プロローグ パパの最後の朝
――風が吹く度、腰まで伸びた銀色の髪と丈の長い白の特攻服がゆらゆらと揺らめいた。
場所に覚えはない。地平線の如く、ただひたすら何もない荒野が続いている。
――いや、何もないは語弊だった。
足元には無数の――『オレ』に破れた不良たちが倒れている。ある者は痛みで白目をむき、またある者は怨嗟のこもった視線を俺に向けたまま意識を失っていた。
――ああ、なんてことはない。これはかつてのオレが見てきた日常だ。
喧嘩に明け暮れる毎日だった。
向かってくる敵は容赦なくなぎ倒し、集団で来る奴らはその全てを叩き潰した。
喧嘩を売られては買い、売られては買いを繰り返し、勝ち続け、気づけばオレの後ろには仲間と呼べる奴らができていた。
勝手に銀狼なんてあだ名が付いた。周りが勝手に盛り上がっているのを静観していたつもりだったが、今本音を語るなら、この事を内心嬉しく思っていたのかもしれない。
――だが、それ以上にオレには目指すものがあった。
音のない荒野に響いた靴の音。
「……やっぱりきたか」
興奮する心を隠すように、オレは一言静かにそうつぶやく。
――そうだ。オレには心残りがあるんだ。
――『あの男』との決着を、オレはまだつけていない。
青いデニムのコートを着た長身の男がゆっくりとこちらに近づいてくる。踏みしめる靴の音は重く、それだけで目の前の男が強者である事実を印象づけた。オールバックに後ろ髪を紐でむすんだ男は、ただ無言でこちらを見つめている。
「この時を……オレはずっと待っていた」
男は答えない。それでもいい。そも、不良同士に余計な言葉は不要だ。
拳を握り締め、今にも浮き上がりそうになる身体を深呼吸で鎮める。それでも、口角が釣り上がるのまでは止められなかった。
「さあ……ケンカの続きをしようぜ――」
「――――何やってるの、お父さん!」
「…………は?」
突然、目の前に銀色の長い髪の少女が現れた。
先ほどまで青いコートの男が立っていた場所には誰もおらず、地に転がっていた不良たちもいつの間にか消えている。
――そして、目の前の少女は『僕』が最もよく知る女の子であった。
「白鐘!? なんでここに……って、あれ?」
気づけば高かった声は低めになり、長かった銀髪は薄く、服装も黒いスーツへと変わっていた。目線も高いものになり、全身が先ほどより重く感じる。
「まったく……そろそろ起きないと、会社遅刻しちゃうよ?」
「っ……」
――ああ、そうだ。これが今の僕の日常だ。
毎朝会社に行き、働いて一人娘を養う。なんてことはない、平々凡々な日常。
口の厳しい思春期の娘に頭を痛ませながらも、それを幸福とする毎日を送っているのだ。
「ああ……すまなかった。今起きるから待って――」
「早く起きないと……」
突然、目の前の娘の手が僕の頬に触れる。
「チュー…………しちゃうぞ?」
「…………はい?」
目が点になる。普段の娘からは絶対に聞かないような単語が出てきて、思考が一時停止してしまった。
娘の顔を見る。頬はほんのりと赤く上気しており、溶けたように瞳はとろんとしていた。
「ちょっ、落ち着きなさい白鐘! 僕たちはその……父娘なんだぞ?」
「ふふ、もしかしてエッチなこと考えた? ……大丈夫だよ。これはただの目覚まし。なんの疚しい事もないんだから」
そう言いながら、ゆっくりとこちらの顔に自分の顔を近づける娘。
彼女を押しのけようと腕を動かそうとするも、なぜか身体全体が金縛りにあったかのように身動きが出来なかった。
「ま、待て白鐘⁉︎ その……心の準備が――」
「パ……パ…………」
「っ……!」
ふいに口にされたパパという呼び名。娘からパパと呼ばれなくなってから何年が経っただろうか――なんて、悠長に考えてる場合じゃない!
「パパ……目を閉じて」
「白鐘……」
抵抗しようとはするも、彼女の甘くゆるんだ声音に身体が溶けたかのように脱力する。
そうだ――これはただの目覚ましだ。
そもそも親子なんだから、軽いキスぐらいなら――、
「――って、ぶえ!?」
唇にはやわくとろけたような感触はなく、かわりに突然の激しい痛みが襲いかかる。
口に触れたのは娘の唇ではなく、なぜか彼女の頭だった。
「……え? ちょ、まっ、ぶえ」
なぜか娘は、僕の口めがけて何度も頭突きしてくるのだった。
「いだい、待ってしろが、ぶえ、おちつ、まっ、痛いから、ちょっと、白鐘さん? ぶえ――」
○
ブルルルルルル――ブルルルルルル――。
口の上の物体が大音を鳴らしながら小刻みに震えている。頭がボーとしてしばらくなすがままになるが、少しして薄べったい板のような物体の電源を点けて停止ボタンを押し、振動が止まった物体を顔からどかす。無機質な機械仕掛けの板の表面には、起床時間を知らせる数字が映っていた。
「……スマホの振動で起こされる中年親父……ってか?」
ため息を一つ吐き、スマホをベッドの横に放り投げて痛む唇を押さえる。
寝起き特有の霧がかった思考に、先ほどまで見ていた夢の内容を自然と反芻してしまう。
「……思春期の高校生か、僕は?」
セルフツッコミに応える者なし。放り投げたスマホを拾い上げて時刻を再確認。
このまま呆けるのを続けるには際どい時間。モタモタしていると、本当に娘が起こしに来かねない。
ちなみに起こしに来るといっても、夢に出てきた新婚ラブラブの奥さんのような甘ったるい起こし方ではなく、フライパンの底をお玉で叩くという一昔前風だが、鼓膜に殺傷力のある起こし方なのでわりと怖い。
身体を起こし、カーテンを開くとまぶしいぐらいの朝日が部屋に差し込む。
――季節は春。
一軒家の自宅のそばに生えた木は見事に桜満開。窓を開くと、ポカポカとした陽気が身体に染み渡った。
「さてと……いつも通り、朝の支度をしますかな」
滅多に見ないタイプの夢に名残惜しさを少し感じつつも、僕は顔を洗うために部屋を出て階下へと向かう。
――こうして僕、中年サラリーマンである黒澤諏方の最後の一日は、いつも通りの朝から始まったのだった。