第4話 赤い蜥蜴の刺青
桑扶市の一角、その裏路地を通ってさらに突き当たりの角を右に曲がる。元来、体力のあまりなかった守は悲鳴を聞きつけてから全力で走ったため、わずかな距離でもすでに息があがっていた。
手を膝に乗せ、呼吸を落ち着かせつつ顔を上げて前方を見やる。
少し間合いを空けたその先――ここまで通ってきたギラギラと光る看板の店とは対照的に、前方の横側に見える『クラブ・パンデモ』と書かれた店の看板を照らす紫色の照明は、どこか淫靡めいた妖しい雰囲気を漂わせつつ、まるで一般人の立ち入りを拒み、入れば二度と出られなくなる異界のような、そんな不気味な薄暗さを感じさせた。
その店の入り口の前で、一組の男女が何やら揉み合っているようだった。
女性の方は金髪のポニーテールで、派手めの化粧に赤黒い毛皮のコートを羽織っている。おそらくは、目の前にある店のホステスであろう。
一方の男性はテッペン部分がハゲている頭にネクタイを巻きつけた、いわゆる昔ながらの悪酔いした中年男性であった。とはいえ、昨今見かける事も少なくなったステレオタイプの酔っ払い親父はある意味希少種とも言えるであろう。
傍目から見ても、明らかに酔っ払いの中年男性がホステスに言い寄って、女性側がそれを嫌がっているように見えた。
「ねー、アヤナちゅあーん……今日こそは同伴してくれるって約束したじゃなぁい?」
「それは以前お断りしたはずです! それに……お客さんはもうお店の借金もだいぶ溜まっているんですよ……? いい加減に払っておかないと、大変な目に遭うかもしれな――」
「んだと⁉︎ こちとら朝からクソみたいな上司や部下を相手にストレスを溜めてるってのに、アヤナちゃんまで俺を拒絶するのかい⁉︎」
「キャッ⁉︎」
腕をつかまれて身体を押され、壁際へと女性の背中がぶつかる。先ほど守が耳にした叫び声は、やはり目の前で酔っ払いに追いつめられているホステスから発せられたものだった。
「やめろッ――!」
思わず女性を助けたいという一心で、守は大声をあげる。そこでようやく、ホステスと中年男性は守の存在を認識した。
「っ――⁉︎」
「あん? 誰だてめぇ?」
ギロリと守を睨みつける酔っ払い。彼に未だ腕をつかまれながらも、助けを求めるようにホステスは守を見つめる。
二人の視線に緊張が走りながらも、守はなんとか言葉を続ける。
「か……彼女の手を離すんだ……! い……嫌がってるじゃないか?」
暴力沙汰に縁がない守にとって、辿々しげながらもこれが彼なりの精一杯の牽制であった。
しかし、しょせんそれは虚勢にすぎず、酔っ払い状態で凶暴性が増した男性にとっては火に油を注ぐ行為でしかなかったのだった。
「なんだてめぇ? ヒーロー気取りのオッサンか? それとも……てめぇもアヤナちゃんを狙ってるとか言わねえよなぁ?」
ギロリと力強く睨みつけられ、守の全身が震えだす。中年男性は見た目特別筋肉質というわけでもないが、腕力のまったくない彼ではとても太刀打ちできる相手ではないだろう。酔っ払いからホステスを無理やり引き離そうとしたところで、返り討ちに遭うのが関の山だ。
「……俺はアヤナちゃんとイチャイチャしてるだけで、傷つけようってわけじゃねえんだ。てめぇがアヤナちゃんの知り合いとかでもねえんなら、邪魔せずにおとなしくどっかに行きな?」
中年男性は守の様子から脅威になりえないとすぐに怒りが収まり、なおもホステスの腕をつかんだまま彼女に言い寄ろうとする。
男性の言う通り、見知らぬ女性を助ける理由など守にはありはしない。それでも――女性が困っているのを目にして見捨てられるほど、守も臆病な人間ではなかった。
「か……彼女は僕の恋人だッ! か……彼女を傷つけるなら……恋人の僕が許さないぞ……!」
守なりに声を張り上げ、酔っ払いの中年を精一杯睨みつける。
もちろん、彼女の恋人というのは口からのでまかせであり、彼女とはここで初対面にすぎない。それが嘘である事は、中年男性の方もなんとなくは察していた。
だが、たとえ嘘であっても『恋人』という単語を耳にし、酔っ払い状態の男性が冷静でいられるわけがなかった。
ホステスから手を離し、酔っ払い中年は守を睨みつけたまま、拳をボキボキと鳴らしてゆっくりと彼に近づく。
「てめぇもサラリーマンみたいだが、人生の先輩として教えてやるよ……余計な事に手を出せば、痛い目を見るのはてめぇ自身だってな!」
拳を振り上げ、中年男性は守に向かって走り出す。
「あう……死ぬのかな、僕……?」
諦観の言葉をこぼしながらも、守はとっさに防御の構えを取ろうとする。だが中年男性との間合いはそれほど空いておらず、腕を顔の前に構えて防ぐよりも、男性の拳が顔面へと届いてしまうであろう。
――だが、中年男性の拳が守に届く前に、何者かが男性の背後に現れ、頭部から彼を殴り倒したのだった。
「あがッ――⁉︎」
断末魔とともに、地面へと倒れ伏す中年男性。
「っ……」
守はすぐには何が起きたかわからず、呆然と中年男性を殴り倒した謎の人物を見上げる。
――比較的背が高めの守ですら見上げるほどの高身長である黒髪のその男は、薄暗い明かりの下でもなお目立つほどに赤くスラっとしたジャージを着込んでおり、何より特徴的だったのは左頬に刻まれた赤い蜥蜴の刺青であった。
その異様な佇まいは、彼が守とは違う世界の住人であると即座に理解してしまうほどの圧を感じさせた。
「…………」
刺青の男は守をひと睨みだけすると、すぐさま地べたに倒れている中年男性のえり首をつかみ上げる。
「うぐっ……ヒッ⁉︎ あ……赫羽根さん⁉︎」
わずかな間気を失っていた酔っ払いの中年男性は、無理やり引っぱり上げられた痛みで目を覚ます。自身をつかみ上げた人物の顔を確認して血の気が引き、酔いもすぐさま冷めてしまった。
「お客さん……この店は客との同伴を禁止しているわけじゃあねえが、テメェは店にツケがまだたんまり残ってるだろうが?」
「そ……それは……」
遠目から見ても、先ほどまで酔っ払っていた中年男性の全身が明らかに震えている。男性の尋常ではないほどの恐怖が見ているだけの守にも伝達して、彼の身体すらも震えさせてしまう。
「テメェのツケはすでに百万を超えている……延滞料と迷惑料を上乗せして三百万、今すぐ払え」
「さっ、三百万⁉︎ うぅ……あ、明日まで待っていただけるなら……」
「あ? そう言って高飛びでもする気だろ? ……ここじゃあなんだ、裏の方で続きでも話そうか?」
そう言って中年男性を店側の壁に放り投げる。店の前にはいつの間にか、彼の部下と思しき赤ジャージを着た若者たちが数人立っていた。
「連れてけ」
合図とともに、若者たちが乱暴に中年男性を裏路地のさらに奥へと連れて行こうとする。
「ヒィッ! た、助けて! 死にたくないッ!!」
叫び声もむなしく、彼は明かりすら届かなくなった裏路地の奥の闇へと連れて行かれてしまった。
「っ……」
わずかな間に起こった非現実的な光景に守は言葉を失い、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
そんな守に、先ほど赫羽根と呼ばれた刺青の男が振り返る。
「うっ……!」
――何が起こったのかはわからないが、この場にいる僕も彼らに何かされるのだろうか……?
本能がこの場から逃げろと叫び出しても、身体はこわばって動く事ができなかった。
「…………」
しばらく何か観察されるように彼に睨まれ続けた後、
「……フン」
興味をなくしたのか、何も言わずに彼も男性が連れこまれた闇の奥へと消えていってしまった。
「……あっ」
緊張が解け、守は一瞬重力が失ったかのように地面に尻もちをついてしまう。目の前で起きたわずか数分の出来事は、これまで平凡な人生を歩んできた守にとってはあまりにも衝撃的で、未だに脳の処理が追いついてないでいた。
――刺青の男は何者なのだろうか?
ヤクザ――と呼ぶにはあまりにも凶暴性が身体からにじみ出すぎている。かといって不良と呼べるほどの荒々しさもあまりなく、どこか貫禄のようなものも彼からは感じられた。
どちらにしろ、彼は守にとって今まで関わった事のないタイプであり、本来危ないところを助けてくれた恩人でもあるのに、抱く感情は恐怖以外に何もなかった。
「あのぅ……大丈夫ですか?」
ふいに誰かから声をかけられる。守が見上げると、先ほどまで中年男性に言い寄られていたホステスが彼を覗きこみ、手を差し伸べていた。
「その……助けてくれてありがとうございます」
金髪のポニーテールや毛皮のコートを身につけているせいで派手なイメージがあったものの、明かりの下でようやく見えた表情は実に可愛らしい感じの女性であった。
「あ……えっと……どうも……」
軽い女性恐怖症のせいで女性と触れ合う機会がほとんどなかったためか、多少しどろもどろにはなってしまったが、守は素直に彼女の手を取って立ち上がる。彼女のような派手めな女性こそ彼にとっては苦手な対象であるはずなのだが、なぜかその女性に対しては自然とそれほどの忌避感はなかったのだ。
「改めてありがとうございます。さっきのお客さん、前々からしつこく言い寄られて迷惑だったんですけど、あなたのおかげで助かりました」
「ああ……いえ、僕なんて実際何かしたわけでもなくて、むしろみっともないところを見せてしまったなぁ……なんて」
「そんな事ないですよ! 大声で『彼女は僕の恋人だッ!』って言ってくれたところ、すっごくカッコよかったですよ?」
日常的に褒められる事が少なかったせいか、それがお世辞であるかもしれないとわかっていても、悪い気はせずに守は照れてしまう。
「そのぉ……さっきのほっぺに刺青があった人は、君の彼氏さんだったのかな? だとしたら、すっごい失礼な事言っちゃったよね……?」
女性は守の問いにしばらく目をぱちくりし、すぐに「アハハ!」と楽しげに笑う。
「違いますよ。彼はお店の……わかりやすく言うと警備員みたいなもんです。特に彼とは男女の関係とかではないので、安心していいですよ?」
「あっ、いえ! 別にそういうのを気にしてたわけじゃなくて……」
改めて女性の顔を見ると、派手な外見からはギャップさを感じれるほどに可愛らしい顔立ちをしていた。香水の匂いは多少キツいものの、化粧はそれほど派手派手しくもなく、服装さえ普通にしていればとても水商売をしている女性とは思えないほどに清楚な雰囲気をまとわせていた。
女性への関心が昔よりも薄くなったとはいえ、これは心くすぐられる男性もいるであろうと十分に納得できるほどに、守から見ても彼女は美人であった。
だがそれ以上に、守は彼女からどこか懐かしさのようなものを感じていた。まるで、以前どこかで会ったかのような――、
「あれ……? もしかして……守くん?」
ふいに、まだ名乗ってもいないのに女性が彼の名を呼んだのだった。
「え……? どうして僕の名を……?」
突然名を呼ばれて混乱する彼をよそに、女性は嬉しげに彼の両手を取ってはしゃぎだした。
「私よ! 浅見綾香! 小学生のころ、守くんの家の隣に住んでいた」
その名を聞き、守はようやく彼女から感じた懐かしさの正体がわかった。
「綾香ちゃん……なのか?」
見た目こそずいぶんと変わったものの、間違いなく彼女は守にとってのかつての幼なじみの女性であったのだ。




