第6話 君の名前は
「シャツは乾燥機にかけておきます。乾くまでに着られる服をご用意いたしますので、シャワーを浴び終わったら着替えてください」
「あ、シャンプーなどはあるやつ使ってください。その……私は気にしないので……!」
「いえ! 私は係長がシャワーを終えてから入るので! その……ちょっと部屋が汚いので、軽くお掃除もしたいのです……!」
◯
――いやいや! どう考えてもまずいでしょ⁉︎
浴室の壁に手を当てシャワーの雫を背中から浴びながら、諏方は高鳴る心臓を抑えこんでいた。
背中から全身を伝うお湯は、雨に濡れて冷えきった身体を芯から温めてくれる。顔は依然真っ赤ではあったが、すでに酔いはある程度醒めており、彼の顔を赤らめさせているのはどちらかといえば羞恥によるものだった。
「……いやいや、酔った勢いってものはあるにせよ、四十代の中年男性が二十代の若い女性の家に上がりこむどころか、シャワーを借りるなんてあっちゃダメでしょ、常識的に考えて……!」
雨やどりという大義名分があるとはいえ、マンションの一室に男女二人。こんなお約束な展開、健全な男性ならば逃す手はない……いや! むしろ何もしないのは男として失礼だというもの――、
「――いやいや! 思春期丸出しの高校生かい、僕は⁉︎」
ハァッ……っと、強めのため息を吐き出し、顔を上げてシャワーのお湯を顔面に浴びせる。
――たしかに昨日までは、高校生の身体にはなっていた。だが今は、元の四十代のオッサンなのだ。間違っても、二十代の若い女性が親切心でシャワーを貸しているからって、『自分に気があるのでは?』などと勘違いして舞い上がるわけにはいかない……!
「……あんまり帰りが遅いと白鐘も心配するだろうし、シャツが乾き次第、すぐに帰るようにしよう」
自身の頭に浮かんだ煩悩を払うべく顔をパンパンと叩きながら、シャワーを借りたまま後輩が濡れた状態を長く放置するわけにはいくまいと、諏方は急いで頭と身体を洗い流していく。
◯
「うーん……実にファンシーだな」
脱衣所に丁寧に折りたたんだ状態で置かれた部屋着。白地のシャツには子供が好きそうな可愛い動物のプリントがあしらっており、後輩の趣味を上司は垣間見たような気がした。
我ながら似合ってないなと自嘲しつつ、諏方は素直にこれに着替え、タオルを頭にかぶせて脱衣所の扉を開く。
「ありがとう、藤森さん! おかげで、身体も温まったよ――」
脱衣所から抜けて廊下一本の先にある横引きの扉を開く。藤森の家は少し広めのワンルームマンションであり、必然玄関から伸びた一本の通路の先にある部屋が彼女の私室となっていた。
「――――ッ⁉︎」
「…………あ」
開かれた扉の先に立っていたのは、濡れたスーツを脱いでとりあえずの部屋着に着替えようする途中の、下着姿の後輩女子であった。
「…………きゃあ――」
「――ごめんなさいっっ⁉︎」
急いで彼女から目を逸らしながら、扉を勢いよく閉める。
『す、すみません! もうちょっとかかるかなって思って、その……一旦着替えちゃおうかなぁって……』
閉めた引き戸の先から申し訳なさげな声が小さく聞こえる。
「いや、ノックもなしに扉を開いた僕が悪いんだ……。えっと……目を閉じてるから、今のうちに藤森さんもシャワーに行った方が……」
これまたラブコメのようなお約束の事態を起こしてしまった自身に呆れつつ、諏方は扉を背にして目を手で覆い隠す。
『えっと……服は着た状態でお風呂場に行くので、今は目を閉じなくても……』
「いや、これは自分への戒めみたいなものだから、気にしないでほしい……」
彼女を見ないように――というよりは、全面真っ赤になってるであろう自分の顔を見られたくないという理由で、諏方は両手で顔面を覆った。
少しして引き戸が開かれる音が聞こえ、「失礼しまーす……」と小さな声とともに、藤森が上司の横を通りすぎていく。
「……あ、私を待ってる間は部屋でくつろいでてください。温かいお茶も淹れてありますので……」
そう言い残された後、脱衣所の扉が閉じられた音を確認してから諏方は両手を下ろす。
未だに扉を開けた時の後輩女子の姿が頭にこびりついており、心臓が再び痛いくらいに高鳴りだした。
「ピンクだったな……って違う! これ以上は僕の身が持たない……。一週間を待たずして心臓発作で死んでしまいそうだ。……彼女には悪いけど、スーツは預けて服を借りる事になるが、今日はこのまま帰ろう……」
このままでは本当に取り返しのつかない事態になりかねないと、諏方は彼女がシャワーを浴びてる間に帰る事にした。
荷物はシャワー室に入る前に、藤森が部屋に運んでくれたのを目にしてはいたので、荷物を取りに行くついでにせっかく淹れてくれたお茶ぐらいは飲んでおこうと、彼女の部屋へと入室する。
「っ……!」
先ほどは後輩のあられもない姿に視線がいったせいで気づけなかった部屋の中を改めて目にし、諏方はしばし呆然としてしまう。
「部屋中……ぬいぐるみだらけだ……!」
八畳ほどの部屋の真ん中には小さなテーブルが一つ。その上にはノートパソコンと湯呑み。湯呑みからは淹れてくれたであろうお茶が湯気を立たせていた。
部屋のすみにはピンク色のフリフリが目立つシーツがかけられた少女チックなベッド。そのベッドの上、そして部屋の周りに置かれたいくつもの棚には、それぞれ動物のぬいぐるみが所狭しと飾られていたのだ。
ぬいぐるみはどれもキャラクターチックなデザインをしており、ピンクに染まった壁紙も相まって、まるで古い田舎町にありそうなぬいぐるみ屋さんに迷い込んだような錯覚を受ける。
「シャツのデザインからして察しはできていたけど……ここまでくると、本当にぬいぐるみ屋を開いてるみたいだな――」
「――やっぱりおかしいですよね……こういうぬいぐるみが好きなの……」
「――うわっ!」
すでにシャワーを浴び終えたのか、私服のスウェット――こちらにも動物のキャラクターがプリントされている――をしっかり着込んだ藤森が、いつのまにか諏方の背後に立っていた。
「け、けっこうお風呂は早めなんだね……?」
「身体を温めるために、軽くシャワーを浴びただけですから……。その…………やっぱり変ですよね? 大人の私が、こんな子供っぽい趣味してるの……」
普段の明るい彼女とは別人のように、その表情に暗い影が差し込む。どうやら、彼女はぬいぐるみが好きである事に対してコンプレックスを持っているようであった。
「っ……」
最近似たような事があったな――などと、その時の事を頭に思い浮かべながら、諏方はゆっくりと語りだす。
「……僕の娘もね、学校ではけっこう優等生してるんだけど、実は大のゲーム好きでね? その事がこの前学校でバレて、クラスのみんなが意外そうな顔をしてたんだ」
それは諏方が高校生時代の年齢に戻り、娘と同じ学校に通う事になった初日。娘の心を少しでも開かせるため、彼は白鐘がゲーム好きである事をクラスメートたちに明かしたのだ。
白鐘に対して氷のようにクールで近づきがたいイメージを持っていたクラスメートたちは、誰もがその事に驚いた。多少強引な手段ではあったと諏方自身反省はしているが、結果的にはこれがきっかけで、彼女はクラスの生徒たちとも打ち解け合う事ができたのだ。
「たしかに趣味ってのは、人によっては変だなぁって思われるものもあるかもしれない……。まあ、藤森さんがぬいぐるみ好きなのは変だとは思わないけれど、ちょっと意外だなとは思った。だけどね……どんな趣味でも、自分にとって本当に大好きなものなら、それは誇れるべき事なんだなって、僕は思うんだ」
「黒澤係長……」
暗くなっていた藤森の表情に、少しだけ笑顔が戻る。
「……私、ホントは自分に自信なんてないんです。見た目すごく地味だし、子供のころはぬいぐるみが趣味だってだけで、からかわれる事も多かった……」
「っ……」
彼女のこの発言こそ、諏方にとっては意外であった。たしかに彼女の入社当初は、見た目のイメージからしてもっとおとなしい性格だと思っていただけに、彼女の明るさには驚かされた。
そんな後輩の口から自信がなかったという言葉が出てきた事に、諏方は少し戸惑ってしまう。
「……でも係長と出会ってから、私は変われたんです。……私を見下さずに他の新人と同じように接してくれて、指導してくれて……だからこの人の期待に応えようと思って、自分に自信を付けようと決めたんです……!」
「藤森さん……」
彼女の言う通り、諏方は他の新人と同じように彼女を指導した。彼にとっては特に意識した行動ではなかったのだが、それが後輩の自信へと繋がってくれた事を、彼は素直に嬉しく思えた。
「……そんな係長だから、きっと私の趣味がバレても、笑わないでくれると信じてました。……だから勇気を出して、係長を家にお誘いしたのです。係長なら私がからかわれた趣味も、きっと受け入れてくれるだろうと思って……」
「…………」
諏方が思っていた以上に、後輩が自身を家に招いてくれたのは特別な意味がこもっていた。
その思いは、諏方もまた共感しえるものであった。
諏方も自身がB級映画好きである事を揶揄された事など何度もあった。今では特別珍しいとは思われないだろうが、この手の趣味が笑われていた時代を彼はよく知っている。
だからこそ、慕ってくれる後輩が勇気を出して自分の趣味を明かしてくれた事を、諏方は決して笑いはしなかった。
「……ところで、先ほど話した娘さんの趣味がバレたという話。クラスのみなさんの反応が見れたってことは、その場にいたって事ですよね? 授業参観でも行かれたのですか?」
「あ……」
たしかに先ほどの諏方の言い方だと、彼がその時教室にいたと推察されてもおかしくはないだろう。
藤森からしたら何気ない質問ではあったのだが、途端に諏方は、彼女に問い詰められたかのような焦りを見せてしまう。
「そ、そうそう……! 実はこの前、娘の授業参観があってね――って、いた⁉︎」
不用意な発言をして、あわてる脳は無意識に身体を後ずさりさせてしまい、中央のテーブルに思わず足がぶつかってしまう。
「係長! 大丈夫ですか⁉︎」
ケガをしたのではないかと駆け寄る後輩を手で制す上司。
「とくにケガはしてないから大丈夫だよ。それよりごめんね? 今のでお茶こぼしちゃって――」
足をぶつけた拍子にテーブルがゆれて上に置かれた湯呑みを倒してしまい、諏方はこぼれたお茶を拭くためにカバンからハンカチを取り出そうとする。
そこで、電源が点いたままだったノートパソコンのスリープが解除されて、真っ暗だった画面にとあるサイトが表示され、それが諏方の視界に映ってしまった。
「これは……」
そのサイトと同じものを、諏方はごく最近目にしている。それは昨日、進も利用していたというぬいぐるみ専門のオンラインショップ『ショップ・リトルバード』のサイトであった。
改めて部屋の周囲を見回してみると、棚やベッドに飾られたぬいぐるみの一部に、リトルバード製であろうデフォルメされた動物のぬいぐるみがいくつか混ざっていた。
だが画面に表示されていたサイトに、諏方は違和感を抱く。そのサイトはどうも、進が見せてくれた画面と一部構成が違っていたのだ。
「ッ――⁉︎」
そして諏方は気づいてしまう。ぬいぐるみのサイトの名前と、藤森のある共通点を――。
「……藤森さんの下の名前って、たしか……」
諏方のその問いに、彼がとある事に気づいてしまったのを藤森も察してしまう。そして、彼女は気まずげながらも小さな声で、上司に名を告げる。
「……藤森…………藤森小鳥です……」
諏方が思わず目にしてしまったノートパソコンに表示されていたサイト――それは、『ショップ・リトルバード』の販売者側専用の画面であったのだった。




