第1話 悪夢
――暗闇包む石造りの地下牢は、年中冷たい空気で壁を濡らしていた。
中央にテーブルとイスが一つ。テーブルの上には渇いた米粒やパン屑などの食べこぼしの残骸が散らかっており、その横にはムチや木刀など、見ただけで『暴力』を想起させるような道具がキレイに並べられていた。
――そして地下牢のすみに、腕を鎖つきの錠で縛られた少年が一人。
『…………』
少年は言葉を発さない。声を上げるなどという些細な抵抗をする気力など、この場所に来てから一週間ほどでとうに尽きていた。
――扉が開くような音とともに、一筋の光が地下牢の暗闇に差し込む。
だがそれは、希望の光などではない。階段を降りる重い足音が連れ添うは、一人の男がもたらす絶望――。
『むふふ、すっかりおとなしくなってしまいましたねぇ……』
聞くもおぞましい下卑た声とともに、階段を降りきった小太りの男は鎖に繋がれた少年の目の前にまで近づく。
『ああ……相変わらずなんて美しい肢体なのでしょう……。少年特有の瑞々しさ……まるで幼かったころの兄さんを見ているようだ……! それに、女性と見紛うような美しくしなやかな銀髪……兄さんを奪ったあの女のことは憎んでいましたが、あなたにこの髪を遺伝しただけでも生きていた価値はあると言えるでしょう……!』
もはや少年には、目の前の男の喋る言葉の何一つをも理解できていない。ただ――、
『っ……!』
――わずかな気力だけで、少年は男を必死に睨む事しかできなかった。
『……ふふ、よかった。完全に壊れてしまっては、芸術品としての価値が下がってしまいますからねぇ……』
そう言って男は心底嬉しそうに、少年の顎に手を添えてクイッと見上げる形に傾ける。
『――ボクを憎みなさい、黒澤諏方くん。……ボクへの憎しみが増幅すればするほど、あなたは真の芸術作品へと昇華されるのです……!』
◯
「――――ハッ⁉︎」
叫ぶような声とともに、自室のベットから少年が一人飛び起きる。心臓は痛いくらいに跳ね上がり、乱れた息は喉を通るたびに痛みを伴った。全身は汗にまみれて、白いシャツを濡らして肌がわずかに透けて見えている。
「……いつの間にか夕方になっちまってたか。日曜で特に用事もないとはいえ、昼間にスマホ眺めて寝落ちはカッコわりぃな……」
呼吸を落ち着けた後、諏方はカーテン越しに空が紅に染まっているのを見てため息をこぼす。
「…………」
画面が真っ暗なままのスマホをしばらく見つめる。泣いた覚えはないが、画面に映る自身の瞳は少し赤く腫れ上がっていた。
「ッ……⁉︎」
夢の中の映像が一瞬脳を過ぎり、痛みで頭を抱えてしまう。
「……なんで…………なんであの時の光景を今さら夢で見るんだ……?」
問いても答える者は誰もいない。
再び呼吸を落ち着けるために息を大きく吐き出し、諏方はベッドから立ち上がって汗ばんだシャツを脱ぎ、ノースリーブのシャツへと着替える。
脱いだシャツを脱衣所にある洗濯カゴに入れるため、部屋を出て階段を降りると、リビングにそれぞれコーヒーを飲んでくつろいでいた娘とその友人の姿を確認した。
「よー、進ちゃん。来てたのか」
名を呼ばれた少女が少年の姿を確認すると、にこやかな笑みを彼に向ける。
「おそよー、諏方おじさん。こんな時間に起きるとは重役出勤ですかな?」
諏方は脱衣所にシャツを放り投げた後、キッチンへと向かって冷蔵庫にあるペットボトルの水を取り出す。
「はは、残念ながらおじさんには中間管理職が関の山ですよ。……ま、今は高校生だからそんなもん関係ねえけど」
諏方が高校生の年齢にまで若返ってから二ヶ月が経つ。本物の若者たちに混じって学校生活を送るのにもすっかり慣れてきたが、わずらわしさすら感じていたはずの会社員時代を時折懐かしむ事も少なくはなかった。仕事そのものは楽ではなかったが、会社の仲間たちとともに仕事をする時間や、仕事帰りに飲みに行った時間は実に幸せなものであったのだ。
「……同僚や後輩たちは、今ごろ元気にしてるだろうか……」
多いとは思っていないが、少なからずいた自身を慕ってくれる会社の仲間たちの顔を浮かべながら、諏方はペットボトルの水を喉に流しこむ。
「夕飯まではまだちょっとかかるし、お父さんも先にコーヒー飲んどく?」
「お、それじゃあ愛娘の淹れてくれるコーヒーをありがたくいただきますかね」
「オッサンくさ」
「はう!」
白鐘とキッチンを入れ替わる形で諏方はリビングへと戻り、ソファに座っていた進へと視線を向けると、彼女もまた目を細めて彼を見つめ返す。
「ふーむ……しっかし事情はわかったとはいえ、『転校生の正体は幼なじみの父親でしたー!』ってのは今でも不思議な感覚になるわねぇ」
「はは……騙すような感じになっちまって悪かったな」
「べーつにー、もう気にしてないって。……それより、今日は妙に情熱的な視線を送ってくるじゃん……?」
進の言う通り、諏方はジッと彼女のことを見つめる――いや、正確には彼女が抱きしめている巨大な毛むくじゃらの物体に視線を注いでいたのだ。
それは狼のぬいぐるみだった――。抱きしめている進の上半身よりも大きなぬいぐるみで、灰色の綿毛に埋もれる黒いつぶらな瞳がなんとも愛らしかった。
「……進ちゃんが女の子アピールをする日が来るなんて」
「待て待て、アタシは女の子だ!」
進との日常的なやり取りを楽しみつつも、やはり物珍しさで諏方はしばらくぬいぐるみを見つめたままでいる。
「まあ実際、進ちゃんにこんなファンシーな趣味があった事に驚いてるよ。家にもそれっぽいのを飾ってた覚えもねえし」
「最近集め始めたんですぅー。それにこれ、ただのぬいぐるみじゃないんすよー」
そう言いながら進はスマホを取り出して、とあるサイトを開いて彼に画面が見えるようにテーブルにスマホを置く。
「なになに……『ショップ・リトルバード』?」
画面に表示されたサイトはぬいぐるみ専門のオンラインショップのようで、進が抱えているのと同じデザインの狼のぬいぐるみや、熊にうさぎなどの多様な動物のぬいぐるみが販売されていた。
「最近オープンしたばっかの個人ショップなんだけどさ、SNSで流行りまくってて、しかもお手製だから作られるのにも時間がかかって、今じゃ買うのも困難って言われてるほどのレアなぬいぐるみなんだよね。んで、たまたまこの狼のぬいぐるみの抽選販売に当たって、今日無事に届いたってわけさ」
「……なるほどねぇ」
画面に映っていたぬいぐるみたちはどれも『売り切れ』の赤文字が書かれているのを見ると、進の言う通りレアなぬいぐるみなのであろう。おそらく今日彼女が黒澤家に来たのも、この大きなぬいぐるみを自慢するためと諏方は推察した。
「にしても……」
諏方はさらに目を細めて狼のぬいぐるみに視線を戻す。ぬいぐるみの類に疎い彼ではあったが、それをもってしても彼女のぬいぐるみの異様な見た目には思わず首を傾げてしまう。
「……なんで学ランなんだ?」
ぬいぐるみは見た目こそ可愛らしい狼ではあったのだが、なぜか学ランのようなピッシリとした黒服を着せられ、頭には日の丸マークのハチマキが巻かれていた。まるで諏方の現役時代よりも古い不良のような服装であった。
「なめ狼シリーズを知らないんですか⁉︎ このブランド一番の人気の商品なんすよ!」
「いや知らねえよ」
なんだそのお酒のおつまみになりそうなネーミングは――と思いつつ、なんだか別の動物で聞いた事があるようなシリーズではあったが、諏方はそれにあえて言及しない事にした。
ふと、諏方はキッチンでコーヒーを淹れてくれている娘の方へと振り向いた。
「なあ白鐘、お前もこういうの欲しかったりする?」
「……べっつに、あたしはそういう可愛い系には興味ないよ」
白鐘はコーヒーと一緒に夕飯の支度に手をつけつつ、いかにも興味なさげといった表情で返答する。
しかし、父は見逃さなかった――娘がチラチラと狼のぬいぐるみに視線を送っていたのを。
「……普段苦労かけてるし、労いって意味でのプレゼントとしてはありだな……」
近くで座っている進にも聞こえないほどの小声でつぶやく諏方。
しかし、同じぬいぐるみをプレゼントするのに困った点が二つ。
一つは画面にも表示されている通り、このサイトのぬいぐるみを買う事自体が困難であるということ。このショップにこだわらなくてもいいのだろうが、せっかくだから同じ『なめ狼』をプレゼントしたいという気持ちが諏方にはあった。
もう一つは単純にお金がないという事である。
現在生活費などは、姉である椿から援助してもらっている。姉に言えば快くぬいぐるみ代などポンと出してくれるであろうが、それでは虚しいと彼は感じてしまっているのだ。
「進ちゃんに頼んで、またバイト紹介してもらうか……?」
頭の中でいろいろと案を検討している間、なめ狼を抱っこしたままの進はふと辺りを見回していた。
「そういや、今日はシャルエッテちゃんとフィルエッテちゃんの姿が見えないねぇ」
そういえばと、進はこの家に同居しているはずの二人の魔法使いの少女たちを見ていない事に気づいたのだ。
「シャルちゃんたちなら、朝から自室にこもりっぱなしよ」
父へのコーヒーを淹れ終えた白鐘がリビングに入りながら、友人の問いに返事する。
「サンキュ、白鐘。……しかし今日もか。ここ最近、学校以外では二人とも部屋にこもる事が多くなってな」
この一週間ほど、シャルエッテとフィルエッテは学校と食事以外では部屋にこもって何かをしているようだった。一度諏方はシャルエッテに何をしているのか尋ねた事があったのだが、
『ムフフ……乙女の秘密なのでございます……!』
と、はぐらかされたのだった。
「アレじゃない? 諏方おじさんを元に戻す方法ってやつが見つかったとか?」
「うーん……たしかに今はフィルエッテも協力してくれているから、研究自体は進んでるかもしんねえけど、たかが二ヶ月でそんなすぐに方法が見つかるもんかねぇ……」
特に期待はしていないといった感じで、諏方はコーヒーをすする。さらに彼の期待なさげな言葉を後押しするように、
ドカーンッ――!!
「うわっ! ビクッた⁉︎」
廊下向こうのシャルエッテとフィルエッテの部屋から、爆発音のような音が聞こえた。
「そっか、進ちゃんは初めてか。……まあ、すっかり黒澤家の風物詩だよ」
驚いて目を丸くする進とは対照的に、諏方と白鐘は特に驚く様子も見せずにさらにコーヒーをすする。
すっかり慣れてしまった少年としての日常。今日も変わらず、平和に一日が終わるのだろう――この時までの諏方はそう思っていた。
「スガタさーんッ! スガタさんスガタさんスガタさあああああんんんッッ!!」
急に廊下の奥から、少し焦げついた白いフードを着込んだシャルエッテが大声で諏方の名を呼びながら、リビングへと突入してきた。
「ど、どうした、シャルエッテ?」
あまりの少女の勢いに、諏方も少し気圧されてしまう。魔法使いの少女はハァハァっと息を吐き出しながらも、その手に握っていた緑色の液体が入った試験管を高らかに掲げた。
「で……できたんですッ! スガタさんを元に戻す薬が……!!」




