぐさま父親の額に手を当てた。
「……ちょっと、熱出てるじゃない⁉︎ しかもかなり高いよ!」
「だ、大丈夫……そんな事より、早く出かけなきゃ――」
――再び暗転。今度こそ、黒澤諏方の意識は途切れた。
◯
「……んっ…………ここは……」
重くダルい身体を無理やり上半身だけでも起こす。眠っていたのはベッドの中。周りを見渡し、今自身がいるのは自分の部屋であると、諏方は薄い意識の中で認識する。
「よがっだあああ!! ズガダざん起ぎまじだアアアッッ!!」
そばで立っていたシャルエッテが滝のような涙を流しながら、起き上がった諏方に抱きついた。他にも変わらず心配そうな顔をしている白鐘と、真剣な表情のフィルエッテが彼のベッドの横に立っている。
「……まだ朝の九時……一時間ほど寝ていたのか」
鈍く、だが時折襲いくる割れるような痛みに頭が締めつけられ、その場で突っ伏してしまいそうになるのを諏方は胸を押さえてなんとかこらえる。息は荒く吐き出され、身体の内側からくる熱さで全身が発汗していた。
「諏方さん……少し失礼します」
そう言うと寝ている間に着替えさせられたであろう諏方のTシャツをフィルエッテがまくり、胸の中心に彼女の手のひらが触れられる。
「え、えっと――」
「――シッ、黙って……!」
突然の少女の素肌へのタッチにしばし戸惑うも、物静かなフィルエッテの珍しいキツめの声に諏方は押し黙ってしまう。
「…………」
しばらく諏方の胸に手のひらを当てながら、目をつぶって何かに集中するフィルエッテ。そのままの状態で約一分。大きく深呼吸をするとともに、彼の胸から手を離した魔法使いの少女は難しげな表情を浮かべていた。
「これは……思っていた以上にまずいですね……」
「まずいって……⁉︎ もしかして、僕死ぬとか?」
「ああいえ、今のところ命に別状はないのですが……今、諏方さんの体内を巡る『魔力』――諏方さん風に言うなら『気』ですね――がいちじるしく低下し、肉体への循環が遅くなっています。おそらくは、今になって薬の副作用があらわれたのでしょう……」
たしかにと、諏方は身体の内側を巡る気を自身で探ると、気の量が明らかに減ってさらに体内への巡りが乱れていた。
「とはいえ、現状は風邪をひいて熱が出ている状態とあまり変わらない症状にとどまっていますね。これはおそらく身体が発熱を起こす事で、体内の気を生成している状態だからと思われます。ですので、身体が再び若返るまでのあと二日、安静にしていれば無事熱も引いていくでしょう」
フィルエッテの診断内容を聞き、白鐘もシャルエッテもホッと安堵の息をついた。
――だが逆に、諏方は具合の悪さとは別の意味で顔を青ざめてしまう。
「……ってことは、この二日間は外に出るのもできないって事かい?」
恐る恐る問う諏方だが、フィルエッテは無表情で首を横に振る。
「なりません。何か予定があったみたいですが、無理に動けば体内の気が生成できずに最悪の場合、命の危険につながる可能性も十分にありえます。どうか、あと二日間だけでもこらえてください……!」
決して脅しというわけではないだろうが、強い口調での警告に、諏方はこれ以上反論する事ができなかった。
「そうか……それじゃあ仕方ないね。藤森さんには悪いけど、行けなくなったと伝えるしか――」
「――その藤森さんって人が、昨日お父さんが会ってた女の人?」
――ゾワリと、静かで冷たい声に背筋が震えた。
「白鐘……?」
見上げた娘の頬には涙が流れ、潤んだ瞳はキッと父親を鋭く睨みつけていた。
「こんな状態になっても、お父さんは自分よりその藤森さんって人の方を気にかけるんだ? でも仕方ないよね。一緒にお買い物もして、プレゼントまでして、家に行けるぐらい仲がいいもんね?」
「ちょっ、ちょっと待て。なんでそんな事知って――」
「――もう好きにしなよ! 娘のあたしなんか放っておいて、堂々と二人でデートしてればいいじゃない!!」
そう言い捨て、白鐘は勢いよく部屋を出て行ってしまった。
「「「っ……」」」
気まずげな沈黙がしばらく続いてしまう。
「あー……昨日なんとなく誰かにつけられたような気はしたけど、白鐘だったのか。年取ると、やっぱり感覚も鈍っちゃうなぁ……」
「ま、まさか……これが昼ドラなどで見られる有名な……修羅場というやつでしょうか⁉︎」
「話をややこしくしないの、シャル……。ひとまず、先ほど言った通りに二日間は安静にしてください。……ですが、その藤森さんという方は存じ上げませんが、今日会う予定でしたのなら断りの連絡は入れておくべきでしょう」
「うん……そうしておくよ」
弱々しげに微笑んではいるが、諏方のその表情には実に残念げな気持ちを隠しきれていなかった。
「その……申し訳ありません。私が未熟なばかりに、諏方さんには余計な負担をかけてしまいまして……」
フィルエッテの悲しげな表情。これもまた、普段冷静沈着な彼女が見せるには珍しい顔だった。
「ううん……フィルエッテにも、それにシャルエッテにも感謝しかしてないよ。二人のおかげで一時的にでも、また元の身体に戻れたんだから」
「スガタさん……」
「…………」
諏方の言葉は本心から来るものであった。途中でトラブルに遭い、会社には結局行けなくなってしまったのだが、それでも彼を慕う藤森小鳥に再会できたのは、間違いなく今目の前にいる二人のおかげであったのだから。
◯
「そうですか……いえ、熱が出てしまったのなら仕方ないですよ。それよりも、今はゆっくり休んでください。……またお元気になりましたら、例の続き、再開しましょうね……!」
上司との短いやり取りを終え、静かに電話を切る小鳥。ため息一つ吐いたのち、残念そうな表情を浮かべてしまう。
「今日も会えると思ってちょっとコーデしたのですが、無意味になっちゃいましたね……出かけるわけでもなかったのに、ちょっと気合い入れすぎちゃいましたかね?」
目の前にある鏡には、肩出しした黄緑色のブラウスと白のスカートを身につけた自身が映っている。本人の言う通り、特に諏方とどこかに出かける予定はなかったのだが、それでも休日に彼に会えるのが嬉しくて、つい服装にも気合いを入れてしまったのだった。
「黒澤係長のことを思うと、私が一人が楽しんでいるみたいでダメだと思うのですが……それでも、二人っきりで会える事を楽しみにするのは間違ってないですよね、うん! ……まあ、結局会えなくなったので意味ないんですけど……」
またもため息一つ。それだけ、彼女はこの日を楽しみにしていたのだ。
「……っと、いつまでもしょげてちゃダメですよね。私のぬいぐるみを心待ちにしているお客さんもいることですし、今日は時間たっぷりぬいぐるみ制作の方に着手を――」
――ピンポーン。
小鳥が気を取り直したところで、唐突に家のチャイムが鳴り響く。特に連絡もなく誰かが来訪するなど、彼女にとって珍しい事であった。
「あ! もしかして黒澤係長がサプライズに?」
先ほどまで落ちこんでいた心が一気に昂揚し、玄関の方まで駆ける小鳥。
「もう係長ったら、こんなサプライズで驚かそうとしてもそうはいきませ――」
――チャキ、
扉を開くと同時に聞こえたのは、テレビや映画でしか聞けないような重く生々しい鉄の音――。
「えっ……?」
目の前に突然突きつけられた銃口。見上げると、二人のサングラスをかけた黒服の男が銃を片手で構えて立っていた。
――あまりに非日常的な光景に、しばし小鳥の思考が止まってしまう。
「休日の朝からすみませんねぇ、藤森小鳥さん?」
その声は、二人の男から発せられたものではない。
二人の間から、彼らと比べて背の低い一人の男が前へとゆっくり歩いてくる。
――その男を、小鳥は知っている。
「あなたは……会社で黒澤係長に殴られてた……」
「ほう? ボクのことを知っておいででしたか?」
中折れ帽を深く被った小太りの男――黒澤剛三郎は、葉巻をくわえながらニチャリと気味の悪い笑みを浮かべていた。




