第21話 茜色に芽生えた殺意
――諏方が守と面会する少し前、黒澤家の開かれた玄関から外へと出るは、部活などで使う大きめのショルダーバッグを抱えた天川進であった。
「ふい〜、一週間ぶりの外はまぶしいぜ……!」
「夕方前だから、もう日が落ちかけてるけどね」
まぶしく輝く日差しのかけらもない夕暮れ前。茜色に染まり始めた空に手をかざす親友にツッコミを入れながら、白鐘も玄関の方にまで歩み出る。シャルエッテとフィルエッテの二人も彼女たちの後ろに続く。諏方はすでに守が収監されている桑扶警察署に向かっており、この場にはいなかった。
「……本当によかったの、進? 四郎と一緒におじ様に会いに行っても……」
心配げな表情の白鐘。諏方が守と面会するのが決まった時、娘である進も一緒にどうかと誘われたのだが、彼女は首を縦に降る事はなかった。
「アタシみたいなのがなに弱気になってんだって話だけどさ……やっぱりまだ、親父と顔を合わせる決心がつかないんだ」
滅多に見せる事のない進の憂いの表情。決して彼女が父を嫌ったわけではない。なぜ父が狼男になったのかは依然不明ではあったが、それでも父が赤いジャージの男たちを蹂躙したあの時、娘は明確に父に対して恐怖心を抱いてしまったのだ。
きっと父は、自身を助けてくれたのだろうと心の底では理解している。それでも、父に恐怖心を抱いてしまった事による罪悪感に苛まれ、とてもじゃないが今父親の顔をまっすぐに見れる自信が今の進にはなかったのだ。
「……っ。あんたでよければ、もう少し家で休んでたっていいんだよ?」
「うーむ……たしかに、白鐘シェフの手料理が堪能できる生活は、実に手放したくはないねぇ?」
重たくなりそうな空気を払拭しようと、そう茶化し気味に笑顔で話す進。
「っ……」
彼女が明るく振る舞おうとしているのはわかるが、父親が逮捕された事もあり、つい先日まで食事にもほとんど手をつけずに憔悴状態になっていた友人の姿を、白鐘はこの一週間目に焼きつけていた。男勝りでいつも明るい親友のそんな姿を見るのは、彼女にとってもつらく苦しい事であった。
家に進を預かっている間は、白鐘は彼女を自身の部屋に寝かせていた。学校にも登校せず、部屋の中で一人うずくまるのを目にするたびに、心が荒むような思いで胸が痛くなっていったのだ。
「……そうね、あんたが電話一本くれれば、いつでも手料理を家まで持ってってあげるわ」
だが自身以上に、進が心を深く痛めているのも白鐘は知っている。今もその痛みは、彼女の心を締めつけているであろう。
そんな彼女がこうしていつものように明るく気丈に振る舞っているのだ。ここで暗い顔のままではそれこそ親友に失礼であろうと、白鐘もいたずらっ子のような笑みを彼女に返した。
「ま、これ以上お世話になりっぱなしなのもあれだし……何より、親父がいない間の家はアタシが守らなくちゃだからね」
今までずっとそうしてきたように、進は父の帰る場所を守らなくてはいけない。そのために、これ以上白鐘たちに甘えるわけにはいかなかったのだ。
「ファイトです、ススメさん……! わたしたちにもお力になる事があれば、いつでも頼ってくれていいですからね?」
「シャルエッテちゃんはまず部屋での爆発音を抑えるところから頑張んなきゃね? 何してるか知らないけど」
「はう――⁉︎」
予想外のカウンターを進から受けて、しなしなと縮こまってしまうシャルエッテ。
「復学においても焦らず、常に自分の精神状態と相談しながらタイミングを見計らってください。不調のまま無理に動くのは、身体にも悪い影響を与えますので」
「はあ〜、相変わらずフィルエッテちゃんは言うことカッコいいなぁ……。シャルエッテちゃん、少しは彼女のクールさも見習わなきゃね?」
「ぬぬ……ごもっともすぎて何も言い返せないのです……」
「はぅ〜」とつぶやきながら、よりしなしなになるシャルエッテに他の三人は笑い、重たかった玄関前の空気は和やかなものへと変わっていく。
「……ほいじゃ、また次学校でなー」
大きく手を振りながら、進は寂しげな表情になる三人の友人たちと別れ、すぐ隣の自宅へと一週間ぶりの帰宅を果たす。
一週間ぶりの我が家は、まるで先週の出来事が何もなかったかのようにキレイに片づいていた。父が割った窓ガラスも修繕されていて、元の配置とまでは言えないが赤いジャージの集団が荒らしたリビングなども片づいている。四郎が業者に頼んだらしいと白鐘からは聞いていた。
「…………」
リビングに置かれたテレビ、その横の小さな棚の一番下の引き出しに手を伸ばし、中を確認する。
奥の仕切りを外すと、黒い小さなダイヤル式の箱はそのまま置かれていた。赤いジャージの集団にまだ持って行かれていないのを確認し、進はホッと安堵の息を吐く。
「……でも、またアイツらが金庫を狙わないとも限らないからなぁ……」
結局、赤いジャージの集団の正体を進は未だ掴めていなかった。四郎が何か知っていそうな雰囲気を出してはいたのだが、結局聞けずじまいで終わっている。
「…………」
彼らは、まだ高校生である進に躊躇せず暴力を振るえる恐ろしい連中であった。また彼らに襲撃されたら、今度こそ心を折られて彼らに金庫の暗証番号を教えてしまうかもしれない。
「……なんで、なんでアタシや親父がこんな目に遭わなきゃなんねえんだよッ……!」
理不尽な悪意に何もできない自分が歯がゆかしく、悔やし涙が思わずこぼれてしまう。
赤いジャージの集団、謎の怪物に変身した父親。これらに対して何ができるか検討もつかず、進の心は無念さで締めつけられていく。
トゥルルルル――、
ふいに鳴り出す電話のベルの音。進のスマホからではなかった。
「……家電? こっちに電話がかかってくるなんて珍しい……」
一瞬、突如鳴った電話に身体がビクッとこわばるも、恐る恐る進は受話器を取り上げる。
「……もしもし?」
『――あっ! やっと繋がった! この声は進ちゃんだよね⁉︎』
電話先の向こうから聞こえるは、少しセクシーさの混じる大人の女性の声。一瞬誰だかわからないでいたが、耳をすますとその声はたしかに聞き覚えのあるものだった。
「えっと……もしかして、綾香さんですか……?」
『ッ……! よかった、覚えていてくれたのね……』
電話向こうの声に明らかに嬉しさが入り混じっている。こちらはそれどころではないと、進は思わずイラついてしまいそうになったが……、
――どうして、このタイミングで綾香さんは電話をかけてきたんだろう……?
ふいに浮かんだ疑問は、新たなる疑問へとつながる。
――どうして、あの赤いジャージの集団は、父が一千万もの大金を金庫に隠していたのを知っていたのか。
本来、金庫の存在を知っているのは進と守本人たちを除けば、あとは家の事情を知る隣の黒澤家以外誰もいないはずだった。
――思い出せ。金庫の事を口にした人物が、もう一人いるじゃないか……!
「……親父に、なんか用ですか?」
自身でも驚くほどに、進の声に冷たさが帯びる。彼女の傷だらけの心に、徐々に黒いモヤのようなものが纏わり始めていた。
『……ううん、用があるのは進ちゃんの方になの。……今から話す事を、どうか冷静に聞いてほしいの』
進が綾香と対面したのは一度だけ。酔っ払った父を介抱してくれたあの時だけだが、その時の彼女は『喋る』事を仕事としていたためか、女性である進ですら気持ちよく感じるほどに明るい声音で話してくれていた。
だが今の彼女からは、電話越しからでもわかるほどの緊張を感じる。電波を伝って家中の空気が重たく感じてしまうほどの緊張感であった。
『……この前、赤いジャージの集団が進ちゃんの家に侵入したと思うんだけど、まだ彼らは守さんの通帳を狙ってるみたいなの。しかもなんでかわからないけど、彼らの仲間が何人か病院送りになったみたいで、リーダーの赫羽根って男がかなりブチギレてあなたを探してるの……!』
「……は? なんでアタシを?」
『守さんは今留置所だから、さすがに手を出せないみたい。金庫の事を知っているのはあとは進ちゃんだけだから、仲間がどうして病院送りになったのかも含めて、あなたから全部聞き出そうと進ちゃんを探しているのよ……!』
「……っ」
冷たい風に肌をなでられたような、そんな得体の知れない恐怖心が進を襲う。彼らは女子供にすら容赦ない連中。そんな連中に進が捕まってしまえば、彼らは情報を聞き出すために想像もしたくないほどのエグい拷問方法ですら躊躇せずやってのけるであろう。
だがふと疑問に思う。――なぜ、この事を綾香はわざわざ進に教えてくれたのか。
『それで、これは提案なんだけど……私と一緒に、しばらくこの町から遠く離れて身を隠さない?』
「……っ⁉︎」
それはあまりにも意外な提案で、進はしばらく言葉を失ってしまう。
『……実は私も、今彼らに追われてる身なの。……守さんから聞いてると思うけど、私は彼らからの命令とはいえ、守さんを騙してしまった。金が手に入れば、未回収の売り掛け金もチャラになるなんて言葉に惑わされて、そうしなければ奴らから借金を背負わされて店をやめさせられるって脅されて……私は屈してしまったの……。まあでも、アイツらの理不尽さに耐えられなくなって、結局お店はやめちゃったけどね……』
綾香の声にはどこか諦観したかのような、寂しげな色が混じる。
『……私は協力していた過程で、アイツらの情報をいくつか掴んでる。だから私も、今はアイツらに追われる身ってこと。……私のせいで、守さんはアイツらに苦しめられ、何があったかは知らないけど彼は警察に捕まってしまった。だからせめて、娘である進ちゃんだけでも彼らから引き離してあげたいの……! 信用してもらえないのはわかってる……でも! どうか私にあなたを助けさせてほしいの!』
「――ッ!」
何を自分勝手な! ――っと、口にしてしまいそうになるのを進はなんとかこらえる。
勝手な言い分ではあるが、綾香はどうにかして進を赤いジャージの男たちから引き離したいらしい。
それが彼女の本心かはわからない。むしろ、これが進を彼らに向けて引きずり出すための罠の可能性すらありえた。
「…………」
だが、今の進にとって綾香の本心などどうでもいい事だった。彼女は受話器を持ったまま、視線をキッチンの方へと向ける。
シンクの横に置かれていたのは、様々な種類の包丁をしまうための包丁スタンド。刃が刺しこまれたステンレスのスタンドは、まるで串刺しにまみれた鉄の肉塊のよう。
「…………いいですよ。ちなみに、今から二人で落ち合う事ってできますか?」
『――ッ! 本当に⁉︎ ……ええ、動くなら早い方がいいわね。場所は進ちゃんが決めていいわ』
すんなりと話が進んだ事に驚いたような、しかしどこかホッとしたような吐息が電話越しからも伝わる。
――きっと彼女は、本当に善意で助けてくれようとしているのかもしれない。
――だけど、アタシは……、
「そうですね……できれば彼らに見つからないように、人気のない場所がいいですよね……狭間山――なんてどうでしょうか?」
狭間山なら城山市と桑扶市の間に位置するし、現在地がどこでも合流しやすいであろうというもっともな理由をつけ加える。
『それじゃあ、今から向かうわ。……彼らに見つからないよう、気をつけてね……!』
約束を交わし、受話器を下ろす。
「…………っ」
息を一つ吐くだけで、心臓に重石がかかったかのように重くなる。にもかかわらず、鼓動は張り裂けるかのように高鳴り、痛い。
キッチンへと入り、包丁を一本スタンドから抜き出す。刃は窓から差しこまれる夕日の朱に染まり、まるで人を刺した後の血に濡れた凶器のように彼女の瞳に映る。
「…………ッ、アタシはッ――!」
グチャグチャになって定まらない感情のままに歯噛みし、進は包丁の柄を血が滲み出そうなぐらい強く握りしめるのであった。




