第3話 誘蛾灯
「……ろ……きろ………… 」
「スピー……スピー……」
「…………いい加減起きろ、クソ親父ッ!!」
「ボフッ⁉︎」
何かやわらかい物に顔を押し潰されるような感触とともに、天川守は眠りから目覚める。いつもは閉め切っているはずのカーテンも開かれていて、初夏の陽光が爛々と差し込んでいた。
「あ、あれ……? あっ、そうか。昨日、久々に我が家に帰ってきたんだっけ……」
「たくっ、帰宅早々寝ぼけてるんじゃねーですよ? ほら、朝食もできてるんだから、さっさと準備する」
「あはは、起きたら朝ごはんができてるなんて幸せだなぁ……」
まだ眠たそうにしている目をこすりながら、守はゆっくりとベッドから立ち上がる。
「あ、忘れちゃいけないね……おはよう、進ちゃん」
優しげな笑みを娘に向けて挨拶する守。数ヶ月ぶりに帰ってきても変わらずマイペースな父に呆れながらも、
「…………おはよ」
っと、少し照れぎみに挨拶を返すのであった。
◯
「ほら、ハンカチとかスマホとか、忘れ物ない?」
「大丈夫だって。出張先での一人暮らしも長かったんだから、一通りの事は自分でもやれるよ?」
進と守――父娘二人は共に玄関にて、学校と職場へ向かうための最終準備をしていた。
「親父は普段がダメダメだからなぁ。だから、アタシがしっかりしなきゃいけないわけで」
「あはは、それはたしかに否定できないね。でもその分、進ちゃんが変わらずしっかりしてるのが確認できて、お父さんは嬉しいよ」
のんびり屋でマイペース。それが幼きころからの進の父に対する印象であった。どんな人間相手にも常に笑みを向け、優しく接する。
そんな常時頭がポカポカした陽気のような父親に、進は子供のころからすでに危うさを感じていた。騙されているとわかっても、善意で怪しい壺を買ってしまいそうな、そんな危うさだ。
もちろん、常識的な危機管理能力は備えているのでそんな事は一度もないのだが、それでもいつか身も知らぬ誰かのために命すら投げ出すのではないかと、娘は常に気がかりでいたのだ。
そのため、父が離婚した後の進は子供ながらも、彼の身の周りの世話にしばらく没頭するようになったのだ。妻がわり――というよりはどちらかというと母のように、彼の身辺を常時気にかけていた。
長期の出張が始まったころは心配でたまらず、毎日電話するように父に言い聞かせていた。今はそれほど過保護的な行動は少なくなったのだが、それでもいつかフラっと消えてしまいそうな父を気にかける進の気持ちは依然変わりなかった。
そんなおせっかいな娘の気持ちを、当然父親の方も気づいていた。といっても自身が頼りないからというよりは、自分を甲斐甲斐しく世話をする事で母のことを忘れられるからではないかと、守は娘の行動を解釈している。
だからこそ娘に頼れる父であるというよりは、共に互いを支え合う関係性でいこうと守は決意したのだ。その甲斐あってか、娘は誰かを思いやれるしっかりとした性格に成長してくれた。その事が、守にとって何よりも嬉しいのであった。
「なぁ、親父……本社勤務になったからこっちに戻ってきたってのはわかるんだけどさ……せっかく戻ってきたんなら、有給取ってちょっとは落ち着くってのもいいんじゃないか?」
ふと、ボソッとつぶやくように進が父に仕事を休めるのではないかと提案する。
進が父の身の周りの世話をするのは、何も彼が頼りないからというだけではない。実際、仕事方面では父は熱心で頑張り屋なのを彼女もよく知っている。
その理由は映画が好きだからだというのもあるだろうが、決してそれだけではない――。
天川進は基本、父に対してワガママを言う事はほとんどない。ホラー映画に付き合う事だけは断固拒否しているが、逆に言えばそれぐらいである。
否、もう一つ大きなワガママを進は幼いころに口にしてしまい、それが未だ父に重い枷としてのしかかっている事を、進は痛いほどに理解している。
進はリビングへと続く通路へと視線を向ける。その先に見つめるは、テレビ横のタンス棚に仕舞われた一冊の銀行手帳が入った小さな金庫。
娘の視線がどこに向けられているかは父にも十分伝わっており、あえてそれを口にしない彼女の優しさを噛みしめる。
「進ちゃん、僕は好きで今の仕事を頑張っているんだから、変に気を使わなくても大丈夫なんだよ? それに……君が『あのお金を使いたくない』と、子供の時に言わなかったとしても、僕はあのお金に手を出すつもりはない。あれは進ちゃんが大人になった時に渡すと決めているんだ。その後どう使うかは君に任せるつもりでいる。だから……」
そっと優しく、娘の頭に手を乗せて軽く撫でる守。進は少し驚き、恥ずかしくなりながらも、手をどけるような事はしなかった。
「……だから、進ちゃんは僕のことで気負いすぎないでいいんだよ? 進ちゃんはまだ高校生なんだから、親よりもまずは自分に気を置きなさい」
はにかんだ笑みを娘に向ける父。進も珍しく優しげな笑みを返しながら――、
「――そういう言葉は、娘お手製の弁当をカバンにしまい忘れないようにしてから言うんだぜ?」
優しい笑顔がいたずらっ子のようにニッとした笑みに変わり、いつのまにか握っていた父のふろしき包みの弁当箱をユラユラとゆらしている。
「……あはは、やっぱり進ちゃんには頭が上がらないね」
――少しヘンテコな父娘のやりとり。しかし、基本的に一緒にいる事が少ない二人にとっては、何よりも幸福な時間なのであった。
◯
――僕は好きで今の仕事を頑張っている――この言葉に決して偽りはない。
映画が好きだからこそ、同じ映画好きの人たちに少しでも興味を惹かせられるように、天川守は映画の広告会社に入ったのだ。
――だがしかし、仕事の内容が好きだからといって、取り巻く人間関係が良好なものとは限らないのだ。
「天川くん……長期出張から帰ってきてさっそく、上司である私に意見するとは何事だ……⁉︎」
メガネをかけた小太りの初老の男性が、蔑むような瞳で天川守を見下ろす。そんな男性の瞳に視線を合わせる事に耐えきれず、守はただじっと床を見つめていた。
「その……荒川部長の指示通りのデザインですと、映画の魅力が伝えきれないと言いますか……」
主題は数ヶ月後に上映予定の映画、そのポスターのデザインを決めるというもの。その内容は会議にていくつもの案が出たにも関わらず、荒川部長と呼ばれた守の上司の独断で、彼の案が強行されようとしていたのだ。
「その……この映画はアクションをメインとしたものであって、まるで感動物語のような印象を抱かせるデザインは、映画の本来伝えたいテーマがお客様に伝わらないのではないかと――」
「うるさい! いいか、日本人にはお涙ちょうだいな感動ものか、よくあるラブストーリーだと思わせれば一定層は食いつくんだよ。本国で大して話題にもならなかった海外のアクションものなど、客を騙すぐらいの事でもしなければ、そもそもの集客も見込めんのだよ⁉︎」
「し、しかし……それでは観てくれさえすれば、作品を好きになってくれたかもしれないお客様にそもそもの興味を持ってもらえず、映画を楽しむ機会を損失させる可能性が――」
「黙れ! まだ私に意見する気か⁉︎」
室内には他にも部下がいるにも関わらず、荒川部長はさらに声を大にして守を怒鳴りちらかす。同僚たちの哀れみを込めた同情の視線、または不幸な姿を楽しむようなゲスさがこもった嫌らしい笑みが、守の背中に突き刺さる。
――口答えせず謝るだけでいれば、すぐに解放されるのに――その視線に込められた感情が背中越しに伝わり、ただただ胸が痛くなるのを、守は耐える事しかできなかった。
別段珍しい事ではない。上司に意見しては封殺され、同僚たちの憐憫と軽蔑の視線を浴びせられるのも、ここでも出張先でも何度も味わった。
――好きなものを好きになってくれるかもしれない誰かに、魅力をそのまま伝えられないという理不尽な現実。
――それが、天川守にとっての日常であった。
◯
「うぅ……いけない、つい飲みすぎてしまった……」
退社後、守は桑扶市にある居酒屋で一人飲み明かし、フラフラとした足取りでようやく帰路につくとこだった。昼間は学生や主婦たちが行き交う繁華街を、月の出る夜空の下ではギラギラと輝くネオンが、疲れきったサラリーマンたちを様々な悦楽へと誘う大人の街に染め上げていた。
普段は人のいい守ではあったが、当然ストレスを感じないなどといった事はなく、本社に戻ってさっそくの上司による洗礼にもちろん怒りは抱いた。しかし、一平社員でしかない彼には必要以上のアルコールでヤケ酒するぐらいしかできる事はなかったのだった。
「お酒弱いのに中ジョッキ五杯は飲みすぎたなぁ……頭は痛いし吐き気もすごいし……これはまた進ちゃんに叱られそうだ……」
また鬼のような顔になった娘のことを思うと、本来は楽しみであるはずの帰宅に足が遠のいてしまい、ついつい普段は使わない裏路地へとふいに足を踏み入れてしまった。
たまたま入った裏路地にはキャバクラや風俗店、いわゆる大人のお店的なものがずらっと並んでいた。暗い夜道を照らすように置かれたいくつもの妖しく光る看板は、まるで祭りへと誘う提灯飾りのよう。
「…………」
トラウマ――と言わないまでも、離婚した元妻の不倫が原因で、守は軽度の女性恐怖症を患っていた。
同僚の女性など、比較的身近な女性ならば軽めの応対ぐらいはできるものの、女性と二人っきりで同じ空間に長時間いたりすると、悪い意味で動悸が激しくなってしまう。ましてや、キャバクラなどの派手めな女性と密着するような場所など、彼にとっては踏み込む事のない未知の領域であった。
当然、一生縁もないであろう場所へと進む理由など彼にはなく、無言でそれらの店に背中を向けて、元の帰路につこうと足を戻そうとする。
しかし――、
「キャアアアアアアッッッッ――――!!」
ふいに聞こえた女性の叫び声に、踏み出した足を止めてしまった。
「っ――⁉︎」
周りを見渡しても裏路地へ視線を向ける者はおらず、つまりはその悲鳴に気づけたのは守ただ一人。
振り返り、裏路地の奥を見つめる。通る人影はなく、その最奥に右への曲がり角が一つ。叫び声の主はおそらく曲がり角の先にいる。
繁華街の光がわずかにしか届かない、風俗系列店が並ぶだけの怪しき裏路地。その先で聞こえた叫び声など、きっとロクな事が起きていないに決まっている。
頭でそうは思っても、ゴクリと息を呑みながら守は、裏路地へと足を進めてしまった。
――それは、映画でよく聞くような耳通りのいい叫び声ゆえ、探究心が刺激されしまったからだろうか。
――あるいは、映画の主人公のようになれるかもという淡い期待ゆえか。
――それとも、その声がどこか懐かしさを帯びたような、そんな錯覚を覚えたからであろうか。
ともかく、天川守の脚は自然と、その叫び声が聞こえた所まで走り出したのであった。
――彼の走る道を照らす風俗店の看板の灯りが、これから起こる非日常の入り口へと誘う誘蛾灯であった事を、この時の守はまだ気づけないでいたのだった。




