第8話 占い師
――人行き交う雑踏の中で、その占い師の存在はなぜか僕の心を強くつかんで離さなかった。
「フフ、そんなに緊張した顔をしなくてもいいじゃないですか? 何も、取って食おうなんて考えていませんよ」
占い師の女性の声は、聴くだけで身体が蕩け堕ちてしまいそうなほどに蠱惑的な妖しさを帯びていた。
その蠱惑的な声に惹き寄せられるかのように、守の脚が自然と彼女の座るテーブルの方へと近づいてしまう。
「ようこそ、善良な迷い人。あなたに訪れるこれからの未来、およびその未来に対してあなたがなすべき事は何か……それらを占ってあげましょう」
占い師の手が対面のイスに座るよううながす。しかし、守は気まずげな笑顔で頭をかいている。
「いやぁ、そのぉ……申し訳ないんですけど、僕占いはあんまり信じてなくて……」
「あら、それは残念。まあ、占いそのものを信じるかどうかは当人次第。ただ……あなたに声をかけたのは、少しばかりあなたから奇妙な気配を感じ取ったので……」
「奇妙な気配……?」
普通の人間ならば、おかしな事を言っているな程度で一蹴されそうな彼女の言葉はしかし、なぜか守の頭に嫌にこびりつく。
――あまり彼女に深く関わってはいけない――と、脳が警告音を発する。しかし、この場から立ち去るという選択肢は、なぜか彼の頭から除外されていた。
「フフ……占いは趣味でやっているようなものなので、お代はけっこうですよ。ただ、私の暇つぶしに付き合うという軽い気持ちでいただければ十分です」
「…………」
あまり乗り気ではなかったが、なぜか興味ないはずの占いの内容が気になってしまい、このまま何も聞かずに去っては寝覚めも悪くなると感じ、守はおとなしく占い師と真向かいになるイスに座る。
「では、今からあなたの未来を占っていきますので、しばらく目をつぶっていただけますか?」
「あれ? 占いはやった事ないんですけど、こういうのって先に質問とかされるんじゃないんですか?」
「フフ、私の占いは少しばかり普通の占い師とやり方が違うので……」
彼女の言動にますます胡散臭さが強まるが、守は素直に彼女に従う事にする。
「…………」
瞳を閉じて真っ暗闇。その中に――小さな青い炎が灯る。
――暖かい。しかし、触れれば一瞬にして燃やされてしまう想像が頭をよぎる。
炎は一つだけではない。気づけば、周りにもいくつかの炎が灯り始める。その炎は先ほどまでと違って、明らかに対象を燃やしつくさんと豪々に猛っていた。
「――ゆっくり、目を開けてください」
占い師の合図とともにまぶたを開く。
目を閉じていただけなのに、なぜか身体中が汗まみれになっており、息もまるで全速力で走ったかのようにハァハァと乱れていた。
「いっ……今見えたのは、いったい……?」
問うというよりもつぶやきに近い疑問が口からこぼれる守。わずかな疑問の言葉を口にしただけなのに、声を喉から発するだけでなぜか胃がキリキリと締められるような痛みが襲う。
「……やはり、あなたから奇妙な気配を感じ取ったのは間違いではなかったようです……」
深刻そうに告げながらも、彼女は手を組んで口元はニッコリとほほ笑んだ。
「――単刀直入に申し上げますと、あなたの周囲に……複数の邪気が取り憑いています」
「じゃ……き……?」
日常生活の中でほとんど聞く事のないその単語はなぜか、耳にしただけで守の背筋に寒気を感じさせる。
「わかりやすく言うならば、邪気は人が誰しも持つ悪意の気といったところでしょうか。あなたの周囲をまとわりつく邪気は、今はまだ小さな火のように燻っているだけですが……いずれ火は強大な炎となって、あなたの身体も精神も全て灰になるまで燃やし尽くすことでしょう……」
「っ……」
聞くだけなら実に胡散臭い単語が羅列するだけの占い師の言葉は、彼女のゆっくりとした語り口調の元、妙な説得力を感じさせた。
「その……あなたの言う邪気とやらを払ったりはできないんですか……?」
不治の病にかかった患者を看取る医者のように、彼女は静かに首を横に振る。
「残念ながら、私にはどうしようもありません……。邪気は人の悪意そのもの。邪気を払うという事は、言い換えればその邪気の元となった人間を更生するのと同じ事。しかし、邪気を放たぬ人間などもはやそれは聖人の類。人から発するものである以上、その人間との縁を断ち切る以外に邪気を払う方法などないのです」
「そう……ですか……」
がっくりとうなだれる守。奇妙な幻覚を見たからか、本来占いを信じない彼でも占い師の言葉一つ一つに信憑性を感じてしまっている。
そんな守の様子が面白かったのか、占い師はクスクスと笑いだすも、彼に手を差し伸べるように、
「――ですが、あなたの未来を切り開くお手伝いをする事ぐらいならできますよ?」
「未来を……切り開く……」
一転して今度は、まるで少年漫画でよく聞くような言葉を口にする占い師。
「放置すれば確実にあなたの未来を焼き尽くすであろう邪気を払う事はできなくても、あなたの行動次第で邪気を打ち消す事は可能なのです。もちろん、今のあなたでは邪気を打ち消すなんてまず不可能ではありますが……私なら、あなたの未来を切り開く力に手を添えるぐらいの事はできます」
そう言って、テーブルに乗せていた守の拳に優しく手を添える占い師。彼は一瞬ドキッとするもなぜか嫌悪感はなく、手を引っ込めるような事もしなかった。
「では――今からあなたに一つ、ちょっとしたお呪いをかけてさしあげます」
またもや、彼女の口から胡散臭い言葉が飛び出した。
「おまじない……ですか?」
こればかりは、いくら先ほどまで占い師の言葉を聞き入っていた守でも懐疑的になってしまう。
「フフ、怪しい壺やお札などを買ってくださいなどよりも、よっぽど信憑性が高いとは思いますが? あ、もちろんお呪いに関しても、お代などはいただきませんよ」
「っ……」
やはりどこか怪しさが拭いきれない守ではあったが、ここまで話を聞いたのだから彼女の占いが真実にしろ虚言にしろ、最後まで付き合う事にした。
「……では、もう一度目をつぶって深呼吸をしてください」
言われた通りに目を閉じ、視界が再び暗転する。
今度は先ほどのように火が灯るような幻覚は見えない。かわりに――全身が暖かい何かに満たされるのを感じる。
「…………」
息を整える。暖かい何かは身体の内側に少しずつ流れ込んでいき、徐々に身体中が熱を帯びたように熱くなる。
「ハァ……ハァ……」
時間が経つごとに息が荒くなる。そして――真っ暗闇だった頭にかすかにだが、先ほどの炎とは違う映像が映し出される。
それがなんであるかを把握しづらいほどにぼやけたイメージ。わずかに把握できたのは鋭い爪と、どんなものでも噛み砕けそうな獣の牙――、
「……もう、目を開けていただいても大丈夫ですよ」
「…………ッ!」
再び目を開ける。頭に浮かんだイメージは以前の炎よりもボヤけていたのに、胸を締めつける痛みは先ほどと比じゃないぐらいに痛い。
「ハァ……ハァ……僕に、何をしたんですか……?」
明らか苦しげに息を乱す守を前にしても、占い師はなお楽しげに笑っている。
「どのような人間にも、心の内に『獣』を飼っています。それらは人間の持つ『理性』という人格に抑えられ、普段表に出るような事はありませんが……時として、『理性』を超えて人を人ならざる獣へと変えます」
守はますます占い師の言っていることを理解できなくなる。なのに、なぜか彼女の言葉は朦朧とする意識の中でも聞き入ってしまっている。
「あなたの心に飼われた獣ならばあるいは、あなたの未来を切り開く事もできるでしょう……しかし、獣はあくまで獣。使い方次第では、あなたをさらなる深淵に堕とす諸刃の爪にもなりえる……」
嗤う――歪んだ彼女の笑みは、まるで他者の不幸を楽しむ悪魔のよう――、
「――さて、本日はお開きです。私の暇つぶしに付き合っていただいて感謝しています」
パッと手を叩いて片付けを始めるためか、突然立ち上がる占い師。
「…………」
未だ響く頭痛に頭を抑えながら、守もなんとかよろける脚を立ち上がらせる。
彼女の説明したおまじないを守は理解できなかった。だが、それでも不思議と彼は心がスッキリしたように感じた。言い得ぬ不安感で頭が痛むはずなのに、心はなぜか熱く勇気がわいていたのだ。
ゆえに、彼は――、
「その……占っていただいてありがとうございます。……なんでかわからないんですが、心が強くなった気がします」
――まっすぐに、彼女にお礼を告げた。
「っ……」
常に笑みを絶やさなかった占い師が、少しばかり意外そうに口元を呆ける。だがすぐに、クスクスとまた笑いだした。
「どうしようもないぐらい善人なのですね、あなたは……」
面白がっているようで、どこか呆れてるようにも見える笑み。しかし、その笑みはどこか普通の人間とは違う神秘めいた彼女から初めて、人間らしさのようなものを感じさせた。
「ではそんな善人に、特別に余計な言葉を一つ付け足しましょう」
そう言って彼女は右手の人さし指を口の前に置く。――その時一瞬見えた彼女の目元は、妖しげな光を帯びていた。
「――あなたに取り憑いた邪気たちは、放っておけばあなただけでなく、あなたの娘にも延焼しえるもの……ゆめゆめ、お忘れなきよう」
「……えっ?」
ふいに占い師が口にした『娘』という言葉に目を見開く。
――彼女には娘がいる事を教えていないのに、なぜ娘がいる事を知っているのか……⁉︎
彼女に問いただそうとする直前、占い師の指がパチンと音を鳴らす。
一瞬の暗転――気づけば、目の前にはビルの閉め切ったシャッターがあるのみ。占い師の姿も水晶玉の乗っていたテーブルも、彼の前から消えていたのだ。
周りを見渡すと、何人かが不審なものを見るように守に視線を向けていたが、特に変わりなく人の波が流れていた。
「…………ちょっと、酔いすぎたのかな……?」
頭にじんわりとした痛みが広がる。――占い師も、彼女との先ほどまでのやり取りも、全て酔いが見せた幻覚であったのだろうか……?
その疑問に答える者は誰もいない。ハァ……っとため息をこぼしながらも、守はシャッターから離れて人の波に混ざるように、再び帰路につくのであった。
◯
人の波の中に流れゆく男の背中を、物陰から見つめる一人の女性――。
占い師風の黒い無地のローブをヒラリと舞わせると、一瞬にしてゴシック調の模様が入ったローブへと変わり、彼女はそれを優雅に羽織る。
「天川進の父、天川守……ここで出会ったのは偶然だったけれど、彼の内側に眠る『獣』は果たしてどのような未来をもたらすか……楽しみにしているわね」
妖しい笑みを浮かべて日傘を開いた『魔女』は、雨も降らない冷たい夜の闇の中へと静かに消えていくのであった。




