第18話 月光
――進が自宅に到着する少し前。
「っ……うぅ、ぐっ……」
一瞬気を失っては、すぐさま身体中の痛みで目を覚ますのを繰り返す。
コンクリート状の壁に大量のダンボールが置かれた薄暗い部屋で、守は上半身裸の状態で両手を縄で縛られ、天井に吊るされていた。身体には複数の打撲によるアザができており、頭から流れた血がポタポタと床を濡らしている。
「……そろそろ喋る気になってくれたか、ああん⁉︎」
「ぐっ――!」
身体に木刀が振り下ろされ、激痛で守は苦しげにうめく。この部屋に入って一時間以上、守は二人の男に何度も木刀を叩きつけられていた。
元妻からの一千万の慰謝料が入った通帳を保管している金庫の場所と金庫を開ける暗証番号を聞きだすために、彼らは『クラブ・パンデモ』の倉庫であるこの部屋に入ってからずっと守に拷問を続けていたのだ。しかも二人は彼が情報を吐き出すのを目的にしているというよりも、拷問そのものを楽しんでいるかのように嬉々として彼を殴りつけていたのだった。
「…………」
守が目の前の男たちを同じ人間であるのか疑わしく感じるほどに、彼らの浮かべる笑みはあまりに下劣であった。
「しかし見た目のわりにタフだねぇ、オッサン。もう一時間もこうして木刀で殴られ続けてるのに耐えられてるだなんてよぉ……オレたちもそのタフさを見習わなきゃなあ⁉︎」
木刀のさらなる一撃が守の身体に叩きつけられる。
「ぐっ――!」
叫びたくなるほどの激痛ではあったがそれでも耐えられたのは、娘を思う父の意思の強さがあってこそだった。
一千万という大金だからだなんて理由ではない。あれは守が娘の将来のために一切手をつけなかったお金だ。たとえ中身が一円であったとしても、彼らに渡すわけにはいかないのだ。
「ハァ……ハァ……」
荒くなる呼吸。すでに守の意識は摩耗しかけている。
「そろそろ限界が近いか? これ以上は本当に死んじまうぜ? 悪いこたぁ言わねえ……そろそろ吐き出して楽になりな、オッサン?」
守の眼前に木刀の切先が突きつけられる。これで身体を突かれれば、刃先で叩かれるのとは比にならないほどの痛みが襲うであろう。
「…………ぺっ」
だが守はそれに怯む事なく、むしろ挑発するように目の前の男の顔面に向かって唾を飛ばした。
「……映画の拷問シーンでよく見るやつ……一度やってみたかったんだよね」
普段の弱々しさからは想像できないほどの守の強気な態度に、目の前の男は怒りで顔を真っ赤にしだす。
「テメェ……殺してや――」
「――落ち着け。情報吐く前に殺しちまったら、オレらも赫羽根さんに殺されちまう」
逆上しかける仲間を、横のもう一人の男が肩を掴んで引き止める。
「とにかくこのオッサン、思った以上にタフだ。身体を叩くだけじゃ、おそらく死ぬまで喋らねえだろうなぁ……?」
「……っ⁉︎ なるほど……アプローチを変えりゃいいのか」
目配せする仲間の視線で何が言いたいかを察し、先ほどまで木刀を突きつけていた方の男は木刀を投げ捨てると、ポケットからナイフを取り出した。
「人間は叩く痛みに耐えられても、刃物で切られる痛みにはたいてい耐えられねえ……まあ、せいぜい我慢できるところまで我慢してみろよ? ここまで耐えられたんだ。せめてもう少し、オレらを楽しませてくれよな?」
「ぐっ……」
たとえ刃物で切りつけられようとも、守は金庫の保管場所も暗証番号も喋る気はなかった。それでも、これから受けるであろう痛みがどれほどのものか想像するだけで、全身の毛が震えてしまっていた。
「それじゃあ、まだまだ楽しもうぜ……オッサ――」
トゥルルルル――、
突然耳をつんざく電子音が鳴り響き、守に突き立てようとナイフを振りかざした男の手が止まる。
もう一人の男がズボンのポケットからスマホを取り出す。どうやら電子音は彼のスマホから鳴り出したようだ。
「……向こうの連中からだな。金庫が見つかりでもしたのか?」
ひとまずは今すぐナイフで刺されるような事はなさそうだと守はホッと息を吐く。だが同時に、男の発した『向こう』と『金庫』という単語に心が引っかかった。
男は楽しみを中断された事に落胆しつつ電話に出て、しばらく電話向こうの相手と会話をする。やがてつまらなさげにしていた彼の表情が、ゲスさ混じる悪魔のような笑みへと変わった。
「……向こうの連中からの提案だ。そのオッサンの悲鳴を電話越しに聞かせてやれ。そうすりゃ、このオッサンがどんだけ痛みに耐えたとしても、向こうの嬢ちゃんの方が折れるだろ」
それを聞いて、ナイフを握った方の男も同様のゲスな笑みを浮かべる。
「まさか、お前たち……」
守は彼らの話す内容を完全に理解したわけではなかったが、それでもある程度把握はできた。
今この場には、頬に蜥蜴の刺青を彫った男の取り巻きのうち二人しかいない。裏路地で刺青の男が襲った時、あの場にいた彼の仲間は五人であったと守は記憶していた。
そのうち三人はこの場におらず、電話を持った男は『向こうの連中』と『向こうの嬢ちゃん』と口にした。
――つまりは、彼らの仲間が今自宅にいて、進を襲っているのではないのか……⁉︎
「――進!!」
電話向こうへと届くように、大声で娘の名を呼ぶ守。
『――親父!!』
電話口から同じように、父を呼ぶ娘の声が聞こえた。いつの間にか男がスピーカーに切り替えていたようだ。
「まあ、そういう事だ。今向こうもオッサンと同じように嬢ちゃんを拘束している。今からオッサンの拷問模様を実況で嬢ちゃんに伝えるつもりだが……それが嫌なら、さっさと金庫の場所と暗証番号を吐くんだな。話すのはオッサンでも嬢ちゃんでも構わねえが、素直に話さねえと親子共々苦しむだけだぜ?」
ドクン――、
もはや、守に男の言葉は届いていない。ただ電話向こうの先にある事実だけが、彼の鼓動を早まらせていた。
「僕一人だけならいい……でも、お前たちは娘にまで手を出したのか……⁉︎」
「ああん? 聞こえねえよ⁉︎」
ナイフで守の胸が切りつけられる。切り傷からは血が雫のように流れるが、その痛みももはや彼にとってはどうでもよくなっていた。
「んだよ? 反応ねえとつまんねえじゃねえか⁉︎」
さらに二、三、守の身体が切りつけられる。
「……っ」
痛みを感じないわけではない。だが、それ以上に彼らが娘に手を出した事実が何より、守の怒りを燃やしていたのだった。
『おい、お前ら! 親父に何をして――』
『お嬢ちゃんはおとなしく黙ってろ!』
『いだっ⁉︎』
「――ッ⁉︎ 進⁉︎」
スピーカーを通して、娘が傷つけられた声が聞こえる。
さらなる怒りに打ち震える守。彼らに対してはもちろんだが、娘が危ない目に遭ってるとわかっていても何もできない自分自身に、何よりも怒りがわいたのだ。
「おら! とっとと諦めて情報を吐き出しやが――」
――その時、薄暗い倉庫に一筋の光が刺す。
光の先へと視線を向ける守。
――それは月光であった。倉庫の壁の上部に開かれた格子付きの小窓から、月の光が差し込んだのだ。
ドクン――、
「おい、何よそ見してんだ? 拷問はまだまだ終わらねえぞ……と――」
またもナイフを突き立てようとした男の手が止まる。――目の前の拷問対象に突然異変が起き始めたのだ。
――身体中が縦長の毛に覆われ、爪は鋭く伸び、口は裂けるように開いて獣のような牙が覗かせる。百七十センチほどの平均的身長であった身体もみるみるうちに見上げるほどの巨体になっていき、腕を縛った縄も太くなっていく腕に耐えきれず引きちぎられていく。
「なっ……あっ……」
先ほどまで痛ぶった男の異変に唖然とし、赤ジャージの男たちが握っていたナイフやスマホが床に落ちてしまう。
『おい、そっちで何が起きた、おい⁉︎』
「ば…………化け物だっ⁉︎」
――突如現れた異形。それはまるで、ホラー映画に出てくる怪物そのものだった。
◯
『ば…………化けも――ザザッ』
「あん?」
進を襲っていた三人の男性のうちスマホを持っていた男が、通話が途切れたスマホを怪訝な瞳で見つめる。
「どうかしたのか?」
「いや、いきなり電話が切れちまってよぉ……ダメだ、かけ直しても通じねえ。電波でも悪くなったか?」
多少イラつきを見せながらも、通話が途切れた理由に関しては特に気にする様子も見せず、男は未だ羽交い締めされたままの進に向き直る。
「せっかくの『父親拷問実況ショー』ができなくなっちまったが、まあこれでお嬢ちゃんの親父さんが今どんな状況なのかは理解できただろ? 素直に情報を吐けば、親父さんを拷問する理由もなくなる……言いたい事はわかるよな?」
悪魔のような笑みでそう語る男。つまりは彼らが欲している情報を話せば、もしかすれば進の父は助かるかもしれないという事を彼は言いたいのだ。
「…………」
そんな都合のいい話、とても信じられるわけがない。むしろ話せば用済みという事で、父娘ともども彼らに始末される可能性すらある。
「どうした、迷う理由もねえだろ? それとも……お嬢ちゃんは親父さんの命より金を守る方が大事か?」
「っ……」
だがこのまま話さなければ、彼らによって父がより苦しめられるであろう事は確実だった。
「…………金庫はテレビの横のタンス棚、その一番下の方」
ついに、進の心は完全に折れてしまった。
「あん? ウソつくんじゃねえよ。そこはさっき調べたけど手紙しか入ってなかったぞ」
「……その奥に取り外しできる板が張ってある。泥棒が入っても見つけにくいようにしてあるの」
先ほど進を殴った男が他の二人に目配せをすると、スマホが切れて手の空いた方の男が駆け足でテレビの置かれたリビングへと向かっていった。
「最初から素直に話しゃ、親父さん共々痛い目に遭わずに済んだのによぉ。……さて、金庫の暗証番号も聞かせてもらおうか。もちろん、通帳の方の暗証番号もな?」
「っ……」
進はすぐには口を開けなかった。彼らに全てを伝えればそれこそ父の命が危ないのではと、番号を口にする事をためらってしまっていたのだ。
「いだっ――⁉︎」
未だ躊躇する進の態度に痺れを切らし、男は彼女の髪を引っぱり上げる。
「いい加減諦めろや! それとも、まだ痛い目に逢いた――」
――――ガシャアアアン!!
彼の言葉は、突如鳴り響いたガラスが割れるような音に上塗りされてしまう。
同時に――、
「うわあああああああッッ――⁉︎」
先ほどリビングへと入っていった男の叫び声が玄関先にまで響き渡った。
「っ……? おい! 何があった⁉︎」
掴んでいた進の髪から手を離し、明らかに尋常ではない仲間の叫びに焦るような表情で何が起きたのかと声をかける。
だが、それに答える声は返ってこない。先ほどまで荒れていた空気が一気に張りつめる。
進もまた、追いつめられていた状況にも関わらず、リビングで何が起きたのかと意識が全てそっちに持っていかれた。
「「「…………」」」
安易にリビングへは向かわず、じっと何かが出てくるのを待つ三人。
少しして、誰かの足音と何かを引きずるような音とともに、二足歩行で歩く獣の姿をした異形がリビングから出てきた。
「なっ……なんだこの化け物は……?」
突然現れた異形に唖然とする男二人。その異形の姿は、進もよく知る造形のものだった。
「狼……男……?」
それはホラー映画嫌いの進ですらわかるほど明らかに、怪物映画の題材としてよく使われる狼男そのものの姿だった。
単純な狼男の姿だけならただのコスプレに見えない事もなかったが、ゆうに二メートルを越える巨体はとても人間が扮装しているだけにはとうてい思えなかった。
「……ッ! テメェ、オレたちの仲間を⁉︎」
異形の片手に引きずられていたのは、先ほどリビングへと入った彼らの仲間。赤いジャージはより濃い赤で染められており、白目をむいたその姿はもはや死体同然であった。
「ガルルルルゥ……!」
狼男は玄関に立った三人の存在に気づき、彼らに視線を向けると、耳まで裂けた口で嗤った。
「…………親父?」
――親父はこんな獣みたいな笑い方はしない。
――なのになぜかアタシは、
――目の前の怪物を親父と重ねちまったんだ……。




