第15話 プロポーズの返事
――ぐちゃり、ぐちゃり。
爪で引っかいては肉がえぐれる。
――ぐちゃり、ぐちゃり。
肉を裂いたお手手は真っ赤っ赤。
――ぐちゃり、ぐちゃり。
目の前に転がってるのは肉団子。真っ赤なトマトソースがおいしそうだね。
――おいしいかな? 食べちゃおうか?
お耳の近くまで大きく裂けたお口からは、固いお肉を噛み砕ける牙と、したたるヨダレがぴっちゃぴちゃ――、
◯
「――くん……守くんってば⁉︎」
「――えっ?」
自身の名を呼ぶ女性の声に、頭に流れていた不鮮明な映像がミラーボールの光に彩られた薄暗いクラブの景色へと変わる。シャンパンの入ったグラスを握りしめたまま、ピントの定まらない視線で守はただまっすぐに壁を見つめていた。
「どうしたの、守くん? ……今日はなんだかボーっとしてる事が多いよ?」
「あっ……はは、ごめんね……ここのところいろいろ忙しくて、多分疲れてるんだと思う……」
隣で心配げな表情で見つめる綾香をこれ以上不安にさせまいと、守は力ない笑みを彼女に向ける。
綾香にプロポーズされて以来、数日ぶりに守は『クラブ・パンデモ』に来ていた。
上司である荒川部長が野生動物に襲われたと聞かされた後、守の頭にはたびたび先ほどのような映像が頭に差し込まれた。電波の悪いテレビを観ているかのように映像は乱れて映り、その映像がなんであるかを把握する事はできない。ただ映像が一瞬でも頭によぎるたびに、彼はせり上がる吐き気に襲われていた。
それでも守は吐き気をこらえて、なんとか通常通り会社での業務をこなした。定時と同時に守はなんとか落ち着いた場所で酒を入れたいという理由も含めて、クラブ・パンデモに駆けこんだのであった。
酒を飲んでいくらか落ち着いたためか、会社にいた時よりも映像がチラつく頻度は下がったものの、油断していると先ほどのようにボーっとしてしまいがちだった。頭を締めつけるような痛みはなくなっていたが、ギラギラとした光を放つミラーボールの明かりが目に刺さり、じんわりとした別の頭痛に思わずうなったような顔になってしまう。
「……これ以上は飲まない方がいいんじゃないかしら?」
またもや綾香に気を遣わせてしまったのではないかと、守はあわてて首を横に振る。
「ぼ、僕は大丈夫だよ……! それに、まだお店に来てから一杯しか飲んでないし、これじゃあ綾香ちゃんの売り上げが……」
「そんなの気にしなくても大丈夫よ。……元々、私ってお店でもあんまり売れてる方じゃないし……でもね、守くんがここに通って私を指名してくれるようになってから、売り上げも順調に上がってきてるのよ。守くんはもちろんだけど、守くんへの接客を見て私を指名してくれるお客さんも増えてきたの。……これも全部、守くんのおかげなのよ」
「そっか……それはよかった」
これほど屈託なく笑ってくれる彼女があんまり人気なかったと聞くと不思議な気持ちになるのだが、それでも綾香の魅力が評価されたかのようで、守としても彼女の人気が上がったのを誇らしく感じるのであった。
「お酒を飲みすぎちゃいけないってのもあるけど……できれば、守くんと二人っきりになりたいなぁ……なんて?」
顔を赤らめながら見上げてくる彼女の潤んだ瞳に、守も思わず顔が赤くなってしまう。
「そ、そういう事ならお店を出よっか……うん……」
守もそれほど鈍感というわけでもない。ここで二人っきりになりたいという事はつまり……。
高まる鼓動に胸を抑える守。――答えはもうすでに決めている。
彼女から送られた思いに応えるために、守は改めて彼女に伝えるべき言葉を口にする覚悟を決める。
◯
「梅雨明けでジメジメしてるのに、夜はまだちょっと肌寒いね?」
守と綾香の二人は店を出て、ゆっくりと裏路地を進んで行く。互いに顔は赤いまま、目を合わせられないでずっと地面を見つめたまま歩いて行く。
時刻は夜の七時を過ぎたところであり、夜の帳が下りて桑扶市の大通りがネオンの光に包まれ始めている。その大通りへと出る手前、わずかな明かりのみが差しこむ裏路地の出口でまた二人は立ち止まる。
以前、ここで守は綾香にプロポーズをされた。それまで彼女に好意自体は抱いていたものの、ハッキリとした彼女への思いにそこで彼は気づかされた。
そして今日、守はそのプロポーズへの返事を彼女に送る事に決めていた。本来ならば昨日の時点で返事をする予定であったのだが、荒川部長とのゴタゴタがあって結局一日遅れとなってしまった。
「――っ!」
ここで守は、荒川部長がこの場所で二人を見つけてしまった事を思い出す。
部長は今病院に入院しているのは知っていたが、守はそれでも不安になって大通りの方へと顔を出して周囲を見渡す。大通りにはいつものように家へと帰る学生や店に立ち寄るサラリーマンなど、多くの人たちが道を行き交っている。この裏路地を覗くような視線はとりあえずは感じられなかった。
「……よし……!」
一度大きく息を吐き出して、守は綾香の方へと向き直る。共に顔は赤いまま。綾香は壁を背にして、彼の言葉を期待するように再び潤んだ瞳で見つめている。
守の心臓はすでに緊張で痛いぐらいに高鳴っていた。これほどまでにドキドキしているのは、元妻へプロポーズをした時以来になる。
――あのころは、幸せの絶頂期とも言うべきだろうか?
かつて誰よりも幸せにすると誓った女性。しかしその思いはむなしく、元妻自身によってもろくも砕け散ってしまった。幸せというものは思っていた以上にあっけなく壊されるものだと、守はその時思い知らされたのだ。
――なら、それ以降の天川守は幸せではなかったと、本当にそう言い切れるのだろうか?
「――守くん?」
「……っ」
綾香の声に再び意識が引き戻される。――僕は何を考えているのだろうか?
余計な意識を振り払うために、一度頭を横にブンブンと振り、真剣な眼差しで綾香を見つめる。
「綾香ちゃん……僕は――」
元妻の事はすでに過去の話。今は綾香に対する想いを素直に口にすればいいだけだ。
綾香はたしかに水商売という、決してキレイなイメージとは言いがたい仕事をしている。それても、彼女と再会したあの時から、彼女は誠実で優しい女性であると十分に守は知る事ができた。
彼女なら、娘の進ともきっと――、
「――っ!」
――ふいに思い出すは、河川敷で見せた娘の寂しげな笑顔。
『……約束してくれよ、親父。さっき親父が言った通り、今度こそ親父も幸せになるんだって』
――思い出すは、娘との約束。
あの時守は娘の笑みに心がズキリと痛み、あの台詞に言いようのない違和感を覚えた。
その痛みの正体に、あの時感じた違和感の正体に――今になって守は気づいてしまったのだ。
「……何が今度こそだ……僕は――」
――僕は、進と一緒にいられた時点で、間違いなく幸せだったじゃないか。
母親に直接裏切られたのもあったとはいえ、父親である守と一緒に暮らしていくと決めたのはまぎれもなく進本人だ。娘が選んでくれたその時点で、天川守は間違いなく幸福であったのだ。
この時になってようやく自分が十分に幸せであった事に気づけた自身の鈍感さに、思わずこの場で自分の頭を殴りたくなるのをなんとかこらえる守。そしてそれは――、
「ごめんね、綾香ちゃん……君の思いには、僕は応えられない……」
――綾香からのプロポーズの返事を決定づける要因となったのだった。
「……え? どういう事……?」
綾香は守に何を言われたのか一瞬理解かできず、戸惑いの表情で呆然としてしまう。そんな彼女の様子を見て罪悪感に心が痛むのを感じつつも、返事を覆すような事はしなかった。
進が見せた寂しげな笑み――あれは彼女が自身の思いを押し殺すための精一杯の笑顔ではなかっただろうか。
ずっと二人っきり、しかも家を空けがちだった父親がいきなり幼なじみとはいえ、再会して間もない水商売の女性と再婚するなどと聞いて、娘がいい顔をするはずもない。それでも父親の幸せのためならと、彼女は自分の気持ちを押し殺して再婚を許してくれたのだ。
冷静に考えれば、守は綾香と再会してまだ一ヶ月も経っていなかった。それがプロポーズにまで話が進んだのはいくらなんでも性急すぎたと思える。彼女とは店以外での交流はほとんどなく、進とも会ったのは一度だけと聞いていた。
幼なじみとはいっても転校で小学生の時に別れたっきりだ。再婚をするには、まだお互いを知らなさすぎるのではないだろうか…?
――だがそれ以上に、守には綾香のプロポーズを断らなければならない理由があった。
「……僕はね、家族を守るためとはいえ、君を天秤にかけてしまったんだ。君を売るという、普通に考えればすぐに断らなきゃいけない選択を迫られて、僕はそれを本気で悩んでしまった。その時点で、僕に君を幸せにする資格なんてなかったんだ」
綾香は守がなんの事を言っているのか理解できず、困ったような視線で彼を見つめていた。当然、女性を薬物中毒にすると噂のある男に家族と天秤にかけさせられていたなどと言えるわけもなかった。その天秤に迷ってしまった男が彼女を幸せにするなど、冷静に考えればそんな資格などないとわかっていたはずなのに、こうして彼女に期待を抱かせてそれを不意にしてしまった罪悪感が胸を締めつける。
「……いつか僕なんかよりも、君を幸せにできる人がきっと現れるよ。だからもうお店にも通わない。……自分でも身勝手で最悪な人間だとは思ってる。この後君に何を言われても受け止める覚悟はしてる。だけどせめて、僕じゃない誰かが君を幸せにできる事を今はただ祈らせてほしい……」
彼女が自身にプロポーズをしてくれた勇気はどれほどのものだったか――かつて元妻にプロポーズした守には、その気持ちは痛いほどにわかっていた。それを踏みにじった彼は、綾香に一生許される事はないだろう。
それでも、これが彼女にとっても正しい選択であると信じ、守は綾香のプロポーズを断ったのだ。
「…………」
「…………」
きっとこの後、彼女から罵詈雑言吐かれる事であろう。綾香にその資格は十分にある。
――どんな事を言われても受け入れよう。守は覚悟を決めて、彼女の言葉を静かに待つ。
「……そうだよね。まだ再会して一ヶ月もしてないのに、いきなり結婚しようって言われても困るよね……?」
彼女は顔をうつむけ、消え入りそうな声を発しながら、拳をわなわなと震わせている。
――やっぱり、怒っているよね……。
「……うん……わかった。だけど最後に一つ、お願いを聞いてほしいの……」
「……っ?」
怒りを込めた視線で睨まれてもおかしくない状況なのに、顔を上げた彼女の瞳は、どこか必死さを――いや、焦りのようなものを感じさせた。
「今すぐこの町から、進ちゃんと一緒に逃げ――」
――聞き終わる前に、心臓が一度バクッと大きく跳ねて全身が動けなくなり、守の身体が地べたに倒れてしまう。
「ひっ――⁉︎」
綾香の小さな悲鳴が聞こえる。だが身体中が電流を浴びたように痺れて、立ち上がるどころか手足の一切を動かす事ができなかった。
「な……何が……起きて――」
「――ほう、スタンガンの電流を浴びてまだ意識が残ってるとは……見た目よりも案外タフなんだな? 少しだけ見直してやるぞ」
聞こえてきたのは圧を感じさせる低めの男性の声と、近づく複数の足音。
「……き……君は……」
横目で見上げた先に立っていたのは――、
「久しぶりだな、正義の味方気取りのオッサン」
――そこに立っていたのは、かつて店の前で出会った左の頬に赤い蜥蜴の刺青を彫った赤いジャージの男であった。




