第9話 名探偵天川進
「――お父さんが……浮気?」
突如、友人である進から告げられた一言に、自作の弁当を口に運んでいた白鐘の手が止まる。
――お昼休みの城山高校屋上にて、白鐘は久方ぶりに進との二人っきりの昼食の時間を過ごしていた。若返っていた父親は現在一週間限定で元の年齢に戻っており、当然その間彼は学校を休まざるをえない。シャルエッテとフィルエッテの二人も、ともに境界警察での定期健診を受けるとの事で本日は休み。
久しぶりに二人での昼食との事で、今日はせっかくだからと進の分まで白鐘がお弁当を用意していた。
――つい先週までは五人という大人数であったため、特に一番明るいシャルエッテが不在という事もあり、以前までは当たり前だった進との昼食も少し寂しさを感じさせる。
そんなふうに感傷に浸っていた矢先での進の口から放たれた「もしかしたら諏方おじさん……浮気してるかも……?」の発言は、なおさら『諏方おじさん』の娘である白鐘を強く困惑させるのであった。
「お父さんが浮気って……何を根拠に、そんな天変地異みたいな事が起きるのよ?」
一分ほど思考停止したのち、白鐘は呆れのため息を吐き出しながら再び箸を動かす。
「嘘じゃないって! 昨日たまたま部活帰りに城山商店街に寄ったらさ、諏方おじさんとメガネをかけた美人なお姉さんが二人並んで仲良さげに歩いてたんだって!」
興奮気味に昨日の出来事を語る進。
「モグモグ……遠目に見てたからモグモグ……何を買い物してたかはよく見えなかったけどモグモグ……女の人の方は楽しげにしてたしモグモグ……諏方おじさんも若いお姉さんと歩いててまんざらじゃなさそうだったしモグモグ……こりゃ一大事ですぜ、奥さん?」
「誰が奥さんよ。あと、喋るか食べるかのどちらかにしなさい」
興奮で顔が紅潮する進に対し、白鐘は声に感情を乗せていない。
「そもそも冷静に考えて、お母さんが亡くなってお父さんは今独り身なんだから、別に女性とお付き合いしてたって浮気にはならないでしょ?」
クールに表情を澄ましている白鐘を、友人はジーと横から見つめる。
「いや冷静って言いながら、動揺しすぎて全身震えてるがな」
「ぐふっ」
思わず口に入れたご飯を吹き出してしまう白鐘。進の指摘通り、彼女の全身はグワングワンと縦に震えていた。
「ななな何を言っているのかしら、進さん? あああああたしが動揺なんてすすすすするわけないじゃない?」
「うわー、顔だけクール維持してるのが余計オモロ」
白鐘が動揺しすぎているせいで、逆に今度は進の方が冷静になっていた。ひとまず、彼女は友人の振動が止まるのを食べながら待つ。
「なんだよー、結局気になってんじゃん?」
「っ……」
白鐘の箸を握る手が再び止まり、顔をまっすぐに遠い虚空を見つめる。
「……物心がついた頃にはもうお母さんは亡くなってて、子供心にあたしが支えなきゃってずっとお父さんの面倒を見て……正直、お父さんに恋人ができたり、再婚するかもなんて考えもしなかった」
幼かった頃の白鐘にとって、父である諏方は彼女の世界の全てでもあり、同時に支えなければいけないと思える大切なパートナーでもあった。家事や料理などは小学生の頃には父親よりも上手くなり、彼が仕事で家にいない時間が長い分、彼女が黒澤家をずっと守ってきたのだ。
白鐘にとって諏方は父親でもあると同時に、母の代わりに彼に寄り添う妻の役割も果たしてきた。
――だからこそ、父親に親しき女性がいるかもしれないという可能性に、彼女自身驚くほどにショックを受けていたのだった。
「……本当にこのままでいいの?」
一切の茶化しなく、珍しく真面目なトーンで進が親友に尋ねる。
「……お父さんが幸せなら、あたしはそれで……」
「……本音は?」
白鐘の手がまだ少しだけ震えている。動揺からではなく、知りたくない事実を知ってしまうかもしれない恐怖からであろうか。
だが――、
「…………知りたい。その女の人がお父さんの恋人なのか、ただの知り合いなのか……その人をお父さんが、どう思っているのか……!」
か細くも、その声には真実を知らなければという決意がこもっていた。
「……そうとくりゃ、話は早いってもんさ!」
そう言って進はさっそうと立ち上がり、突然くるっと一回転。右手は何かを握るように丸めて、口元に近づける。
「この名探偵天川進の名にかけて、諏方おじさまの浮気を調査し、真実を掴もうじゃないか……!」
左手の人差し指を天に向けて決めポーズ。
「いや、だからお父さん独り身だから浮気じゃないってば」
また茶番が始まったと、銀髪少女本日何度目かのため息。
「初歩的な事だよ、ワトソンくん」
「誰がワトソンよ」
「探偵は小説やドラマみたいに事件を解決するのがメインだと思われがちだけど、現実は浮気調査がお仕事ってのが大半なんだよ……!」
「だからって探偵のモノマネする必要なんてないでしょ――って、浮気調査ってまさか……?」
「そ。諏方おじさんを尾行するのさ!」
「名推理!」とでも言いたげに、進はウィンクしながら人差し指を上げる。
「バカ言ってんじゃないわよ。だいたい、お父さんに直接訊けば済む事でしょ?」
「で? ホントに直接訊ける? お父さんは今お付き合いしてる女性がいますかって?」
「それは……」
実際にお付き合いしてる女性がいてもいなくても、そんなふうに訊いてしまえばしばらく二人の間に気まずい空気が流れかねない。
――何より、いざ「はい」と肯定されてしまう可能性を考えると、その先自身がその答えにどう向き合えばいいかがわからず、白鐘に直接問う勇気はわかなかった。
「んじゃ、諏方おじさんを尾行するのに賛成、って事でいいよね?」
「っ……」
何も悪い事をしたわけでもない父親を尾行するという行為に罪悪感は感じるものの、それでもなお父親がどんな女性と親しくしているのか、知らないままでいるという選択肢を選ぶには、今の彼女は冷静になりきれなかった。
「なら善は急げ! 今日の放課後にでも、諏方おじさんの会社近くまで行って尾行するよ。いいね、白鐘?」
真剣な声での最終確認。白鐘はそれに口で返答はせず、ただ静かにうなずく。
「よし! 今日の部活はキャンセル! 名探偵天川進とともに真実を暴きに行こうぞ、ワトソンくん!」
まだ放課後までは授業が残っているというのに、進はすっかり探偵になりきっていた。
「……この展開、前にシャルちゃんともやったわね……」
魔法探偵にハマっていた魔法使いの少女のことを思い出し、白鐘は頭を抱えながら呆れ笑うしかなかった。
◯
「つーわけで、現在諏方おじさんの会社前まで到着しました……!」
「…………」
放課後、夕焼けに照らされた十階建てのビルの前に広がる並木道。その内一本の木の影から、二人の少女がビルの入り口を覗き込んでいた。
たしかにビル側からは見えずらい場所ではあるのだが、横は普通の開けた道のため、道歩く人たちからはジロジロ見られ、恥ずかしさで白鐘は顔を真っ赤にする。
「ねえ、進……他に隠れられる場所なかったの?」
「しょうがないじゃん、ここが一番ビルから人の出入りが見やすいんだから。それよりほら」
進から唐突にコンビニの袋を渡される白鐘。中には小さい紙パックの牛乳と、あんぱんが一つ入っていた。
「これぞ、張り込みのド定番! 一度やってみたかったんだよねぇ……!」
「牛乳とあんぱんで張り込みって……もうそれ探偵ものじゃなくて刑事ものだからね……」
本日何度目かのツッコミは、さすがに白鐘も疲弊で力が入らなくなる。呆れ気味ながらも、もらったものは仕方ないと牛乳とあんぱんにそれぞれ口をつける。
そうして通行人に見られながら数十分――、
「……来たよ、白鐘!」
「っ……!」
進が指さす方向に視線を向けると、会社の出入り口からではなく、横道からスーツ姿の諏方が現れたのだった。
「……なんで会社じゃなくて外の方から歩いてきたんだろ?」
「……お父さんって営業部だから、外回りしてたんじゃない?」
――諏方が会社から謹慎処分をくらっているのを知らなかった二人は、外での営業の仕事から戻ってきたのだろうと解釈する。
諏方は会社のビルには入らず、入り口の横に立って缶コーヒーを開ける。ビルから出てきた仕事を終えたであろう社員たち数人と挨拶を交わしつつ、スマホの画面を見ながら彼はその場でコーヒーを飲んで立ちっぱでいた。
「……誰かと待ち合わせ?」
「うむ、いかにもデートの待ち合わせって感じ――っていだいいだい! 拳で頭ぐりぐりしないで⁉︎」
進は痛む頭をさすりながら、ビルの入り口を見張り続けてさらに数分――、
「あっ――!」
入り口の自動ドアが開き、見覚えのあるメガネをかけた女性がビルからついに出てきたのであった。
「白鐘、あれ! あれ! あのお姉さんが、昨日諏方おじさんと並んで歩いてた人だよ!」
「っ……」
メガネがよく似合う端正な顔立ちの女性は、諏方を見つけると笑顔で彼の元へと駆け寄る。諏方も彼女に気づき、スマホをしまってポケットからもう一本缶コーヒーを取り出して彼女に渡す。女性は嬉しげな表情でそれを受け取り、そのまま二人は並んで歩き始めた。
「お父さん……本当に……」
「……なに突っ立ってんよ? 尾行はここからが本番でしょ」
「……うん」
進に手を引っ張られ、二人の少女は諏方たちのあとをこっそりと追いかける。
「…………」
楽しげに歩く父の背中を複雑な表情で見つめながら、気づかず中身のなくなったあんぱんの袋を、白鐘は強く握りしめていた――。




