第5話 夜の女性たちへの印象
「はぁー……」
テレビから流れる無機質な笑い声が響くバラエティ番組をつまらなさげに眺めながら、天川進は深いため息を吐いていた。
時刻は夜の十一時過ぎ。彼女の父親は未だ帰宅していない。
六時ごろに一度メッセージアプリにて父親から『軽くだけ飲みに行く』という連絡はもらっており、ついでに晩ご飯も一緒に食べたいとのことで、すでにその準備も終えていたのだが、一向に父親が帰ってくる気配がなく、先ほどのメッセージ以降の連絡も途絶えてしまっている。
一緒に暮らすのが久しぶりという事もあり、父親がいつも何時ごろに帰ってくるかは進もハッキリと把握しているわけではない。だが、基本はマメな性格である父親が昨日のようなおふざけではない限り、帰宅する前に必ずスマホにメッセージが送られてくるはずだった。一度進側から『何時ごろに帰ってくる?』というメッセージを送るも、既読すら付いていない。
お腹がギューっと鳴る。父親の希望通り、一緒に食事をとるために進は用意した晩ご飯に手をつけるのをグッと我慢していた。
「…………」
テレビの向こうの芸人の笑い声もどこか遠くに聞こえ、やがて徐々にだが眠気が思考を霞ませていく。
さすがにテレビをつけっぱなしにしてソファで寝ては格好がつかないと思い、今一度スマホを手に取って直接電話をかける事にした。電話帳から父の番号を探し、発信ボタンに指をかける寸前――、
『ピンポーン』
――っと、玄関のチャイムが鳴り出した。
「……親父……じゃねえよな?」
昨日はドッキリのためにわざわざチャイムを鳴らしたとはいえ、守はもちろん家の鍵を所持している。そのため、わざわざ玄関でチャイムを鳴らす必要はないはずだった。
かといって父以外の来客にしてはあまりにも遅い時間。進は深夜直前の来訪者に警戒しつつも、玄関の方へと向かうことにする。
扉の前にまで到着し、そっとのぞき穴に目を通す。
「…………親父ぃ」
進は呆れのため息を吐く。のぞき穴越しに見えたのは、顔を真っ赤にしてデロンとした表情を見せる彼女の父親の姿であった。
やはりメッセージの通り、どこか飲みには行っていたようだ。しかし、様子からして普段よりも酔いが深そうである。進が普段から口すっぱく言ってるだけあって、彼女の父は酒が好きでも本数はあまり飲まないように自制していたはずなのだが、どうやら今日はハメを外したと見られる。
「たくっ……親父! 飲んでもいいけど飲みすぎるなってあれほど――」
勢いよく玄関を開け、進は父に帰宅早々説教をかまそうとしたのだが、父の隣に見知らぬ女性が立っていたのに気づき、言葉が止まってしまった。
「こんばんわ、あなたが進ちゃんね? 申し訳ないんだけど、この通り守くん酔い潰れちゃって……玄関まで上がらせてもらってもいいかな?」
「っ……」
――会った事もない女性が父の肩を担ぎながら、父の名を親しげに呼んでいる。
進は状況が飲み込めず、しばし呆然と立ち尽くしてしまう。
「あー……えっと……どうぞ……」
状況が理解できぬまま、ひとまずは酔い潰れた父を介抱しなければと、もう片方の腕を進が担いで二人を玄関に通す。
「酒くさ⁉︎ どんだけ飲んだんだよ、親父……」
玄関へと入り、一旦靴を脱がすために進は父親の腰を床におろす。父親はうわごとのように何かをつぶやいているがハッキリは聞こえない。その間、先ほどまで父を担いでくれた女性の方をチラチラと見つめる。
顔は可愛い系で、少し香水臭く、派手めな毛皮のコートを着込んだ金髪ポニーテールの女性。見た目も雰囲気もキャバ嬢、あるいはホステスであろう事は、まだ高校生の進でも察する事はできた。
しかし、父親が軽い女性恐怖症である事も進は把握している。ゆえに、その手の店とはこれまで縁がなかったはずであるのだが、明らかな夜のお店の女性が酔った父を自宅まで運んできた事や、自身の名を知っていた事に対し、進はどうしても彼女に警戒心を抱いてしまっていた。
「あのぉ……失礼ですけど、あなたはいったい……?」
訝かしげな瞳で見つめられていた事に気づくも、女性はやわらかげな視線で進を見つめ返す。
「自己紹介が遅れてしまったわね。私は浅見綾香。あなたのお父さんとは、子供のころに同じ家の隣同士に住んでたお友達よ」
「……お友達?」
「ええ。今日はお客さんに絡まれていたところを偶然あなたのお父さんに助けられてね。だからお礼に、私が働いてるクラブでおもてなししてあげたのだけれど、昔話で盛り上がったらお酒飲みすぎちゃったみたいで……あ、代金は私もちだから、そこは安心してね?」
「っ……」
進の見立て通り、綾香と名乗る目の前の彼女はクラブで働くホステスのようだった。話し方や表情からは穏やかそうな印象を受けられるが、どうしてもその一点で彼女への警戒心が拭えないでいた。
それを察してか、綾香は少し寂しげな笑みを浮かべる。
「……フフ、いくらお礼にって言っても、やっぱりお父さんが私のような人が働くお店で飲んでたってのは、子供としては嫌な気持ちになっちゃうわよね……。でも、本当にあなたのお父さんには感謝してるの。だから、今日の事はありがとうってお父さんが起きたら伝えておいてくれると嬉しいな? ……それじゃあ、私はこれで――」
「あ! あのぉ……」
綾香が玄関から去ろうとする寸前、彼女の背中を進が呼び止める。
「そのぉ……ここまで親父を運んできてくれてそのまま帰すのもあれですし……お茶だけでも飲んでいきませんか……?」
たしかに綾香の言葉通り、娘である進としては父親がタダとはいえ、派手な女性が接客してるであろう店で飲んでいたというのは複雑な気持ちではあった。それでも、酔った父親を家に運んできてくれた女性を無碍に帰すほど、彼女も薄情ではない。
少し恥ずかしげに顔を赤らめる進を見て、綾香は本当に嬉しそうに彼女にまた笑みを向ける。
「それじゃあ、少しだけ甘えちゃおうかな?」
◯
父親をリビングのソファに一旦寝かしつけ、進は綾香を食卓に座らせて冷たい麦茶を差し出す。
「ありがとう。私もお酒いっぱい飲んだから、冷たいお茶が胃に染みるわ」
両手でコップを持っておいしそうにお茶を飲む綾香の対面に進も座る。
「その……わざわざ父を家にまで運んできてくれて、ありがとうございます」
「ううん、いいのよ。むしろ、お礼を言うのは私の方だわ。今日は厄介なお客さんに絡まれて怖かったけど、それを助けに来てくれたあなたのお父さんはカッコ良かったもの」
綾香は先ほどまで何があったのかをかいつまんで進に語る。父親の意外な正義感のある一面を聞かされて、娘はただただ驚くばかりであった。
そして、綾香は幼いころの守と、彼女自身の境遇を語り始める。
「さっきも言ったけど、私と守くんは子供のころはお隣同士でね。幼稚園から小学校まで一緒で、とても仲が良かったのよ? でも、私が中学に上がる前に両親が離婚しちゃって……私はお母さんの方に引き取られたんだけど、そのせいで転校する事になって、守くんとは離ればなれになっちゃったの……」
寂しげに自身の過去を語る綾香。その境遇は、どこか進と守とも似かよっていた。
「あなたのおウチの事情も聞いているわ。小さいころに、お母さんの不倫で離婚したって……」
「っ……」
いくら幼いころの友人とはいえ、久々に再会したその日に家の事情まで話した父に、娘はただ呆れ返ってしまう。
「不倫した相手側がすごいお金持ちで、慰謝料も一千万近くもらったって聞いたわ……でも、そのお金に手をつけずにあなたを育てたってお話も聞いて、改めてあなたのお父さんに驚かされちゃった。……あなたのお父さんは、とても立派な父親だと思うわ」
「…………」
「だから、少しハメは外しちゃったけど、今日私のお店で飲んだ事はできたら許してあげてほしいの。誘った私が言うのも違うかもしれないけど、あなたのことを自慢げに話す守さんは、すごく嬉しそうだったから……」
綾香の言う通り、守が必死で働いて育ててくれた事は娘の進も十分にわかっている。クラブなどのいわゆる夜のお店に対する印象は決していいものではなく、そこで楽しんだ父に対して複雑な思いはあるものの、それでも酔い潰れるほどに父が楽しくお酒が飲めたのなら、娘としてもそれは喜ばしい事ではあった。
綾香に対してもたしかに服装は派手ではあったが、そのやわらかく丁寧な物腰は、夜の店で働く女性への印象をある程度払拭でき、進の抱く警戒心も少しだけ薄れてきたのだった。
「……いいえ、こちらこそ、父に付き合っていただいてありがとうございます」
頭を下げて礼を言う進。ふいに、綾香がクスクスと笑い出した。
「フフ、ごめんなさい。守さんからはやんちゃな女の子だって聞かされていたから、思ったよりも礼儀正しい子でビックリしちゃったの」
「親父のやつ……」
振り返り、ソファで気持ちよさそうに眠る父を睨みつける進。
「でも、あなたが礼儀正しく育ったのは、守さんの教育がよかったんでしょうね……」
「……親父がだらしないから、必然的にこう育っただけっすよ」
口ではそう言いながらも、父親を褒められて娘は少しだけ嬉しくて照れてしまっていた。
「さてと、いつまでもお邪魔しちゃ悪いし、そろそろお暇するわね。お茶、ごちそうさまでした」
小さいブランド物のバッグを持ち上げ、イスから立ち上がる綾香。彼女を玄関まで送るため、進も彼女に続く。
玄関で赤いハイヒールを履いた後、綾香は丁寧に進に頭を下げる。
「改めて、今日は助けてくれてありがとうってお父さんに伝えておいてください」
「もちろんっす。……こちらこそ、父を介抱してくれてありがとうございます」
進もまた、彼女に礼を返す。綾香は頭を上げた後、少し気まずげな表情で、
「その……進ちゃんで良ければなんだけど、せっかくの縁だし、これからも守くんや、できれば……進ちゃんとも仲良くなれればなぁって思っているんだけど……ダメかな?」
そう問う綾香は笑顔ではいるが、その笑みには少し不安も混じっていた。
「っ……」
進はすぐには答えられなかった。父と親しげであった理由もわかったし、彼女が悪人ではなさそうだとも思いたくはあったのだが、それでも完全に目の前の女性を信頼できるとは言いきれなかったのだ。
――それは、幼いころに裏切った母親への思い出が父だけでなく、娘の心にも未だ消えない傷を残していたからであった。
「…………」
それでも、彼女が父の遠い昔の友人であるならば――父が女性だからと警戒せず、家の事情を話せるほどに信用できた女性であったのならば――進も彼女を信頼してもいいのかもしれないと、少しだけそう思えた。
「……父親の交友関係にはあまり口は出しませんし、親父の小さいころのお話が聞けるんなら……またおいしいお茶用意しますよ」
進の言葉に、綾香の笑顔がパッと明るくなる。
「ありがとう! それじゃあ、またお話しましょう!」
進の手を握り、激しく握手する綾香。彼女のテンションに戸惑ってしまうも、どことなく子供っぽい仕草と見た目のギャップは、同じ女性としても可愛く感じられた。
最後にスマホのメッセージアプリのアドレスと携帯番号を交換し、彼女は小走りで去っていく。
「……悪い人ではない……って、ちょっとは信じてもいいんだよな、親父……」
未だ心境は複雑のままではあったが、彼女の去っていった道を見つめる進の表情は、少しだけ笑顔であった。




