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あたしのパパは高校二年生  作者: 聖場陸
銀色の復讐編
167/322

第5話 憎しみは未だ消えず

 ――何も見えない。


 ――――何も聞こえない。


 ――――――――――ただ、






 ――――握りしめた拳が、()けるように熱かった。






「――もうやめてください、黒澤係長ッ!!」


「――ッ⁉︎」


 女性の悲痛な声が耳をつんざき、黒澤諏方の瞳にようやく視界(えいぞう)が映った。


 見えるのは床に倒れ、頬が少し腫れ上がり、口から血をたらす小太りの男。


 諏方は組み伏せる形で彼にのしかかり、荒く息を吐き出しながら血まみれの拳を振り上げたところを、他の社員たち二名に両側から抑えられていた。


「ハァ……ハァ……」


 諏方は腕を止められてなお、血走った瞳で床に倒れる男を睨み下ろしている。


 様子からして、先ほどまで諏方が小太りの男を床に押し倒し、彼の身動きを封じたまま上から何度も拳を振り下ろした――その途中で、他の社員たちが諏方の腕を抑えて止めたといったところであろう。


 周囲は青ざめた表情で、久方ぶりの出社となった中年社員の荒ぶる姿を見つめている。




 そんな中、何度も殴られた当の小太りの男性は、口から血を垂れ流したまま――(わら)った顔で諏方を見上げていた。




「衰えましたねぇ、諏方くん……拳に重さが感じられませんよ?」


「ぐっ――!!」


 さらに殴りつけるため、無理やり腕を振りほどこうとする諏方を両側に立つ社員たちはさらに強く抑えつけ、彼の身体を持ち上げて小太りの男から距離を離させる。


 上からかかった重圧から解放された小太りの男は、先ほどまで殴られていたとは思えないほどに優雅に立ち上がり、倒れる際に落ちた中折れ帽(フェドラ)を拾い上げて深く被る。


「やはり二十年は長すぎましたか……私も大概年は取りましたが、それでも君の拳はあまりにも軽く感じる」


「ぐっ……なんで…………なんで貴様がここにいる、黒澤剛三郎ッ――⁉︎」


 血走った瞳で睨みつけられながらもなお、剛三郎は余裕のある笑みを崩さなかった。


「先日ようやく出所できたのですよ。で、可愛い甥である君に、まずは挨拶をと思いましてね。にしても……あなたが若返ったという噂を聞いていのですが……やはりただのガセ情報でしたかな?」


「ッ――⁉︎」


 激昂していた諏方の顔から血の気が引く。


 ――どこから、そんな情報が……?


「……フフ、まあいいでしょう。これ以上騒ぎにならぬよう、私はここでお(いとま)しましょう。では……また会うのを楽しみにしていますよ、黒澤諏方くん?」


 最後にニヤリと笑みをさらに歪ませてから、何事もなかったかのように剛三郎はオフィス内から立ち去ってしまう。


「っ…………」


 もうこれ以上は暴れないだろうと判断され、両腕を解放された諏方は崩れるように、地に膝を付けてしまう。


「あの男が……出所…………今さら、なんでこんなッ……!」


 恐れや奇異の眼で見つめられながらもそんな視線など気にも止めず、諏方は嗚咽おえつするように行き場のない怒りを吐き出す事しかできなかった。




   ◯




「……まったく、復帰早々このようなトラブルになるとはね……」


「はい……本当に申し訳ありません……」


 受付前での騒動から少しして、諏方は上司である営業部の部長の座るデスクの前にて、深々と頭を下げていた。


「……急ではあったが、私も君が一週間限定とはいえ、復帰すると聞いて楽しみにしていたんだがね……」


 深いため息を吐き出す部長。諏方の新人時代から面倒を見ていた彼にとってこの言葉は嘘ではない。本当に残念そうに吐露する上司の声に、諏方も心苦しく感じ、頭を上げられないでいる。


「……すまないが、さっき社内で君に一週間ほどの謹慎処分がくだった」


「ッ――⁉︎ 一週間って、それって……」


「これ以上は言わせないでくれたまえ。上が決めてしまった事だ。私も抗議はしたのだが……残念ながら社長命令だ」


「っ……」


 苦々しくも残酷な決定を告げる部長に対し、諏方は何も言い返す事はできない。


「……まあ、クビになるわけではないのだ。これまで通り君の席は空けてあげるから、またいつか戻ってきなさい」


「……ありがとうございます、部長」


 ――せっかく職場の仲間たちと、また一緒に仕事ができると思っていたのに――そんな彼の思いは、一夜にしてあっさりと砕け散ってしまった。


「黒澤係長……」


 そんな彼の寂しげな背中を、先ほどの暴動を叫んで引き止めた藤森は悲しげに見つめていた。




   ◯




「――というわけで、飲みましょう!」


「――え?」


 前回の長期休暇が突然であったためにできなかった引き継ぎ作業を行うため、今日一日は会社にいられた諏方は作業を終えた後、部下である藤森に引っぱられて近くにある大衆居酒屋へと連れられて行ってしまった。


「せっかく二ヶ月ぶりに係長が復帰してくれたのに、一週間どころか一日でまた会社を休まれるのですよ? これが飲まずにいられますか!」


「いや、そのセリフは僕が言うべきのような……?」


 あれよあれよとしてる()に、中ジョッキのビール二杯とおつまみが次々とテーブルに並べられていく。もはや逃げ場はないといった感じだ。


「今回は係長の残念会も兼ねているので、ここは私に奢らせてください!」


「いやいや⁉︎ さすがにまだ新人の部下に奢らせるわけにはいかないよ⁉︎」


「でも……二ヶ月休んでいるから、今は私の方が稼げてますよね?」


「うっ⁉︎ ……それに関しては反論できないね……」


 藤森に対して、以前からアグレッシブな子だという印象は受けていたが、まさか上司相手にもここまで強引に突き進んでいくタイプだったとは思わず、諏方は勢いに押されてタジタジになってしまう。


「……せめてワリカンって事にしてほしい。さすがに全額払わせるのはあまりに情けなくて軽く死にたくなってしまう。これは上司命令だよ」


「むぅ……上司命令と言われたら、さすがに従わざるを得ません。……ひとまず、カンパイしましょうか?」


「……そうだね。こうして君に久しぶりに会えただけでも、復帰した甲斐(かい)があったというものだ。では……カンパイ!」


 二つのジョッキグラスが甲高い音を鳴らし、上司(すがた)部下(ふじもり)は共にキンキンに冷えたビールを喉に流し込んだ。




 ――飲み始めてから二時間、二人はすでに十杯近くビールをおかわりしており、すっかり酔っ払(できあが)って顔を赤くさせていた。


「それで部長が事あるごとに、『黒澤はまだか? 黒澤はまだか?』ってうるさいんですよ! 私たちだって、係長を待っている気持ちは同じなのにぃ……!」


「ははは……それは僕もずいぶんと愛されたもんだねぇ……」


「当たり前じゃないですかぁ! 係長が優しく丁寧に指導してくれたおかげで、私たち新人もすぐにお仕事を覚えられたんですから……! ……私たち営業部にとって、黒澤係長は一番の憧れの上司なんですよ?」


「あはは……そこまでストレートに褒められちゃうと、なんだか気恥ずかしくなってしまうよ……」


 酔いで赤くなっていた顔が照れでさらに紅潮こうちょうしてしまう。


 実際、諏方の優しくも熱心な指導は新人たちにもわかりやすいと評判がよく、それゆえに彼を慕う部下も多い。諏方が長期で休む事になってしまった後も、彼の教育によって成長した後輩たちのおかげで持ち場を回す事ができたのだ。


 自分の教え子同然である部下たちが会社に貢献してくれている事がわかり、憂鬱げだった諏方の心に日差しが照らされたかのように、少しだけ気分が軽くなっていった。


「……係長…………さっきの事、くわしくは教えてくれないですよね……?」


「っ……」


 彼女が指したのは、今朝会社の受付前で起きた、黒澤諏方が男にのしかかって殴りつけた事件のことであろう。


 なぜあのような事になってしまったのか、あの男が何者であったのかを上司数名相手に説明せざるを得なかった時は、諏方もさすがに隠す事もできなかったが、


「すまない……あんな姿を見せてしまった手前、君にも事情を説明するべきなのかもしれないけれど……できれば、訊かないでくれると助かる……」




 ――言えるわけもないだろう。あの男が、幼かった僕を虐待した()()だっただなんて……。




 ――脳裏に焼きつくは、嬉々としてムチや木刀で僕の身体を痛めつけながら、下卑た笑いを浮かべた男の表情(かお)――。


「っ……!」


 思い出したくもない光景が頭によぎり、胃の中がせり上がって今にもこの場で吐いしまいそうになるが、部下にこれ以上情けない姿を見せるわけにはいかないと、諏方はなんとかこらえる。


「あ! もしかして飲みすぎちゃいました……? そろそろ、お開きにしちゃいましょうか……」


「……うん、そうだね」


 おそらくは酔いによる吐き気と勘違いさせてしまったようだが、逆に好都合であると諏方は考え、彼女の提案に乗っかる事にしたのだった。




   ◯




「――うわっ! いきなり雨降ってきましたね……!」


 店を出てから少しして、突然大粒の雨が降り始めた。ザーザーと甲高い音を立てて、雨水はあっという間に街灯に照らされたアスファルトを濡らしていく。


 二人はあわてて近くの屋根のある建物の入り口前にまで走って雨やどりをする。強い勢いの雨は降り始めてから一分と経っていなかった諏方たちの全身を濡らし、雨水を吸ったスーツが身体に重くのしかかる。


「うーん……天気予報だと特に雨マークも付いてなかったから、傘持ってきてないなぁ」


「私もです。どうしましょう……」


 雨の勢いからしておそらく通り雨だと思われるが、いつ止むかは定かではない。


「駅まではまだ距離があるし、かといって全身びしょ濡れで、雨が止むかタクシーを待ってると風邪ひいちゃいそうだね……」


 とはいえ他に方法もないだろう。諏方はアプリでタクシーを呼ぼうとポケットからスマホを取り出そうとして――、




「――あの!」




 突然振りしぼったかのような大声を出した藤森に驚き、スマホを取り出そうとした手が止まる。


 まだ酔いが覚めてないのか、顔がなお紅潮しながら藤森は上司に目を合わせず、だがか細くもさらに振りしぼった声で、






「――――私の家、ここから駅に行くよりもすぐ近くなんですけど…………よかったら、雨やどりに来ませんか……?」






「…………え?」


 ――空を染める黒い(夜の)カーテンから降り注がれる水の音が、さらに高く響いて聞こえたような気がした。

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