第23話 トリガー
「――あなたの娘……天川進が、これから人殺しになるかもしれないわよ?」
日傘の魔女より衝撃の言葉を告げられて、諏方と守の両名は唖然としてすぐに言葉を返せないでいた。
「なっ……何を根拠に言ってやがる⁉︎ あいつが人殺しなんざするわけねえだろ!」
少し時間が経ってからようやく、諏方が強めの反論を唱える。
「あら? たかが同じクラスで家がお隣同士でしかないあなたに、天川進の何がわかるのかしら? 人は誰しも、他者に対して心に秘めた憎しみを抱いている。暗示魔法のかかったフィルエッテちゃんとの出会いで、それは痛いほどに実感できたはずよ?」
「……ッ」
日傘の魔女――ヴェルレインの言う通り、フィルエッテは妹弟子であるシャルエッテに憎しみを抱いていた。それは人がどれほど親密な相手にも抱く、些細で取るに足らない程度の小さな憎しみ。
フィルエッテがシャルエッテを殺したいほど憎み、襲いかかったのはあくまでヴェルレインの暗示魔法によって憎しみを増幅させられたからであったものの、憎しみそのものは元よりフィルエッテの中で芽生えていたのは確かなのだ。
ならばヴェルレインの言う通り、進が誰かしらに憎いと思う感情があってもそれはおかしな事ではなかった。
「――進が……僕の娘が、殺そうとしている相手は誰なんですか?」
驚くほどそう冷静に返したのは、父親の守であった。あわてるような様子も見せず、ただ真剣な眼差しで彼は面会室の壁に背を預ける占い師であった女性を見つめていた。
たしかにと、諏方は彼の問いた内容に納得する。もし進が誰かに向けている殺意がヴェルレインの暗示魔法でフィルエッテのように増幅されたものでなければ、それは自然に爆発した感情だと言える。果たして進に、それほどの憎しみを抱かせる相手がいるのだろうか。
「あら? 自分の娘が人殺しになるかもしれないのに、ずいぶんと冷静でいられるのね?」
煽るようなヴェルレインの言葉にも、守は一切の感情の揺れを見せない。彼の反応がつまらなかったのか、占い師はため息一つついてから彼の問いに答える。
「まあ、私も遠くから彼女を眺めていただけだから、くわしい状況はわからないけれど……天川進は今、一人で狭間山の麓のベンチ近くに立っているわ――包丁一本握ってね」
「「――ッ⁉︎」」
ヴェルレインが最後に付け足した言葉に諏方はもちろん、冷静さを見せていた守もさすがに動揺を見せる。
包丁片手に山奥に入るなど、キャンプの料理以外でまともな使い方があるとは考えづらい。ましてや進は一週間前に沙羅慢怒羅の襲撃に遭ったばかり。そんな彼女が呑気に山へ一人でキャンプをするなど到底考えられなかった。
「それと、彼女がターゲットにしている人物かはわからないけれど……同じ山の麓に向かって、女性が一人山を登っていたわね」
「女性……?」
守はその女性に心当たりがあるのだろうか、少し思案するような表情を見せる。
「占い師さん……もしよければ、その女性の特徴を教えてもらえますか?」
彼の真剣な表情にからかいがいも感じないのか、ヴェルレインは何も余計な言葉を付け加えず素直に女性の特徴を語る。
「特徴と言っても、特段目立つような見た目でもなかったわよ? 特筆するとしたら……遠出用に思える大きな荷物と、服装のわりに派手めな金髪のポニーテールくらいかしら?」
「――っ!」
守は少しだけ驚くような様子を見せた後、すぐに安堵したかのように穏やかな表情へと変わる。
「そっか……なら、進は人殺しなんてしませんよ」
彼のその言葉には、どこか確信めいたような力強さを感じさせた。
「……ずいぶんと自信があるのね。根拠は自分の娘だから――とでも言うのかしら?」
「……うん、そうですね……娘だからという贔屓目で見ているというのはあると思います。でも……進は普段は男まさりでガサツそうに見える子だけど……あの子は誰よりも人の痛みがわかって、寄り添う事ができる強さと優しさを持っている子だって――僕はそう思っているんです」
「守さん……」
彼の言う通り、進は人の心に寄り添う強さを持っているのを諏方もよく知っていた。白鐘とケンカしてギクシャクした時や悩んだりした時、彼女は双方に気遣い、いつだって親身に相談に乗ってくれていた。
若返って以降も、白鐘やシャルエッテについて悩んだりした時も、彼女の助言のおかげで前に進めた事も何度もあった。
たしかに見た目や普段の行動のせいで、男まさりで自由奔放な子であると勘違いされがちだが、その実彼女は誰よりも人に優しくできる強さを持った女の子なのかもしれない。
「……僕は家を留守にしがちだし、他の家庭よりも娘と接する機会は少なかったかもしれないけれど……娘が人殺しだなんてしないと言える自信は、誰よりもあるつもりです……!」
守の言葉通り、彼は娘と接する時間は少なかったかもしれないが、そんな少ない時間の中で誰よりも娘の優しさに触れてきたのだ。娘の優しさを自信を持って断言できるほどに、彼は娘を信頼していたのであった。
「……それに、たとえ気の迷いがあったとしても……相手が綾香ちゃんならきっと、進のことを説得できると思っています」
「ッ――! 綾香ってたしか、守さんを騙してた女性じゃ……」
先ほど守に全ての話を聞いた諏方にとって、綾香はまさに彼を現状に追いこんだ元凶の一人という印象が強かった。
だが彼女に騙されていてもなお、守が綾香を信じている事に諏方は戸惑ってしまっていた。
「うん……たしかに、僕は綾香ちゃんに騙されていた。でもね……彼女は騙していた相手である僕に、彼らから『逃げて』と言ってくれたんだ。その時はすぐに赤いジャージの男たちに襲われてしまったんだけどね……」
――それまではきっと、綾香は仮面を付けて僕と接していたかもしれない。それでも……僕に逃げて!と叫んだ時の彼女の必死な表情は、きっと本物だと思うから――、
「――だから僕は、進も綾香ちゃんも、両方を信じるよ。二人ならきっと、悪い事にはならないってね……!」
そう断言する守の瞳にゆらぎは一切見られない。それほどまでに彼は、二人のことを本当に信じているのだろう。
そんな彼の自信に諏方もまた安堵を覚え、彼と同じように最悪の事態にはならない事を願った。
――だが、魔女はなお、邪悪に微笑んでいた。
「フフ、そこまで娘に自信を持てるなんて、素晴らしい父娘愛ね。……たしかに、天川進の殺意は真に迫ったものではなかった。迷いが感じられたもの。あなたの言う通り、彼女たちならそう血生臭い展開にもならないでしょう……でも、もし彼女たち以外の招かれざるであろう人間たちがいたとしたら、果たして平和に話は進むかしら?」
「ッ――⁉︎」
「……えっ?」
守も諏方も、互いにヴェルレインの付け足した言葉に血の気が引いてしまう。二人の中で、嫌な想像が頭をめぐる。
「……その招かれざる人間たちというのは、いったい誰のことですか……?」
ようやく望んだ反応が見られたのだろう。ヴェルレインは実に楽しげに顔を歪ませながら、
「私も誰かはわからないけれど、彼らは皆こんなに暑いのに、赤い上着を着込んでいたわね。まるで、赤い礼服の殉教者たちみたい」
「「ッ――⁉︎」」
――嫌な予感が当たってしまった。
ヴェルレインの言う赤い上着を着た人物たちは間違いなく、天川家の金庫に眠る一千万の大金を狙っている沙羅慢怒羅と呼ばれた半グレ集団の事であろう。
彼らは金のために過激な手段も辞さない連中だ。彼らが再び進と接触すれば、今度こそ彼女が危険な目に遭いかねない。
「私が見ていた時は彼らはまだ山を登っている途中だったけれど、今ごろはもう二人と接触しているんじゃないかしら? ……天川進のような児戯に等しい殺意と違って、彼らの纏う殺意は本物だった。このまま放っておけば二人とも、あの男たちに殺されちゃうかもしれないわね?」
陽気な声で恐ろしい事を告げる魔女。絶望的な展開に守はうなだれ、膝を折って床に座りこんでしまう。
「そんな……どうすれば……」
――こんな所に閉じこめられたままでは、進と綾香、大切な二人を失いかねない。
何もできない自身の無力さに打ちひしがれる守に魔女が近づき、彼の伏せた顔に優しく手を添えて、耳元に悪魔のようにささやく。
「どうしたの? あなたには力があるじゃない……肉を喰み、切り裂く獣の牙と爪が――」
ドクン――っと、鼓動が高鳴る。
――たしかに、狼男になれば、二人を助け出す事ができるかもしれない。
「でも……ここは窓もない部屋だし、満月を見なきゃ狼男に変身できないじゃないですか⁉︎ ……このままじゃ、二人ともアイツらに――」
「――そうよ、想像しなさい。あなたが何もできず、無惨に殺されるあなたの娘の姿を。あなたに助けを求め、わずかな希望にすがりついたまま苦しみ、息絶えるあなたの大切な娘の最期を……」
「…………嫌だ……そんなの絶対……許されてたまるかっ……!」
再びドクンと高鳴る鼓動――。
天川守はこの感覚を覚えていた。自らの内側に眠る獣性が少しずつ目覚め、身も心も獣へと変わっていく感覚。
「なっ――⁉︎ おい、ヴェルレイン! 守さんに何をしやがった⁉︎ おい、聞いてんのか⁉︎」
透明なアクリル板をバンバンと叩く諏方。向こう側でうずくまっている守に異変が起きた事はわかるが、アクリルが部屋を隔てて手が出せないでいた。
「くそ……! こうなったら、アクリル板をブチ壊して――」
拳を握り、アクリル板目がけて放とうとする直前、守の身体に大きな変化があらわれた。
「グルルルアアアアアッッ――!!」
肉体は二メートルを越すほどに巨大化し、服が破れて全身を覆うほどに体毛が伸び上がる。口は大きく避けて巨大な牙を覗かせ、ナイフのように爪が鋭利なものへと変わる。
二足で立ち上がる大柄の獣。まさに、怪物映画に出てくる狼男そのものであった――。
「さあ行きなさい、天川守。今のあなたは獣そのもの。あなたが望むままに、その野生の力を奮いなさい」
「ガルルル……ガァッ――!」
雄叫びとともに、狼男と化した守は面会室の壁を突進して破壊し、そのままどこかへと去ってしまった。
「そんな……ここには窓もないし、そもそもまだ夜にもなってないのに、どうして……?」
「私のかけた獣化魔法が、満月の光で変身するだなんてありきたりな仕掛けなわけがないでしょ? 彼が獣化する条件――それは精神的興奮、しかも我を忘れるほどの怒りで精神を染め上げた時、誰しもが持つ内側に眠る獣性が呼び起こされ、身体を獣へと変えていく……それが、私が彼にかけた獣化魔法よ」
「……クソッ!」
まさか、夜にもなってない状況で守が狼男化してしまうなど、諏方にとっても想定外の事態だった。
「…………」
一度冷静になるため、諏方は手のひらを頭の上に乗せて、呼吸を整える。
「……守さんは、あのまま狭間山に向かったのか?」
「でしょうね。獣化して理性を失ってるとはいえ、野生の獣がエサを食べて繁殖するのを目的として行動するように、獣化した人間も己が目的を達成する事だけを思考して動くわ。ただ……」
人さし指を唇に当て、魔女は再び笑みを歪ませる。
「理性を失った獣は、自身ですら制御が難しくなる。ましてや、本来は魔力耐性のない人間が獣化しているんですもの……果たして赤い服の集団が彼女たちに手を出す寸前に間に合ったとして、娘ごとその場を食い荒らしてしまう――なんて可能性にもなりかねないわね?」
獣となって理性を失った父親が娘を手にかける――それは想像しうる中でも最悪の結末だった。
「……チッ、どっちにしろ、放っておくわけにはいかねえよな……!」
諏方はすぐさま、守が向かったであろう狭間山に自身も向かう事にし、カバンにしまっていた特攻服を取り出して身に纏う。
「……ヴェルレイン、テメェ……なんのために守さんに獣化魔法ってやつをかけたんだ? あんな人畜無害に手を出したところで、テメェの利になるとも思えねえが……」
「……フフ、私がそう簡単に、あなたに目的を話すとでも――」
「――あっそ。んじゃあな」
特攻服に袖を通すと同時に、諏方はさっさと面会室の扉を開いて出ようとする。あまりにもあっさりと突き放されて、ヴェルレインは思わず呆然としてしまった。
「ちょっと……! もう少し粘ってくれたっていいじゃない?」
「テメェがどうせ話さねえのは最初からわかってたさ。ダメ元で一回訊いただけだ。……あ、一応言っておくが、これ以上余計な介入はするんじゃねえぞ、わかったな!」
まるで子供に注意するように言い放ち、諏方はすぐに面会室を出て行ってしまった。
一人取り残された日傘の魔女は、先ほどまで楽しげにしていた表情がつまらなさげなものに変わっていった。
「私の扱いに慣れてきちゃったのかしら? イジりがいのない男は実につまらないものね……まあいいわ。あなたの言う通り、これ以上は余計な手出しはしないであげるけど……あの父娘がどのような末路を迎えるか、楽しみに眺めさせてもらうわね」
そう言い残し、日傘の魔女はスッと霧散するように姿を消してしまった。
誰もいなくなってしまった面会室は、先ほどまでの騒がしさが嘘のように静寂がおとずれる。
◯
空一面を染め上げる真っ赤な夕暮れ。その下を、猛スピードで駆ける一匹の人型の獣。
「ガルルルゥ……ガァッ――!!」
夕闇に吠える狼男は勢いのままに、娘のいる狭間山を目指していくのであった。




