第10話 父娘ゲンカ
「…………」
「…………」
食卓に父娘二人。互いに何も喋らず、ただ黙々と晩ごはんを口に運んでいく。
シャルエッテがこの家に居候して以来、おしゃべりな彼女が同席した食卓は常に明るい団らんの場となった。しかし、彼女のいない今は冷え切った夫婦の食事のように、重く静かな空気だけが流れていた。
シャルエッテが部屋にこもってからすでに五日が経過している。結局、彼女はこの一週間学校に来る事はなく、トイレ以外では部屋から出る事もなくなっていた。食事は毎回白鐘が彼女の部屋へと運んでいるのだが、それもほとんど手をつけられる事はない。学校終わりに毎日青葉がシャルエッテをカウンセリングするものの、それでも改善は依然見られないでいる。
本当は時間をかけて、シャルエッテの心の傷を治していきたいのは山々ではあったが、いつヴェルレインたちが戦いの場を整えるかわからない以上、一日でも早く彼女には立ち直ってほしいのが諏方の考えではあった。それだけに今は平然を装ってはいるが、彼の心の内は焦るばかりである。
「……ごっそーさん」
「……うん」
食器の片づけを娘に任せ、諏方はそのままシャルエッテの部屋へと向かう。
元物置である彼女の部屋。魔法の実験によって幾度となく破壊されては修復された扉も、今はまるで鉄塊の門であるかのように、前にするだけで息苦しさを感じさせてしまう。
「……入るぞ、シャルエッテ」
扉に軽くノックをし、諏方はシャルエッテの部屋へと入室する。
部屋はランプの明かり一つが点いているだけで全体的に暗かったが、その明かり越しに諏方に向けて顔を上げるシャルエッテが見えた。その顔に笑みを浮かべてはいるが、今にも消え入りそうなほどに弱々しい笑顔であった。
「こんばんわです、スガタさん」
「……おう。メシは食えてるか?」
特に意味のない質問であった。彼女のベッド横の棚に置かれた夕食のおかゆには、ほとんど食べられた形跡がないのは見てわかるからだ。
フィルエッテに襲われたあの夜以来、こうして食事もろくに取らなくなったシャルエッテは日に日に痩せ細っていく。諏方や白鐘たちの前では笑ってみせるものの、今のように力ない笑顔しか浮かべる事ができなくなっていた。
「……少しは元気が出せたか?」
「……何を言っているんですか? わたしはいつだって元気百パーセント……ですよ」
一パーセントも元気のこもっていない声で返事するシャルエッテ。
「……そっか。ま、もっと元気が出せるようにメシはちゃんと食ってくれよ?」
「えへへ……まだ食欲があまりなくて……ごめんなさい……」
この調子で、何かあるとシャルエッテはすぐ謝ってばかりでいた。そのせいで、彼女との会話も途中で煮詰まってしまい、最後には気まずげな空気にどうしてもなってしまうのだった。
「そっか……それじゃ、お前の様子も確認できたし、俺は部屋に戻るぜ」
「はい……おやすみなさい、スガタさん」
なるべく彼女を心配させないよう、諏方は努めて笑顔で彼女に振り返り、そのまま部屋を出てしまう。
「はぁ……………情けねえ」
青葉や進と話し合ったあの日以降も、諏方はシャルエッテを未だ説得できずにいた。やつれていく彼女の姿を見るたびに、どう声をかけるべきかわからなくなり、言葉が詰まってしまうのだ。
「……『フィルエッテのシャルエッテに対する憎しみは、誰しもが持ってるような些細な憎しみなんだぜ!』って言ったって、あの子がシャルエッテに憎しみを抱いてた事実は変わらねえし、余計にシャルエッテを傷つけるだけだよなぁ……」
このように、フィルエッテの抱く感情を理解まではできたものの、それをシャルエッテへの説得の言葉に繋げられないでいたのだ。
シャルエッテを説得するには、ただフィルエッテの感情をストレートに告げるだけでは意味がない。
――まだ何か、シャルエッテを説得しうるためのピースが足りないでいる――。
そこまではわかっているものの、そのピースがすぐに見つかるわけもなく、諏方もただ悶々とする時間を過ごす事しかできないでいるのだった。
「……シャルちゃん、やっぱりご飯食べてなかった?」
思考が堂々巡りする父に声をかけたのは、すでに寝巻き姿になった娘であった。
諏方が無言で首を横に振ると、白鐘も深くため息をつく。
「……このままだと、心の前に身体がダメになっちゃうわね」
白鐘もまた、少しでもシャルエッテに食事をしてほしいと食べやすい料理を用意したりなど工夫はしているものの、一向にほとんど食べようとしない彼女に頭を抱えていた。
「……ねえ、お父さん。あの二人……ううん、あのフィルエッテちゃんって子だけでも、戦わずに説得させることってできないかな?」
「……っ?」
どこか必死さが混じったような表情で、白鐘が諏方に提案をする。
「だって、二人とも同じ師匠のお弟子さんなんでしょ? たしかに今はヴェルレインって人に操られてるのかもしれないけれど、頑張って説得すれば、もしかしたら正気に戻るかもしれないじゃない? そうしたら、二人とも戦わずに済むとは思わない……?」
内心、そんな事は難しいとわかってはいるのだろう、白鐘は震える手をもう一方の手で抑えている。
――それでも願えるなら、同じ弟子同士である二人には争ってほしくなかった。なにより、シャルエッテにこれ以上傷ついてはほしくないのだと、白鐘はどうしても言葉に出さずにはいられなかったのだ。
だが、返ってきたのは深いため息だけだった。
「白鐘……フィルエッテがかけられた魔法は単純な洗脳とは違うんだ。あの子には悪意が植え付けられたんじゃねえ、心の奥底にあった憎しみを増幅させられたんだ。……たとえ説得に応じてくれて、魔法が解けたとしても、それが根本的な解決にはならねえ。結局、二人の心にはしこりが残ったままになっちまうんだ。そんな状態で上辺だけ仲直りしても、元の関係には戻れねえだろ?」
「っ…………」
――心のどこかで、父なら自身の言葉に耳を傾けてくれるのだと思っていた。それが難しい提案でも、否定せずに試行錯誤して一緒に考えてくれるのだと期待していた。
身勝手だとはわかっていても、真っ向から否定した父親に、白鐘は疲弊していた心がプツリと切れてしまった。
「……じゃあなによ、今のあの状態のシャルちゃんを戦わせて、傷ついたってどうでもいいってお父さんは思ってるの⁉︎」
「なっ……誰もそんな事言ってねえだろ! 俺だってシャルエッテが傷つかずにあの子と仲直りできるんなら、それが一番だって思ってるさ! だけどよ、あのフィルエッテって子の心情を考えれば、そんなのは難しいってわかっちまったんだよ! それならいっそ、お互い納得し合うまで戦わせた方がマシだろうが!」
白鐘がいきなり怒り出した事に諏方も最初は戸惑ってしまっていたが、彼もここ数日で心が疲弊しきっており、冷静さを失って娘に強く反論してしまう。
「っ……そうよね、お父さんって元不良だったものね。みんなお父さんのような不良みたいに、お互い殴り合ってればなんでも解決できるとでも思ってるの? シャルちゃんは女の子なんだよ? 女の子の心は、お父さんが思ってるよりもずっと繊細なの! もうちょっとデリカシーってものを考えてよね!」
「……お前、そこで女の子とか言い出すのは卑怯だろ? たしかに俺は元不良だけどよ……だからってそういう言い方はねえだろ?」
「っ――⁉︎ それは……」
「――――いい加減にしてくださいっ!!」
いつのまにか部屋の扉が開いており、痩せ細った魔法使いの少女が顔を覗かせて二人を見つめていた。
「シャルエッテ……聞いてたのか……」
父娘二人は冷静さを失って気づくのが遅れてしまったが、彼女の部屋は防音もない至って普通の木製の扉だ。そんな扉の前で大声でケンカすれば、当然彼女の耳にもその内容は届いてしまっていただろう。
いつも笑顔を浮かべているシャルエッテが滅多に見せないような、怒りと哀しみが入り混じった瞳で彼女は二人を睨みつける。
「……わたしなんかのことで、二人がケンカするのはやめてください……! これはわたし一人の問題なんです……。二人は関係ないのですから、これ以上わたしのことで悩んだりケンカしたりしないでくださいっ……!」
彼女は歯噛みし、目尻に涙を溜めていた。シャルエッテは諏方や白鐘が口にした言葉で怒っているのではない。自身がキッカケで、仲の良かった父娘がケンカしているという事実が哀しかったのだ。
「……わたしなんかがこの家にいるせいですよね……。もうこれ以上、お二人に迷惑をかけるわけにはいきません……わたし、この家を出ていきます!」
大声でそう宣言すると、シャルエッテは諏方と白鐘の横を走り通って、二人のもとを去ろうとする。
「シャルちゃん⁉︎」
「おい! 待て、早まるなシャルエッテ⁉︎」
二人がシャルエッテを引き止めようとするも、彼女は振り返らず、走るのをやめようとしない。
「放っておいてください! もうケンカしているお二人を見たくないんです――――って、あっ」
廊下も突っ切らない内に、シャルエッテは走った勢いのまま滑り転んで倒れてしまう。
「シャル……エッテ……?」
返事はなく、諏方が近づいて様子を見ると、彼女は目を回して気を失っていたのだった。
◯
「栄養不足で力が入らなかったみたいね……。とりあえず、おかゆを温め直しておいたから、今度こそちゃんと食べなさい」
「はぅ……」
ベッドに運びこまれたシャルエッテは観念したのか、横に座る白鐘が差し出したスプーンに素直に口をつける。その様子に、白鐘も少し安心してホッと息をついた。
そんな二人を無言で、諏方は壁に背を預けながら見つめている。
彼にとって、娘とケンカする事は珍しいわけではない。だが、普段はここまで互いにヒートアップするまでは滅多にいかない。
今回ばかりは白鐘はもちろんだが、冷静さを失っていた自分自身に諏方はどうしようもない不甲斐なさを感じていた。
――シャルエッテだけではない。ここ数日でこの家の空気そのものが、確実に悪い方向へと流れている。
だがどれだけ考えても、一向に解決方法は見つからないままでいた。
――今一度、冷静に事態を振り返る必要があるのかもしれない。
「……わりぃ、ちょっと外出て頭冷やしてくるわ」
それだけを告げ、諏方はシャルエッテの部屋を出ていく。白鐘も今は一度父と距離を置きたいと、彼を引き止めるような事はせず、シャルエッテもまた、彼を引き止める気力はとうに失っていた。
◯
部屋を出てそのまま玄関で靴を履きながら、諏方は物思いにふける。
こうして『頭を冷やす』という理由で、夜に一人で外を出るのは初めてではない。白鐘とケンカするたびに彼は落ち着きを取り戻すために、タバコを持って一人で夜の散歩に出かけるのだ。
若返ってからは初めてになるが、この姿でタバコを吸うわけにもいかなく、そこらへんは物足りなさを感じつつ、どこへ行こうかと思案する。
とはいえ、こういう夜の散歩はどこへ行くかしばらくは悩みながらも、いつも決まって行く場所は一つであった。
「久しぶりに行くか――狭間山に」




