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あたしのパパは高校二年生  作者: 聖場陸
夕闇に吠える狼編
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第12話 呼び出し

「おはようございます……!」

 

 娘である天川進やその友人たちとの映画鑑賞から翌日、守は高揚(こうよう)した気分で気持ちよく出社していた。幼いころに親しかった友人からプロポーズされ、それを娘に認めてもらえた嬉しさで、ついつい職場ながらも舞い上がってしまいそうになるのを守は心の中でなんとか抑える。


 今日は仕事を終えた後、『クラブ・パンデモ』に寄って、綾香にプロポーズの返事をする予定であった。


 些細ささいな偶然による再会からまだそれほど時は経っていないが、守はすでに綾香の(とりこ)になっていた。店で彼女の笑顔を見るたびに、仕事で疲れきった心が癒されたのだ。


 それでも、あくまで二人は友人であると自身を戒め、彼女とは適切な距離と関係でいるべきと考えていた。だが、先週の彼女からのプロポーズで、守は明確に綾香を幼なじみから一人の女性として見る事ができた。


 それから数日、守にとってこの日まで、彼女を思うたびにドキドキする毎日であった。今の心境はまさに、彼にとって絶頂期であると自信を持って言えるであろう。


「おはようございます。今日は機嫌がいいですね、天川さん?」


「――え? ……コホン、そ、そんな事ないよぉ?」


 テンションの高まりをなんとか抑えていたつもりだったが、つい顔がほころんでしまっていたのだろう。同僚である女性社員からの挨拶に、守はなんとか平静を装うとする。


「そうだ。天川さん、荒川部長から大事な話があるとのことなので、お昼休みに会議室に来てくれとの伝言です」


「え? 荒川部長が……?」


 守の高ぶっていた気分が一気に沈んでいく。


 荒川部長は守が苦手とするタイプの上司であった。男性社員には高圧的に接し、美人の女性社員にはあからさまに媚びたり、冗談と称して身体に触ったりなど、パワハラとセクハラの常習犯だ。彼が原因で鬱になったり、仕事をやめた社員も多い。


 守とも言い争になる事が多く、基本的に人を嫌わない彼が明確に嫌いだと言える人物でもあった。


 そんな部長に呼び出されるともなれば、きっとロクな話ではないに違いない。だが、上司である以上は部下である守に拒否権などあるはずもなく、


「ありがとう……あとでちゃんと行くよ」


 ――と、力なく女性社員に礼を述べる事しかできなかった。明らかテンションが下がった同僚の様子に同情しつつも、女性社員はそのまま頭を下げてから自身の作業デスクに向かってしまう。


「…………」


 高揚した気分はどこへ行ったか、守の表情はすっかり青ざめていた。今日ほど昼休憩の時間を迎えるのが嫌だと思える日はきっと来ないだろうと、憂鬱とした気持ちで彼も自身の作業デスクへと向かっていったのだった。




   ◯




 十二時を過ぎて昼休憩に入ると、守は指示通りに会議室へと向かう。普段は複数人での会議で使う長机には、荒川部長一人だけが座って待っていた。


 彼は守の入室を確認すると同時に、普段は女性社員以外に見せない満面の(気持ちの悪い)笑みを彼へと向けた。


「やあやあ、待ってたよお、天川くん! ささっ、好きな席に座って?」


「っ……? 失礼します……」


 普段とはあまりに違う上司の上機嫌な態度に戸惑いつつ、守は一礼してから彼と対面になる席へと座る。不自然に少し浮き上がっている黒髪を整えた部長は一度咳払いをした後、メガネを光らせて笑みを顔に貼り付けたまま口を開く。


「すまないね、急な呼び出しになってしまって。昼休憩に入ってすぐに来たという事は、まだお昼も食べていないだろう?」


「ああ、いいえ……お気遣いなく」


 普段の部長ならば、呼び出しがあったのなら昼を抜くなど当たり前とでも言いそうなものだが、あまりにも不自然な気遣いに守はますます嫌な予感が強まってしまうばかりだ。


「いやあ、君の目まぐるしい活躍には上司である私にとっても実に鼻が高くてね? 今度君に任されたプロジェクトが成功すれば、間違いなく君は出世するだろう」


「……はい、僕を推薦してくれた上層部の方たちのご期待に添えるよう、精一杯頑張りたいと思っています」


 守の勤め先はそれほど規模の大きい会社ではない。広告を担当する映画も、日本ではマイナーなものばかりだった。


 アメリカ本国で大ヒットした映画の広告――会社の命運がかかっているとも言えるビッグプロジェクトの担当を予定された守。


 たまたまその映画の監督とのコネを持っていたのもあるが、何より彼のひたむきな仕事ぶりを評価した会社の上層部数人が、守を今回のプロジェクトに推薦してくれていたのだ――その中に荒川部長の名はないが――。


 映画が日本でもヒットすれば、広告を担当した守の出世も約束されたようなもの。


 出世すれば娘である進はもちろん、妻になるかもしれない綾香も問題なく養う事ができるようになるはずだ。


 ゆえにこのプロジェクトは、守にとって是が非でも成功させたい案件でもあったのだ。


「うむ、君とは口論になる事も多かったが、君のやる気そのものは私も高く評価しているよ。……だからこそ、今から君に伝える話は私としても大変心苦しいのだがね……」


 突然、浮かべていた笑みを曇らせる荒川部長。そして、重々しい口で部下に残酷な事実を突きつける。




「――君が、このプロジェクトの担当から外されるかもしれないんだ」




「…………」


 守はしばらく、上司の口にした内容が理解できないでいた。


「…………ど……どうして……なんで僕がプロジェクトから外されなきゃいけないんですか……?」


 たどたどしくも、ようやく疑問を口にする事ができた守。そんな彼を(あわ)れむように、部長は静かに首を横に振る。


「……実は、社長の息子が今回のプロジェクトに興味を持ってしまってね。それで、社長に自分がプロジェクトを担当したいと打診(だしん)してしまったんだ」


「そんな……」


 思ってもみない理由であった。社長の息子は父親のコネで最近入社してきたばかりの新人だ。決して無能とまでは言えないが、彼に今回のプロジェクトを任せるにはあまりにも経験が浅すぎる。いくら息子とはいえ、失敗すれば会社が傾きかねないプロジェクトを担当させるには危険だと経営判断できるはずだ。


「君の言いたいことはわかるよ? だけどね、当の社長が息子の提案に乗り気になってしまってるようなんだ……いくらか反対意見は出ているんだが、社長が強引に今回の話を進めれば、間違いなく君は担当から外されてしまうだろう……」


「っ……」


「まあ、メインの担当が変わるだけで、君自身がプロジェクトから外される事はないだろうが……仮に成功しても、手柄のほとんどは社長の息子のものになり、君の出世も保証できるものではなくなるだろうね……」




 ――どうしてこんな事になってしまったのだろう。




 あと数時間もすれば、綾香にプロポーズの返事ができて、その後娘に紹介して、三人で同じ時間を過ごせるようになる未来を享受できるはずであった。


 その幸福感に先ほどまで胸を(おど)らせていたはずなのに、今は埋もれて消えてしまいそうになるほどに、心は深く沈んでいってしまった。


 守の今の給与に問題があるわけではない。だが現状では、進と綾香の二人を何不自由なく養うには心許(こころもと)ない収入であった。


 さらに言うならば、このプロジェクトに至るまでの彼の努力は、上の人間の身内びいきという理不尽な形でなかった事にされたようなものなのだ。


 ――僕は映画が好きで、大衆があまり触れないような映画を広めるためにこの会社に入ったのに、なんでこんな目に遭わなきゃいけないのだろうか……?


 あまりにも無慈悲な会社の決定は、守の心を砕くには十分であった。


 完全に憔悴(しょうすい)してしまった様子の部下を見て、悲しげだった表情の荒川部長は再び満面の笑みを顔に貼り付けた。


「もし、君を助ける事ができるかもしれない――と言われたら、君はどうするかね?」




 ――その言葉は、甘美な悪魔の誘惑のようで――。




「ッ――⁉︎」


 守はあまりの驚きに、沈みかけていた顔を勢いよく上げた。


「なに、簡単な事さ? 私を含め、君をプロジェクトに推薦しなかった上層部は数名いる。……もし、私やそれら上層部が君を改めて推薦すると声を上げる事ができるとしたら?」


「改めて……僕を推薦ですか……?」


 未だ荒川部長が何を言いたいのかが飲みこめず、守はただ彼の言葉を繰り返してしまう。


「今回の社長の息子の件は、まだ決定事項ではないのだよ。そこで、私が君を推薦するように他の上層部に働きかけ、ほとんどが君の推薦派に回ってしまえば、数の多さに社長も君に任せざるをえなくなるって事さ。……上層部のほとんどの反対を押しのけてまで息子をゴリ押ししてしまえば、社員のほぼ全てから信頼を失いかねないからね。ただでさえ社員数がそれほど多くない会社だというのに、大量の社員に退職されてしまう可能性は社長もできれば作りたくはないだろうさ」


「っ……なるほど……!」


 荒川部長の言う通り彼に任せれば、もしかすれば守がこのままプロジェクトの責任者でいられる可能性は十分ありえるだろう。


 これまで荒川部長には嫌な思いをさんざんされて毛嫌いしてきた守であったが、初めて彼に感謝と尊敬の眼差しを向ける事ができた。


 ――だが、そんな部下の視線を向けられて、ニヤリと部長の口の端が吊り上がった。




「ところで話は変わるのだがね……先週、君と一緒にいた女性は――君の恋人かね?」




 一瞬――息が止まった。


「……なっ……なんの話でしょうか……?」


 思い当たる人物は一人しかいない。――だが、なぜ部長が綾香(かのじょ)のことを……?


「いやね? 先週桑扶の飲み屋で呑んだ帰りに、たまたま裏通りの入り口で君が女性と何やら話をしていたのを見かけてね……彼女は君の恋人かと、少し気になってしまったんだ」


 全身が震える。目の前で座る男の(わら)う顔が、今は悪魔の笑顔のように守には見えた。


「…………恋人……じゃないです……」


 プロポーズはされたものの、まだ返事をしたわけではなく、正式に付き合っているわけでもない。守は嫌な予感がしつつも、正直にそう伝えてしまう。


 部下の答えを聞いて、またパッと明るい笑みを貼り付ける上司。


「いやあ、それならよかったよかった! ……それじゃあ今度、彼女を私に紹介してはくれないかね?」


「ッ――⁉︎」


 ねっとりとした部長の提案に、守の全身がさらに身震いした。


「遠目からではあったが、彼女はなかなか美人だったじゃないか? 私もその、年甲斐(としがい)なく一目惚れしてしまってね? 彼女が君の恋人だったならさすがに遠慮していたところだが、恋人じゃないならその必要はないね、天川くん?」


「っ……」


 勝手に一人盛り上がる上司を気味悪く感じ、ただただ言葉を失う事しか守にはできなかった。


「彼女を私に紹介してくれたなら先ほど言った通り、他の上層部に口添えしたり、私も君を改めてプロジェクトの担当に推薦しよう。なに、悪い話ではなかろう? ……君はただ、彼女を私に紹介するだけでいいのだから?」


「そ、それは……」


 たしかに部長の協力は願ってもない事ではある。だが、綾香を紹介するという事はつまり、彼女を部長に売るのと同然の行為だ。


 もちろん、そんな事が許されるはずがない。女癖の悪い噂が多い荒川部長に綾香を会わせてしまえば、彼女がどんな目に遭うかも想像したくなかった。


 だが――、


「――君が拒否すれば、プロジェクトの責任者は確実に社長の息子のものになるだろう。どころか私がうっかり、ほんとーにうっかりだが、社長に君の悪評をつい口にしてしまったら、プロジェクトそのものから外される可能性も十分ありえる。そうなれば、将来的にも出世は絶望視され、下手すれば地方へと左遷(させん)……なんて事もありえるだろうね?」


「なっ……そんなの、脅迫も同然じゃ――」


「――親切心で言っているのだよ? それに……君の収入が下がるような事があれば、君の娘さんも満足に食わせられなくなるのではないかね?」


「ぐっ……⁉︎」


 彼は綾香どころか、娘のことすら口に出した。




 ――つまりは、娘か綾香のどちらかを選べと、彼は選択肢を突きつけてきたのだ。




 綾香を部長に差し出して出世の道を切り開くか、それとも彼女を守って娘との生活をおびやかされるか……。


「…………」


 守は机を見下ろし、すぐには返事を口にする事ができなかった。


「……フフ、まあ一日ぐらいは考える時間をくれてやってもいいだろう。それに、そろそろ昼休憩も終わりになる時間だ。手早く食べて、午後の仕事にも励んでくれたまえ」


 部長は立ち上がり、ゆっくりと会議室から出ようとする。その直前、背後からガシッと守の肩をつかむ。


「――色よい返事を期待しているよ? グフフ……」


 最後にそう言い残して、荒川部長は守を置いて会議室を去ってしまった。


「…………ッッッッ――!!」


 会議室に一人取り残された守は、ただ声にならない叫びを上げる事しかできなかった。

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