第23話 名前を覚えるということ
『フィ……フィ……フィ…………』
『っ……』
机でゆっくりと魔法戦術論と書かれた魔導書を読みふけっていたフィルエッテは、ふいに自身の横で小さな女の子が何か言葉を発しようとしているのに気づき、気まずさで本から目を離す。
『フィ……フィ……フィ――』
『――フィルエッテよ! あなた、もうここに来てから一ヶ月は経ってるのよ? いい加減、同居人の名前ぐらい覚えなさいよね!』
――それはかつて、まだ二人が幼かったころの話。
フィルエッテの師匠であるエヴェリア・ヴィラリーヌが三人目の孤児を拾ってからひと月、シャルエッテと名付けられた少女は、未だ一緒に住んでいる住人の名前を誰一人覚えていなかった。師であるエヴェリアに対しても彼女は「おししょーさま」と呼んでいるため、正確に師の名前を言えるかも怪しいところだった。
『まさかとは思うけど……あなた、お師匠様からいただいた自分の名前も忘れた――なんて言わないわよね?』
『ハッ! はぅぅ……』
『…………ハァ』
思わず漏れ出てしまうため息。たった一ヶ月ではあるが、名前はもちろん、未だ魔法一つも覚えられず、普段の動きもどんくさい妹弟子にフィルエッテは辟易していた。
『うぐ……ぐっ……』
『あっ……』
自身の名前も覚えられてない事を指摘されたのがよほどショックだったのか、シャルエッテの目じりに涙が溜まり始める。
『ご、ごめんなさい、シャルエッテ……! 今のはワタシも言いすぎ――』
『――フィ……フィ…………フィル……』
『……っ!』
だが、なんとか涙がこぼれる寸前にこらえ、少女は諦めずに姉弟子の名を頑張って呼ぼうとする。
『フィ…………フィルお姉ちゃん!!』
『…………』
だが、結局は三文字程度が彼女の限界のようだった。
『……悪いけど、本当の姉妹というわけでもないのだし、お姉ちゃんとは呼んでほしくないわね』
『っ――⁉︎ そんなぁ……』
再びぐずりそうになるシャルエッテ。それを面倒くさげに見つめながらも、再度ため息を吐きつつ、フィルエッテは妹弟子の頭を優しく撫でる。
『ふぇ……?』
『言ったでしょ、ワタシのことはフィルと呼びなさいって? ……本当は呼び捨てする事に遠慮を感じていたんでしょうけど、同じ師を持つ弟子同士なんだから、もう少し気軽に接してくれてもいいのよ? そうね……かわりに、ワタシはあなたをシャルと呼ぶわ』
『っ……!』
シャルエッテは驚きで目を見開く。師に拾われて以来、ほとんど無表情なところしか見せなかった姉弟子に対して冷たい印象を抱いていたため、こうして優しげに微笑んでくれたのは初めての事であった。
それだけで、シャルエッテは勇気を出して彼女に声をかけてよかったと思えたのだった。
『そ、それじゃあ……フィ……フィ…………』
『……っ』
再び姉弟子の名を呼ぼうとするシャルエッテ。そんな必死な妹弟子の様子に、自然とフィルエッテも拳を握りしめてしまう。
そして――、
『フィルちゃんっ!!』
大声で姉弟子の名を呼び、「どうでした⁉︎」と言いたげな期待を乗せた視線で彼女を見つめるシャルエッテ。
『……結局、六文字になってるじゃない?』
『はう⁉︎ たしかに……』
たしかにと言いつつ、頭の上に大量のはてなマークを浮かべて呆けるシャルエッテ。そんな幼き少女の様子に、フィルエッテは思わず吹き出してしまった。
『ふえ⁉︎ なんで笑うんです⁉︎』
『ブッフフ……ご、ごめんなさい』
自身を高める事にのみ全てを注ぎ、他の弟子に対してあまり関心を抱かなかったフィルエッテだったが、この時ばかりは目の前の妹弟子を愛おしく思えたのだった。
『シャル……あなたにもこれからいろんな出会いがあると思うわ。でも、それら全員の名前を覚える必要はない。そのかわり……あなた自身が興味を惹かれた人、好きだと思える人の名前ぐらいはちゃんと覚えるようにしなさい。……人間界の言葉に『言霊』というものがあるのだけれど、名前とは魔法名を口にするのと同じ、名前そのものに魔力が宿るのよ。名前を呼び合うという事は、互いの心を繋げ合う大事な儀式なの』
『名前を呼び合う……』
この言葉が、シャルエッテにとって初めての姉弟子からの助言となった。この言葉を、彼女は強く心に刻みつける。
『……わたし、頑張っていろんな人の名前を覚えていきますね、フィルちゃん!』
『……フフ、もうその呼び方でいいわ、シャル』
――それは遠い彼方の記憶。シャルエッテとフィルエッテが、初めて心を通わせた出来事であった。
◯
『――――ちゃん……ちゃん』
――遠くから声が聞こえる。辺りは真っ暗闇の海の中。
――沈んで、沈んで、堕ちてゆく。
――自然と脳が理解していく、ワタシはもう死ぬのだと。
――当然の報いだ。大切な妹弟子をこの手にかけようとしたのだ。死ぬ事が彼女への償いになるのなら、ワタシは喜んでこの命を投げ出せる。
……なのに、なぜ――、
『――ちゃん……えちゃん!』
――――なぜ、ワタシは手を伸ばしているのだろう。
◯
「――えちゃん……お願いです……目を覚ましてくださいっ!!」
シャルエッテの瞳からこぼれる涙が、倒れているフィルエッテの頬を伝う。
いくら呼びかけてもフィルエッテが目覚める気配はなかった。かすかにまだ息はしているが、いつ止まるかもわからないほどにか細い呼吸音であった。
「死んじゃ嫌です! やっと背中に追いつけそうだったのに……またわたしを置いていかないでください……!」
彼女の肩をゆする。何度でも呼びかける。絶望的なのはわかっている。
それでも、シャルエッテはまだ諦めきれなかった。
「お願いです……わたしの前からいなくならないで…………フィルお姉ちゃん…………」
諦めきれず、それでも何もできない自分が悔しくて、フィルエッテの胸に顔をうずめてしまう。
――その頬に、暖かい何かが触れた。
「――――言ったでしょ……お姉ちゃん呼びは好きじゃないからやめなさいって」
「――っ⁉︎」
顔を上げる。シャルエッテの視線の先には、微笑みながら見つめ返してくれる姉弟子の顔があった。
「――――あなたの勝ちよ、シャル」
「…………うぅ……フィルお姉ちゃぁあああんんんっっっ!!」
涙目のまま喜びで思わず、シャルエッテは倒れたままの姉弟子を抱きしめる。そんな震える彼女の肩に手を乗せて、フィルエッテは優しくポンポンと叩いた。
「頑張ったわね、シャル……あなたの成長をこの身体で感じて、何よりも嬉しく思っているわ」
姉弟子からの激励の言葉。シャルエッテは嗚咽で返事もできず、ただ彼女の無事を心から喜んでいた。
「なんとか、二人とも仲直りできたみたいだな?」
フィルエッテはすぐに気づけなかったが、シャルエッテだけでなく、その後ろに控えていた諏方たち三人もホッとしたような顔で彼女を見つめていた。その内の一人である東野青葉は、彼女の身体にゆっくりと包帯を巻いてくれていた。
「諏方さん……ごめんなさい、ワタシ、皆様にもご迷惑を……」
「んな事とりあえずは気にすんな。それより、すぐに病院に運ばなきゃだな……白鐘、病院に連絡してもらえるか?」
「もちろん、今やってるよ」
スマホをすでに取り出して病院に連絡しようとする白鐘。
「大丈夫です、えっと……白鐘さん……人間の治療法では、魔法使いを完全には治せないので、お気を使わなくてもけっこうですよ」
「え? でも、このままじゃ……」
「……人払いの結界が先ほどのシャルのバースト魔法で壊されて、魔力を感知した境界警察が間もなくこちらに向かうでしょう……境界警察には治療部隊も存在します。彼らならシャルも……多分ワタシも、なんとかしてくれると思います」
その言葉を聞き、フィルエッテを抱きしめたままでいたシャルエッテが、驚いて思わず顔を上げてしまう。
「でも……それじゃあフィルちゃんが……」
フィルエッテの言葉通りなら、シャルエッテも彼女も無事に治療はしてもらえるのだろう。だが、境界警察に行くという事はすなわち――、
「シャル……ワタシは暗示魔法にかけられていたとはいえ、人間界への不法入界、諏方さんたち人間も巻き込んで襲った事による人種不可侵の罪を犯してしまったのよ。……捕まる事は、覚悟の上だわ……」
「フィルちゃん……」
フィルエッテの言う通り、暗示魔法による支配下にあったとはいえ、彼女はいくつもの罪を犯してしまっている。境界警察に連れて行けば治療はしてもらえるだろうが、同時に彼女は彼らによって逮捕される事になるだろう。
だが、その事にシャルエッテが納得するはずもなく、涙をぬぐった彼女の瞳には強い意志が宿っていた。
「……わたし、境界警察の方々に掛け合ってみます。だって、フィルちゃんはヴェルレインさんに利用されていただけなのに、逮捕だなんて……そんなのわたしが許しません!」
「シャル……本当にあなたって子は……」
こうなったシャルエッテはとことん意固地になるのをフィルエッテは理解している。とはいえ、これほどの大事を起こした自身が境界警察に快く扱われるはずがないのもわかっている。
どうしたらおとなしく自身が逮捕される事を受け入れてもらえるかを思案していた直後――シャルエッテの背後に、何者かの腕が忍び寄る。
「っ――⁉︎ シャル! 後ろっ!!」
伸びゆく不気味な手。それが振り返ったシャルエッテの顔に触れる直前――その腕がガッシリと何かに掴まれる。
「ッ――⁉︎」
腕を掴み、その主を強く睨み上げる諏方。そして――それを同じく強い視線で睨み下ろしていたのは魔女であった。
「テメェ……今シャルエッテに何しようとしやがった……⁉︎」
「…………」
睨み合う人間と魔女。いつも妖艶な笑みをほとんど絶やす事のなかったヴェルレインが、ここに来て初めて、明確な敵意の視線を諏方に向けたのであった。
「……ふん」
「ッ――⁉︎」
一瞬、彼女の腕を掴んでいた手に焼きつくような熱が走り、とっさに彼女の腕から手を離してしまう。ヴェルレインはすぐさま後方へと飛び退き、いつものように両手で日傘をさした。その顔に、いつもの余裕ある笑みが戻る。
「大した事ではないわ。シャルエッテちゃんがこれほどまでに成長していたのは、私としても予想外だった……だから、優秀な手駒にできると思って、暗示魔法をちょっとかけようとしてあげただけよ?」
「ッ……テメェ……どこまで腐ってやがるんだ……!」
視線を交じわせ、牽制し合う二人。彼らから発せられる圧に息を呑まれ、他の四人は声を出す事もできずにいた。
先ほどまで激しい戦いを演じた二人の魔法使いも改めて認識してしまう――目の前で視線をぶつけ合っている二人は、自分たちとはあまりにも次元が違う存在であると。
「……いい加減テメェの目的を話しやがれ! ここまで用意周到に仕掛けておいて、ただの気まぐれで二人を戦わせただなんて言わせねえぞ⁉︎」
吼えるような声で問いただす諏方。その声は脆弱な者であれば、聞くだけで気を失ってしまいそうなほどの圧力が込められている。
しかし、ヴェルレインはまったく動じた様子も見せなかった。
「フフ……それはまだ内緒。でも……いずれ嫌でもわかる時が来るわ」
そう答えると同時に、彼女は自身の身体を宙に浮かび上がらせる。
「テメェ! また逃げる気か⁉︎」
「フィルエッテちゃんの言う通り、間もなくこちらに境界警察が到着する。彼ら全員を相手にしても負ける事はないけれど、無駄な魔力は極力消費したくないのよ」
だんだんと高く身体を浮かび上げながら、ヴェルレインは視線をシャルエッテとフィルエッテの方に移す。
「あなたたちの戦い、予想よりはずっと楽しめたわ。……シャルエッテちゃんは潜在魔力を引き出すための魔力コントロール力を身につけなさい。……フィルエッテちゃんは既知の魔法戦術論に捉われず、柔軟に動けるよう経験を積みなさい。……互いにまだ成長の余地はあるのだから、これからも鍛錬を怠らないことね」
意外にも魔女からかけられた言葉は適切なアドバイスであった。予想だにしなかった助言に、二人はただ戸惑うばかり。
彼女の助言にどんな意図が含まれているかはわからないが、それでもアドバイスそのものは的確なところを指摘されたため、シャルエッテたちも言い返す事ができなかった。
「それでは皆々様、本日は私の催した二人の魔法使いによる決闘をお楽しみいただき、誠にありがとうございました。……また会えるのを楽しみにしているわね」
最後にそう言い残し、一陣の風とともにヴェルレインは姿を消した。同時に、辺りを包んでいた緊張も消えて、空気が軽くなった。
そんな中、諏方は一人拳を強く握りしめる。
「……何を企んでるかは知らねえが、必ず決着はつけてやる……!」
握りしめる拳の痛みを胸に、諏方は固く心に誓うのであった。
――その後ろで、一人の少女の呼吸が乱れ始める。
「ハァ……ハァ……」
「っ……フィルちゃん? ……フィルちゃん⁉︎」
緊張の糸が解けたためか、フィルエッテの心が安堵したと同時に、彼女の意識が再び薄れ始める。
明らかに危険な状態であった。このまま放っておけば、命すら危うい。
そして――危険な状態になっていたのはフィルエッテ一人だけではなかった。
「フィルちゃん! ……フィル……ちゃ……」
必死の声で呼びかけていたシャルエッテも意識が薄れ、倒れているフィルエッテに重なるように彼女も倒れてしまう。
極度の緊張からの解放と魔力の大量消失、そして身体全体に走る痛みと疲労が、二人の意識を薄れさせていたのだ。
「フィルちゃん…………」
「シャル…………」
二人の魔法使いの少女は互いに手を握りしめ合い、呼びかける諏方たちの声もかすかに耳にしながら、意識を暗闇の中へと閉ざしていく――。




