第11話 予兆
――ごくり。
自然と、ツバを飲み込む音が鳴る。
黒澤白鐘はシャルエッテ・ヴィラリーヌと出会って以来、様々な悪人を見てきた。
――金のために一つの家族を陥れた詐欺師。
――私利私欲のために子供たちをさらった路地裏の魔女。
――目的は不明ながらも、何度も父親たちに悪意を向けてきた日傘の魔女。
いずれも魔法使いではあったが、その悪辣ぶりにはどこか人間臭さのようなものも白鐘には感じられた。
――だが、目の前にいる男から発せられるはそのどれらにも該当しえない類の邪気。
――言うなれば、純粋悪とも言える邪悪さを、およそ人間が普通に生活するうえで知覚する事のない邪念を、黒澤白鐘は生まれて初めて感じ取ってしまったのだった。
「――大丈夫ですか? 顔色がすぐれませんが、どこか具合が悪いのでしょうか?」
男が心配げな顔で白鐘を覗きこむ。そこには先ほど感じ取っていた悪意は見て取れなかった。
「ああ……いえ……その……」
無意識に隣の友人へと視線を向ける白鐘。進は彼女ほど青ざめてはいないにしろ、男へと向ける瞳にはわかりやすく嫌悪感をにじませていた。
「え……えっと! あたしたちは大丈夫です! ……それより、おたずねしたい事があるって……?」
男への違和感を心の中で振り払い、白鐘はまっすぐに彼を見やる。
月明かり少ない街灯に照らされた彼の顔は、どちらかといえば気の優しそうなおじさんのように柔和であり、寒気をともなう邪悪さは今は感じられなくなっていた。
「ああ、そうでした……! 実はわたくし、最近ここに越してきたばかりでして、とてもお恥ずかしいのですが、そのぉ……道に迷ってしまいまして」
本当に彼は恥ずかしがっているのか、頬をポリポリとかいている。
ひとまず危険はなさそうだと少し気がゆるみ、白鐘は目の前の彼に気づかれないよう小さくホッと息を吐いた。
「駅までの道のりがわかれば助かるんですが……」
「駅ですか……この道を左に突っ切ると商店街がありますので、商店街の中をさらに進んで出口に出たら、さらに左に曲がれば着きますよ」
白鐘は指で道路をさしながら、駅までの行き方を男に説明する。
「おお……これはこれはご丁寧に。大変助かりました。何かお礼でも――」
「――いえいえ、大丈夫です! そんな大した事してないので」
胸ポケットに手を突っ込んだ男に対して警戒心が働き、あわてて白鐘は手を振って遠慮の言葉で彼の腕を制す。
「おや? まだお若いのに謙虚ですねぇ。将来は立派な女性に成長できるでしょう……では、わたくしはこれで」
男は中折れ帽を一度脱いで胸に当て、少女たちに一礼した後再度深く被り直し、二人の前から立ち去って行った。
男の姿が見えなくなるまで彼の背中を見送った後、緊張が解けて白鐘は深く息を吐き出す。
「ハァ……なんだかわからないけど怖かったぁ……進?」
ふと、また隣に視線を移すと、先ほどから一言も発さなかった友人が男の去っていった道を睨むように見つめていた。
「……アタシ、この前半グレって連中に初めて会ったけどさ……あの男、多分アイツらと似たタイプの人間だと思う。説明が難しいけど、なんつーかオーラ? みたいなのがアイツらと同じ――いや、多分アイツら以上にヤベー奴かもしんない……」
進の言葉を聞き、ゴクリと白鐘は再び息を呑む。友人と同じ感覚を彼女もあの男から感じていた。
男の正体はわからないが、警戒するに越した事はないかもしれない。彼はこちらに越してきたばかりと言っていたが、今後街中で見かけても、彼に気づかれぬよう距離を離すのが最善であろう。
「……さてと、そんじゃまあここで立ちっぱでいてもしょうがないし、今日はもう帰っちゃおうか?」
「……そうね。そろそろシャルちゃんとフィルエッテさんも帰ってくる頃だろうし、ご飯はまた今度奢られてあげるわ」
「ゲッ、ちゃっかり覚えてやがりましたか……」
二人は互いにクスッと笑いながら、共に帰路についていく。その途中、白鐘はもう一度だけマンションを見上げる。
――今あの部屋の中で、父と女性が二人で何をしているのか――。
一瞬想像しかけるも、白鐘は首を振って浮かんだ情景を頭から払いのけ、進と共にマンションをあとにしていった。
◯
「お帰りなさいませ、剛三郎様……」
運転席に座っていた黒服の男は、主が後部座席に入ったのを確認すると同時に、彼が取り出した葉巻にライターで火をつける。剛三郎は煙を口に含ませて味わった後、車内に吐き出した。
「……よろしかったのですか? あの二人は黒澤諏方の娘とその友人。彼女たちを捕まえれば黒澤諏方を焚きつける事もできたでしょうし、商品としての価値も十分にありましたでしょう」
「……いえ、今ここで彼女たちに手を出せば、たしかに黒澤諏方を動かす事はできるでしょうが……黒澤椿――いえ、今は七次椿でしたね……彼女にこちらの動きを捕捉されかねない。今の我々では、工作員である彼女への対抗手段は持ち合わせていませんからねぇ……」
再び吐かれ出す煙。普段剛三郎は葉巻を優雅に楽しむ男ではあるのだが、今日は少し荒々しげに吐き出されている煙を見て、彼がイラだっている事を部下は察する。
「……まあ、いずれ彼女たちもさらいはしましょう。商品価値としては少し適齢期を過ぎていますが、それでも今の我々にとっては貴重な資金源になるでしょう……。それよりも――」
ガンッ――っと、扉の横に付いたアームレストが勢いよく叩かれ、車内が音をたてて揺れた。
「――あの女ァッ! 名前はわからんが、ボクの諏方くんの隣を歩いていたメガネの女ッ!! 大人の女性のくせに、諏方くんの隣を歩きやがってぇッ! 殺したい! ババアなんぞに触れたくもないが、腑をえぐり出して殺してやりたいッ!!」
「お、落ち着いてください、剛三郎様⁉︎」
激昂する主をなんとかなだめる黒服の部下。剛三郎はしばらく「ふひゅー……」っと荒く呼吸をするが、少しして息を落ち着かせ、また葉巻をくわえる。
「……あの女の経歴を調べておきなさい。もし、諏方くんのあの噂が本当だとしたら、あの女でも諏方くんを焚きつけるのに十分な役割を担ってくれるでしょう……」
三度吐き出された煙。輪っかとなった煙の中心部を眺めながら、先ほどまで怒り狂っていた男の顔に不気味な笑みが浮かんでいた。
◯
「それでは、今日はここまでにしましょう……!」
小さいテーブルを挟んだ向こうの女性が、やわらかな笑みで中年の先輩にそう告げる。
「え? もうそんなに時間が経ってたのかい⁉︎」
後輩女性の言葉に無心となっていた諏方は、あわててスマホで現時刻をたしかめる。小鳥の家に到着してからすでに四時間近くが経っており、気づけば時間は夜の十時を過ぎていた。
少し前に娘である白鐘に遅くなる事はメッセージアプリで告げていたためか、『うん』と簡単な返信以降はメッセージは来ていない。とはいえ、これ以上時間が遅くなってはさすがにまた怒られかねないだろう。
「だけど……もう時間があんまり――」
「――大丈夫です! ……明日からは土日で私も会社が休みなので、長時間一緒にいられますよ……!」
「……はは、たしかにね」
時間を見て少し伏せ目気味になっていた諏方の表情に、穏やかな笑みが戻る。
「……改めて、君には迷惑をかけっぱなしだね、藤森さん。仕事で疲れてるだろうに、僕に付き合ってるせいで疲れを取る時間もないでしょ?」
「いえいえ! 私は課長とこうしているだけで楽しいですから。それに…………二人っきりだと恋人みたいですし……」
「ん? 何か言ったかい?」
「キャッ⁉︎ ななな、なんでもありません!」
後半部分が小声で聞き取れなくて諏方がたずねるも、小鳥は顔を真っ赤にして首と手をブンブン振り回すばかりで何も教えてくれなかった。
「……でも、僕も君とこうしていると心がリラックスするよ。最近若者と一緒になる機会が多くてね、楽しくはあるんだけど僕もオッサンだから、どうしても気疲れしちゃって……」
「むぅ……私だって十分若者ですよ?」
「あっ! えっと……若者といっても高校生とか、そういう子たちばかりだから……!」
「高校生? 課長……休暇中の間、本当に何やってるんですか?」
「うぅ……そのぉ……ほら! 前にも娘の授業参観とかで学校に行ってるって言ったでしょ⁉︎ あとほら! PTA関係とかでもよく学校に行くからさ、あはは……」
――なんかだんだん言い訳が苦しくなっている気がするなぁ……――。
後輩に向けられた疑念の視線に耐えきれず、諏方は彼女から目をそらしてしまう。
「……ま、いいです。人のプライベートは無理に探るべきではないのもわかっています。大人なので」
「あはは……助かるよ……」
自身の方が年上で上司であるはずなのに、諏方はすっかり『大人』な部下を相手にタジタジになってしまっていた。
「……っと、いけません。もう夜遅いですから、娘さんを心配させないためにも早く帰りましょう」
すっかりまた話し込んでしまったが、彼女の言う通り、これ以上遅くなって娘を心配させるわけにはいかなかった。
身支度を整え、諏方は小鳥の部屋を出て玄関へと向かう。
「――ッ」
――その途中で、諏方は急な目眩に襲われた。
「課長⁉︎」
小鳥があわてて上司の元に駆け寄り、倒れそうになる彼の身体を支える。
「っ……ありがとう、藤森さん。……もう大丈夫だよ」
身体を支えてくれた彼女の手を優しく引き離し、一呼吸置いてなんとかまっすぐ立ち上がる。
「どうしたんですか、課長? ……もしかして、熱があるとか?」
彼女に言われて、たしかに身体が熱っぽくなっているのを諏方自身も気づいた。
「……いや、ただの立ちくらみだよ。もしかしたら疲れが溜まってるのかもしれないね……。家に帰ってぐっすり眠れば、すぐに元気になれるよ」
「でも……」
「……明日あさってと大詰めだからね。ここで体調が悪くならないよう、今日はおとなしくするさ」
「……わかりました。途中で倒れないように、お気をつけて」
未だ心配げな表情を見せる後輩に申し訳なさを感じつつ、諏方は「また明日」と別れの言葉を告げ、小鳥の部屋をあとにした。
「…………うっ⁉︎」
エレベーターに向かって少し歩いたところで、またも目眩に襲われる。額に手を当てると、さらに熱っぽさが上がっているように感じられた。
「……ここにきて、まさかね……?」
思い出すはフィルエッテの忠告の言葉。諏方の頭の中に、これからありえるかもしれない予兆がよぎる。
「……せめて、せめてあと二日はもってくれ……!」
まるで自身に言い聞かせるように声をあげ、諏方は一旦呼吸で酸素を身体の内側に循環。気を整いつつ、重くなった足を進めて、再びエレベーターへと向かっていくのであった。




