第7話 プロポーズ
――暗めの室内の中で回転するミラーボールのカラフルな光は、まるで海底を泳ぐ回遊魚のよう。
桑扶市のとある裏路地の奥をさらに角に曲がった先にある夜の店『クラブ・パンデモ』。
いかにもアングラといった感じの店ではあったが、店内はそれなりに客も多く、十数ある客席は夜の七時にしてすでに全て埋まっている。店内を流れるテクノ系サウンドは酒に酔いしれる男性たちの心をさらに浮き足立たせ、彼らに明るい笑顔を振りまく女性たちは、耳に心地よく響く声で吐息まじりにいろんな話題を語りかけている。
そんな他の男性客たちを眺めながら、天川守はグラスに注がれたビールを少しずつ口に含む。
他の男性客たちには複数の女性ホステスたちが付いて接客しているのに対し、守のそばに座るのは浅見綾香ただ一人。彼女は守の直接の担当ホステスとなっており、彼が店に来る時は常に彼女が守を接客しているのだ。
ただ、客とホステスとはいえど二人は幼なじみ。酒を入れながらでも語り合うは、互いにどのような学生時代を送ってきたかという話題がほとんどであった。
二人が再会して以来、守は定期的にこの店に通っている。子供の時に別れた綾香と一緒に酒を楽しむためという目的もあったが、何より親の関係で苦労してきたであろう彼女を応援したいというのが一番の理由でもあった。
同じく自身と妻であった母のせいで苦労させた娘とどことなく綾香が重なり、こうして店に通う事で彼女の助けになればいいという思い。それにこうして、彼女と二人で語らい合うこの時間が、今の守にとっても幸せな時間でもあったのだ。
「でも本当にいいの? お店に来てくれるのは嬉しいけど……ホステスの私が言うのもなんだけど、ここの支払いだって安くはないでしょ?」
このクラブはそれなりに高級店なため、店に来ても毎回お酒を二杯ほど飲む程度に収めてはいるが、やはり高めの出費は避けられざるを得なかった。
しかし、守は穏やかな笑顔を浮かべて静かにうなずく。
「心配しなくても大丈夫だよ。長期出張中は自分のためにお金を使う事があまりなかったし、娘のための貯金もちゃんと別で取っといてる。それにね……実は今度、会社のビッグプロジェクトを担当する事になったんだ……!」
そう語る守の笑顔は、いつもの気弱な中でもどこか自信が満ちているようだった。
「僕の会社はまだ規模も小さくて、広告を担当する映画も基本マイナーなものばかりだったんだけど、今度担当するのはアメリカでも観客動員数一位を取った超大作なんだ……! その映画の監督は僕とも交流があった人でね。出張での功績も含めて、ぜひ僕に担当してほしいって事で決まったんだ」
「そっか……! 守くん、今日はどことなくご機嫌に見えてたけど、会社で嬉しい事があったんだね」
守の心の底から嬉しそうにしている表情を見て、静かにグラスの中の酒を氷と一緒にマドラーでかき混ぜていた綾香も、同じく嬉しそうに笑った。
「守くん……会社でつらそうな話が多かったから、お仕事で進展があったのなら私も嬉しいわ」
「会社の事はもちろんだし、それに……もう一つ、嬉しい事があったんだ」
そう言って、守は自身のカバンの中身をあさりだす。そして、彼は一枚の紙切れを取り出した。
「これは……映画のチケット?」
「そう! しかも、ただのチケットじゃないんだ」
そう言いながら、守はチケットの端と端を握って表面を広げる。チケットの表紙には、映画のジャケットになっている狼男らしき怪物が映っていた。綾香はあまり映画にはくわしくない方だが、そんな彼女でも一目見て、B級映画だとわかるクオリティのジャケットであった。
「僕の娘がホラー映画苦手なのは前にも話したよね? そんな娘が僕と映画を観るために、このチケットを買ってくれたんだ……!」
綾香は改めて、今日の守の上機嫌ぶりに納得がいった。時折彼は娘が一緒に映画を観てくれなくて寂しいとよく嘆いていたので、そんな娘から映画のチケットをもらえたのが本当に嬉しかったのだろう。
「娘の友達とも一緒に観に行くんだけど、とてもにぎやかになりそうですごく楽しみなんだ……!」
そんな彼の笑顔を目にして綾香は一瞬、どこか複雑そうな表情を浮かべてしまう。
「そっか……せっかくの進ちゃんのプレゼントなんだから、全力で楽しまなきゃだね」
守に悟られないよう綾香はすぐに笑顔に戻り、混ぜ終えたカクテルを彼に差し出した。
「あれ? これ綾香ちゃんに頼んであげたやつじゃ――」
「私からのお祝い。あと、お店の中では源氏名で呼ぶように。言ったでしょ?」
「あはは、そうだったね、アヤナさん……」
アヤナのブレンドしたカクテルを口につける。甘めのリキュールの奥から感じる酸味が、わずかに舌を痺れさせた。
◯
「今日も来てくれてありがとう。守くんがお店に通ってくれるおかげで、今月の売り上げはいつもより好調になりそうよ」
「あはは……僕みたいな貧乏人じゃ微力程度にしかならないだろうけど、君に貢献できているなら僕も嬉しいよ」
カクテルを含めて酒を三杯程度飲み、これ以上はまた酔い潰れかねないと、ここらで切り上げる事になった。いつも通り会計を済ませ、店の入り口まで綾香に送ってもらう。
「ううん……微力だなんてとんでもないわよ。お店では私の売り上げは下の方だし、守くんが来てくれるだけでも十分嬉しいの。それに……守くんと話すと昔に戻ったような気になれて、今は守くんと一緒にいる時間が一番幸せに感じるの……」
「っ……」
綾香の言葉を守は嬉しく感じてはいたのだが、同時に彼女の寂しげな表情が心に突き刺さる。
「……今日は、路地を出たところまで送って行ってもいいかな?」
「え? ……あ、うん! 綾香ちゃん――じゃなかった、アヤナさんでよければ……」
守のドギマギとした返事に綾香は少しだけくすりと笑いながら、彼と共に店を出る。
――六月。梅雨の時期は過ぎ、まもなく本格的な夏が来る前の今の時期の夜は、まだ半そでで過ごすには少し肌寒い。
光源が他の店の明かりしかない裏路地は薄暗く、そんな夜道を大人になった幼なじみと共に歩くというシチュエーションは、守の心臓の鼓動を早めさせるには十分であった。心なしか、明かりに照らされる綾香の表情もほんのり赤く、いつも以上に女らしく彼の瞳に映ってしまう。
――表の通りに出るのに一分にも満たない道が、今はとても長く感じられた。
「…………あ、あのさ! 守くん……」
「は、はい⁉︎」
表の道へと出る少し手前で、綾香が大声をあげて立ち止まった。
彼女の顔がゆっくりと守へ向けられる。潤んだ瞳に見つめられて、鼓動がより早く高鳴る。
「その……少し、唐突かもしれないんだけれど…………」
その後の言葉を口にする前に、彼女はひと呼吸間を開ける。自然と守も、ゴクリと息を飲んだ。
そして――、
「守くんでよければ……その…………私と結婚してくれませんか……?」
「っ…………」
その告白に、守はすぐに返事ができず、ただその場で固まってしまう。
「……私たち、まだ再会してから一週間ちょっとしか経ってないけど、私はこの一週間で守くんのことを本気で好きになれたの。……ううん、多分、私は子供のころから守くんのことが好きだったんだと思う……」
たしかに綾香とはいい雰囲気になれたかなぁっとは守自身思ってはいた。だが、まさかこんなにも早く、しかも彼女からプロポーズされるとはさすがに予想できず、なんと返していいか言葉を探して彼は頭をフル回転させた。
「そ、そ、その…………どうして、僕なんか……」
「……さっきも言ったけど、守くんと一緒に過ごすこの時間が今の私の一番の幸せ。それに……母親になった事はないけれど、私なら進ちゃんの境遇を理解して、彼女を支える事ができると思うの。ほら、前にも話したでしょ? ……私のお母さんの話」
――それは、守が綾香と再会して少し経ってから語られた、彼女の過去。
「両親が離婚したのはお母さんの不倫のせいだったのに、裁判で私はお母さんに引き取られた。……でも、離婚した後もお母さんの浮気癖は治らなくて、私が家にいる時も男を取っ替え引っ替えして家に連れ込んでた。私はそれが嫌で、中学を卒業してすぐに家を出た。……でも、中卒の私じゃどこも雇ってくれなくて、結局大嫌いなお母さんが離婚した後と同じ水商売で働きながら生活してきた……」
「綾香ちゃん……」
たしかに細かな違いはあれど、進も綾香も母の裏切りでつらい過去を送ってきた。守は綾香から二人が少しだけ会話をしたという話は聞いていたが、二人ならもしかすればそれほど時間をかけずとも、打ち解ける事ができるかもしれない。
守自身、女性恐怖症という事もあって今まで自身を女性から遠ざけていたのだが、綾香とは幼なじみという事もあって他の女性と比べても話しやすい。誰かと落ち着く事ができれば娘にかけていた負担も減って、もっと伸び伸びと青春を謳歌させられるようになるかもしれない。
――守にとって、彼女のプロポーズは是が非でもない申し出であった。
「……その……僕も――」
――しかし、彼女に返事しようとしたところで言葉が止まってしまう。
――頭に浮かんだのは、大切な一人娘の笑顔であった。
「…………守くん?」
「ッ――⁉︎」
先ほどまでのドキドキとした表情から、心配げな顔に変わって守を覗きこむ綾香。
彼はしばらく言葉をなくしてしまっていたが、少しして震える唇をゆっくりと開く。
「その…………返事はまだ、保留でもいいかな……?」
落胆するであろう彼女の顔が見れず、思わず守は目をそらしてしまう。
「……ほら、綾香ちゃんも言ってたけど、僕たちまだ再会して少ししか経ってないでしょ? それに……これは僕たちだけの問題じゃないから、せめて進には相談しておきたいんだ……」
娘を理由に答えを遅らせるのは双方に悪い気はしたが、それでも今の守ではまだ彼女のプロポーズに返事をする決断ができなかった。
「…………ふふ」
ある程度その答えは予測していたのだろう。綾香は落胆するどころか、むしろ少し楽しげに微笑んでいた。
「ごめんなさい、困っている守くんが可愛くてつい」
「うぅ……これでもすごく悩んだのにぃ……」
反対に悲しそうにしている守を見て、彼女はどこか吹っ切れたかのようにさっぱりとした笑顔を見せた。
「……うん、それじゃあ待ってる。でも、告白した女の子をあんまり待たせちゃダメだぞ?」
「あはは……なるべく早く、進とも相談してみるよ」
そう言って互いに小さく手を振り合いながら、綾香は店に、守は表の通りへと別れていった。
――眠らぬ夜の街に起きた、ささやかな恋愛劇。
――それを、一人の人物が道向こうから覗きこんでいた事を、この時の守は気づく事ができなかった。
◯
会社帰りのサラリーマンたちが行き交う道を、守は機嫌よく鼻歌まじりに歩いて行く。人が少なければ、今にもスキップしたくなるぐらいに彼のテンションは上がっていた。
綾香に話した二つの吉報に加え、懇意した幼なじみにプロポーズまでされたのだ。娘のことを考えて一旦保留にしてもらったとはいえ、守にとって嬉しくない出来事なはずもない。
この事を娘にどう話すかが気がかりではあったが、今だけはこの幸せな気分に浸りたい気持ちでいっぱいだった。
「――まるで幸せの絶頂にいるかのように、ずいぶんとご機嫌な様子ですね、そこのお兄さん?」
――その声は、これだけ人通りの多い中でなぜか、僕一人を明確に呼んだような、そんな気がした。
足が止まる。ふと、守は声がした方へと視線を向けた。
シャッターが閉まったビルの入り口の横。そこには布がかけられた小さなテーブルと、向かい合うように設置されたイス二つ。テーブルの上には水晶玉が置かれており、奥側のイスにはフードを目深にかぶったいかにもな占い師らしき人物が座っていた。
目はフードに隠れてよく見えないが、口元と声から若めの女性だというのは判断できた。彼女は水晶玉を見下ろしていた顔を守の方へと向けて、
「上機嫌ついでによかったら一つ、あなたのこれからの未来を占ってみませんか?」
――女性占い師は聴くだけで心が溶かされてしまいそうなほどに淫靡な声色で、守を占い場へと妖しく誘うのであった。




