第7話 将来の夢
黒澤諏方と藤森小鳥――二人は部屋の中心に置かれた小さなテーブルを挟む形で、互いにやわらかい毛の絨毯が敷かれた床に正座していた。二人の酔いはすでに醒めており、先ほどまで赤みがかっていた表情は気まずさで青ざめている。
「…………その、引いちゃいましたよね……ぬいぐるみを集めてるどころか、自分で作ってそれを売ってただなんて……」
「そ、そんな事はないよ! ……いやまあ、ビックリはしたけど……今人気のぬいぐるみ専門ネットショップのオーナーが、まさかこんな身近にいただなんてね……」
「…………」
「…………」
すぐに互いにかけ合う言葉がなくなり、無言の時間が流れていく。重い空気の中を、淹れ直されたお茶の湯気だけが自由に浮遊していた。
「…………でも、係長がこういうのに興味あると思ってなかったので、『ショップ・リトルバード』のことまで知ってたのはビックリしました」
「ああ……僕の娘の友人がたまたま君のファンでね――」
昨日の事を思い出しながら諏方が進のことを口にすると、小鳥が突然バッと勢いよく顔を上げる。その瞳は先ほど沈んでいたとは思えないほど、きらびやかに輝いていた。
「わ……私の作ったぬいぐるみを買ってくれた人が、身近にいるんですか⁉︎」
テーブルに身を乗り出し、鼻息荒く質問する新人後輩。わずかな期間だけしか面倒を見ていなかったとはいえ、これほどテンションが高まった状態の彼女を初めて目にし、諏方は思わずたじろいでしまう。
「う、うん……でっかい狼のやつを買ってたよ……」
「狼さん……なめ狼シリーズですね! ……あれは私の作ってきたぬいぐるみの中でも一番のお気に入りなので、すっごく嬉しいです……」
少し落ち着いたのか、小鳥は再びキレイな姿勢で正座し直す。酔いでも照れでもなく、興奮によって彼女の頬がまた少し赤くなっていた。
「ちなみに……その娘さんのご友人さんはぬいぐるみ、気に入ってくださいましたか……?」
先ほどまでの勢いはどこかへと行き、今度はもじもじしながら小声で問いかける。
「……すっごく喜んでたよ。ずっと待ってたのか、嬉しそうに抱きしめてた」
諏方が彼女を安心させるように優しい笑みでそう答えると、小鳥は安堵のため息を吐き出した。
「よかったぁ……。私、このオンラインショップを始めてまだちょっとしか経っていないんですけど、最近口コミがきっかけですごく売れるようになってきて……評価されているんだとわかってはいるんですけど、私がぬいぐるみを作っているのなんて家族以外誰も知らなくて……だから、こうして身近にいる誰かからの生の声が聞けたのがとても嬉しいんです……!」
言葉通り小鳥の表情は本当に嬉しそうで、初めて彼女に仕事を任せて上手くいき、同じく嬉しげに喜んでいた時の事を上司である諏方は思い出す。
また少し沈黙の間が空くが、何かを決心したかのように小鳥は深呼吸する。
「本当は私、ぬいぐるみ職人になるのが夢だったんです……! 今のショップを立ち上げる前にもイベントとかに出展したりとかはしてたんですけど、どれも結果は散々で……。家もあまり裕福ではなかったので、大学時代の途中で夢は諦めて、安定した収入のために今の会社に就職したんです。でも……どこかで諦めきれない自分がいて、試しにと思って始めたオンラインショップが気づいたら大盛況になってて……すごく嬉しいはずなのに、未だに実感がわかなくて気持ちがフワフワしているんですよね……」
先ほどは嬉しそうにしていたのに、気持ちを吐露する今の彼女はどことなく複雑げな表情を浮かべていた。
「……でも、今はちゃんと評価されて、ぬいぐるみも売れているんでしょ? それは藤森さんがこれまで頑張ってきた事への正当な評価だろうし、素直に受け止めてもいいんじゃないかな?」
「……もちろん、やっぱり嬉しくはあるんです。でも……仕事を続けながらだと、ぬいぐるみ一個作るのにもどうしても時間がかかっちゃうし……だからといって、いつまでも私のぬいぐるみがみんなに愛されて売れ続ける保証もないのに、今の仕事をやめるわけにもいかないし……」
ここまできてようやく、諏方は後輩の言葉の真意に気づく。
「つまり……今の仕事をやめてぬいぐるみ作りに専念するか、今のまま続けるか――悩んでいるんだね?」
「っ……」
同じ会社に通ってる手前、「はいそうです」とストレートには言わないが、否定するようなそぶりも彼女は見せなかった。
――素直に応援したいという気持ちはもちろんある。
だが、諏方にはそれを軽々しく口にする事はできない。
会社をやめられると困るという思いもまったくないというわけでもないが、それ以上に「頑張れば夢は叶う」という言葉を無責任に使うには諏方は社会を知りすぎており、同時に彼女もその言葉を言葉のまま受け止めるほど『子供』ではないのもわかっているからだ。
たしかに彼女が会社をやめればぬいぐるみ製作の効率は上がり、より小鳥のぬいぐるみ職人という夢は実現に近づいていくであろう。だが、安定した収入を切るというリスクを背負わせたまま彼女の背中を押し出せるほど、無責任な大人にはなれないのだ。
「…………」
諏方はしばし、彼女にかけるべき言葉を考える。そこでふと、そばにあった棚に飾られたぬいぐるみに手を伸ばす。
「……黒澤係長?」
手に取ったのは銀色の狼のぬいぐるみ。進が購入したなめ狼シリーズの別カラーのぬいぐるみであろう。
学ランを身にまとった不良風の狼のぬいぐるみ――その愛らしくもどことなく荒々しさを感じさせる見た目に、かつての不良時代の自分を諏方は重ねていた。
「……僕は若いころ、将来の夢を持てるほど余裕のある生き方はできなかった。常にその日を生きるかどうか――小さい時も高校生の時も、そんな毎日がずっと続いていた。そんな僕からしたら、今の君はとてもまぶしく見えるよ……」
「っ……」
小鳥は今朝の会社の受付前での騒動を思い出す。穏やかだった上司が我を忘れるほどに怒り狂った相手である小太りの男――彼が上司とどういう関係にあったかはわからないがその時の光景を思うと、今の諏方の言葉も決して軽いものではないのだと彼女も察した。
「でも……だからこそ、僕には想像できない悩みが君にもあるんだろう……。そんな僕の言葉に説得力なんてないかもしれないけど……藤森さんは、今のままでいいと僕は思うんだ」
「今のまま……ですか?」
彼女の声に、わずかばかりの不安が混じる。
「会社をやめない。でも、夢も諦めない――両立するのはとても大変で、だからこそ今も藤森さんは悩んでいるんだよね? 幸い、今の会社は本業に支障が出ない限り、副業は許可されているけれど……藤森さんは、今の仕事は嫌いかい? あ、僕が上司だとか、そういうのは気にせず正直に」
小鳥はしばし返答に迷う様子を見せたが、すぐに上司の顔をまっすぐに見やる。
「……正直、会社に入る前は仕事の内容自体にあまり興味はありませんでした……でも、係長にお仕事を丁寧に教えてもらって、仲良い同僚も増えて、お仕事が上手くいった時はすごく嬉しくて……お世辞でもなんでもなくて、今の仕事も、その……すごく好きです……!」
「……うん。なら、つらいのを承知でこれからも両立していいと僕は思うよ」
「……でも、それだとどっちも、このままずるずると中途半端に立ち止まってるだけじゃ……」
「……今のままでいいとは言ったけれど、それは立ち止まる事と同じではないんだよ? ゆっくりとだけど、一歩一歩藤森さんはちゃんと進んでいるんだ。……ゆっくりと進むのはじれったい事かもしれないけれど、急いで進んでちゃうとどこかで転んで大ケガしちゃうかもしれない。でも、ゆっくりと進めば時間はかかっても、いつか目的地にはたどり着けるかもしれない」
「……その目的地が、わからないままでもですか……?」
「……前へ進めば、いつか分かれた道を選ぶ決断をしなきゃいけない日がきっと来る。でもゆっくり進めば、その分どの道を進むか決めるために考える時間が増えるでしょ? ……君がぬいぐるみ職人に専念する道。夢を諦めて今の仕事を続ける道。……そのどちらも捨てず、両立したまま両方を頑張る道――もっと他にも、用意されている道が君にはたくさんある」
「道が、たくさんある……」
陰りかけていた彼女の瞳に、また少し光が戻っていく。
「君はもう大人だけれど、何もかもを決めるにはまだ若い。さっきも言ったけど、今の仕事もぬいぐるみ制作も両立するのはとても大変かもしれないけれど、どっちも楽しいと思える内はきっと続けられる……。もし途中でつらくなったら、お酒にでも少しだけ逃げちゃえばいい。ちょっと無茶できる体力もあってお酒も飲めるのは、君ぐらいの『大人になりたての若者』の特権なんだよ?」
また彼女を安心させるようにやわらかく微笑むも、小鳥はしばし呆然としている。
――うっ、ちょっと説教くさくなってしまっただろうか……?――。
内心焦り始めていると、突然彼女がお腹を抱えながら笑い出した。
「あはは…! 係長……なんか思ってたより、説得がおじさんくさいんですね?」
「なっ……実際におじさんなんだから仕方ないだろ……!」
――若い状態ならもう少しカッコよく説得できたんだろうか……いや、若くなっても娘からはよくおっさんくさいって言われてたから、多分あんま変わらないんだろうな……――。
小鳥はひとしきり笑った後、落ち着くために自分の分のお茶を飲み、一息落ち着ける。
「……ありがとうございます、係長。やっぱり係長は私にとって、一番尊敬できる素敵な『大人』です」
「ッ――!」
ふいに見せた後輩の笑顔にドキッとし、思わず彼女から目をそらすために、手に持っていたぬいぐるみに視線を移した。
「そ、それにしても、なめ狼シリーズってけっこうあるんだね! 娘の友人が持っていたのは灰色だったけど、この銀色のやつとか、あとは赤とか黒とか……」
「えへへ……実は元々狼さんが好きでして、その銀色のなめ狼は初めて私が作ったぬいぐるみで、このカラーは唯一の非売品なんですよ?」
「え⁉︎ じゃあ、触るのまずかったかな……?」
焦る上司の姿があまりにも可愛らしくて、小鳥は彼を微笑ましげに見つめる。
「ふふ、気にしないでください。そのぬいぐるみ、実はモデルがいるんですけど……係長は『銀狼』って知ってます?」
「ブフッ――⁉︎」
新人後輩の女の子から予想だにしなかった単語が出てきて、諏方は思わず吹き出してしまう。
「えっと……た、たしか不良とかだって聞いた事はあるんだけど、そんな古いのよく知ってるね……」
「はい! かつて伝説と呼ばれた不良で、名前までは存じ上げないんですが……私の叔父が、銀狼さんがトップをつとめていた『銀狼牙』というグループに所属していた元不良だったみたいで、子供のころから銀狼さんの武勇伝をよく聞かされていたんですよ。……不良は悪い人だってのはわかってるんですけど、叔父さんから聞いた銀狼さんはすごくカッコよくて、小さかったころからの私の憧れの人なんです……!」
「元シルバーファング……」
――自慢ではないが、シルバーファングはそれなりに数の多いグループではあった。メンバーの誰かが藤森さんの親戚であったとしても、まあおかしくはないのだろうけど、いったい誰なんだろうか……?――。
疑問に思いつつ、図らずも自分がモデルになったぬいぐるみを諏方はしばらく見つめる。
「っ…………そうだ!」
何かを思いついたのか、諏方は銀色のなめ狼を棚に戻した後、勢いよく後輩の目の前にまで身を乗り出し、彼女の両手を握る。
「ふえっ⁉︎ か、係長⁉︎」
顔を赤くして戸惑う彼女の手を、諏方はさらに強く握りしめながら――、
「――藤森さんッ!! 君に、頼みがあるんだ……!」
◯
「ふええええええんッッ!! スガタさん、遅いですううううッ!!」
まるで寝てる間に親が出かけていたのに気づいた子供のように、シャルエッテが大きな声を出して泣きじゃくっていた。
「しょうがないじゃない、シャル。諏方さんにとっては久しぶりの大人状態。数ヶ月ぶりのお仕事に、きっと精を出しているのよ」
妹弟子の隣に座るフィルエッテは騒がしく泣いている彼女とは対照的に、落ち着いた姿勢でコーヒーを口に運ぶ。
時刻はすでに夜の九時を過ぎており、食卓には遅めの晩ごはんが並べられていた。
「うぐぅ……スガタさんのいない晩ごはんは寂しいですぅ……」
「わがまま言わないの、シャルちゃん。どうせ久しぶりに会社の人と会ったからって、今ごろ飲みにでも行ってるのよ。……これ以上お父さんを待っててもしょうがないし、先に三人で食べちゃお?」
お味噌汁の入ったお椀を運び終え、キッチンにてエプロンを外しながら、ぶっきらぼうげにシャルエッテを言いなだめる白鐘。
「…………」
彼女の視線の先には自身のスマホ。表示されている画面はメッセージアプリ。
『遅くなりそうなら、連絡ちょうだい』
父親宛に送ったメッセージ。その左下に、『既読』の文字は付いていなかった。
「…………お父さんのバカ……」




