第一話 斯くして彼の冒険は始まった
その日、別に何か特別な事があったとは思えない。前日だってごく普通に目覚め、過ごし、眠りについたはず。
だが、今日という日の目覚めは最悪だった。
「━━くぁ……ぁあ?」
いつもと同じ起床。そう思っていた俺の視界へと最初に入ってきたのは固そうな土壁と、淡く発光するコケらしきナニカ。太陽の光は微塵も感じられず、固そうな土壁を見るにどこかの地下なのだろう。
「どこだ、ここ?」
明らかに自分の部屋ではない、未知の場所に放り込まれた俺。
ここは一旦落ち着いて、現代人らしくスマホで現在地の検索を掛けてやるべきだろう。そう思い至って寝巻き代わりに着ていたジャージのポケットに手を突っ込んで漁るが、生憎スマホどころか何も持っていなかった。クソッタレ。
そこまでやってハタと思う。ひょっとしたら俺は夢でも見ているのではないだろうか? と。そう現実逃避気味に現状を考えながら、何気なくチラリと視線を動かして……目に映ったのは白骨死体。
「ッ!?」
目覚めて早々に白骨死体を見て悲鳴を上げなかったのは、半分寝惚けていたおかげだろう。もっとも、真に迫ったソレを見て眠気は完全に吹き飛び、夢だ何だと現実逃避する事が出来なくなったが。
「これは、いったい……?」
俺の部屋……いや、辺りを見るにそもそも俺の部屋ではないのだろう。しかし目覚めた場所の直ぐ近くにあった白骨死体に強い疑問を感じ、何かこの異常事態を解消するような物がないかと注視する。
白骨死体は一体。肉は完全に落ちており、死んでから結構な時間が経っていると予測できた。そしてよくよく見て見ると明らかに骨のパーツが足りず、残っている骨そのものも折れていたり傷が付いていたり焦げていたりと状態はよくない。
持ち物は衣服だったのだろうと推測出来る程度の布切れと、錆びが目立つ抜き身の短剣が一つ。……いや、骨に隠れて分かりづらいがもう一つあるようだ。あれは、巾着だろうか?
「…………流石に駄目だろ━━いや、そうだな。……失礼します」
死者の持ち物を漁るのはかなり気が引けたのだが、状況が状況だけに余裕は余り無く、状況把握は急務だろうと考え、軽く手を合わせて謝罪した後に巾着を手に取る。
それは拳二つ程の、ポケットに入れようとすれば入ってしまう程度の小さく古ぼけた茶色い袋だった。手に持った感覚だと何かが入っているらしい。
「……重ね重ね、失礼します」
俺は白骨死体に軽く瞑目した後、巾着の口を開ける。
するとどういう事だろうか? 巾着の口から覗く中身は随分と多彩で多く、また袋そのものも大きい様だ。少なくとも旅行カバンよりは大きいに違いない。
「……んん?」
目が腐ったのか、それともついに頭がイカれたか。いやいやそんなバカな話がある訳がない。二度三度瞬きし、オマケに目を擦り、上を向いて深呼吸を一つ。さぁ、もう一度見てみよう。
「どういう、事だ?」
もう間違いない。見間違いなどではない。この巾着の外観と、中の空間のサイズは一致していない。
あぁ、何というファンタジーか。目の前に真に迫った白骨死体が無ければ、俺は馬鹿馬鹿しい夢を見ているのだと現実逃避に走った事だろう。
だがこれは現実、どうしようもない現実だ。
そう自分に言い聞かせ、改めて巾着の中を見る。
最初に目につくのは硬貨の類いだ。銅や銀、中には金で作られているソレらは普段使っている日本硬貨とは比べ物にならない程に重々しく、また一度も見たことが無いデザインだった。
他はどうだろうと見てみれば何かの液体が入れられ封をされた透明な試験管やビン、見た事のない植物や何かの鱗や骨が見られ、酷く現実味に欠ける品々ばかりだ。そうでないのは、文庫本サイズの使い古された革の手帳ぐらいか。
━━読むべきだ。
俺の脳ミソはそう判断を下す。死者の持ち物を漁り、関係者でもないのに手帳を読むのは気が引けるどころの話ではない。だが、この手帳を読めばこの訳の分からない状況━━目覚めたらどこかの地下で、近くには白骨死体と発光する謎のコケ、そしてファンタジーな巾着━━も多少は改善するだろうと思っての事だ。
勿論迷いはある。だがそれ以上にこの状況を打開したかった俺は手帳へと手を伸ばした。ロクな死に方しないだろうなと自嘲しながら手帳を掴み、そして。
「グギャァ?」
おぞましきナニカの声を聞いて手を離し、咄嗟に巾着の口を閉じて声がした方を見る。
「ゴブ、リン……?」
信じられないと言わんばかりに口から出て来たのはそんな単語。間違いなくアニメの見過ぎか、さもなくばゲームのし過ぎだろうと笑われる様なソレ。
しかし俺の視線の先にいる醜く矮小なソイツは、そうとしか言いようがない存在だった。
子供程の背丈、ゴツゴツとした緑の肌、手には粗末な棍棒を持ち、その顔は醜悪な笑みが浮かぶ。その有り様はまさしく邪悪な小鬼そのものだ。
「グギャギャ!」
食い物を見つけた、そう言わんばかりに醜悪な口元から涎を足らし、ギョロリとこちらを見て嗤うゴブリン。食い物だ、獲物だ、殺して食ってやると。
その嘲笑に、俺は身体の奥からジワリ、ジワリと本能的な怒りが湧いてくるのを感じる。食い物として見られている恐怖よりも、楽に殺せるとナメられている事実への憤慨が僅かに勝ったのだろう。状況と相手に当てられた、喧嘩早く野蛮な動物的思考だが……この怒りを収めるつもりは不思議と湧かなかった。殺れるものなら殺ってみろ、と。
俺は巾着をズボンのポケットへと突っ込み、ゴブリンを出来る限り視界に入れたまま足元の短剣を拾う。やはり錆びが目立つが……幸いにも先端部分は錆びが薄く、鋭利なまま。殺れる。
「グギャァア!」
耳障りな声を上げてゴブリンが走り出す。俺は右手に短剣を構えて動かない。数メートル合った距離がどんどんと縮まっていき、眼前。ゴブリンが大きく飛び上がり、その手の棍棒は振り上げられていた。
「っ!」
殺られる。殴り殺される。
確信にも似た予感に突き飛ばされ、ゴブリン目掛けて短剣を突き出す。が、ブレた。心臓を狙ったはずの突きはズレて脇腹を浅く切り裂くに止まり、ゴブリンの棍棒は降り下ろされる。
死にたくない。倒れる様に身を捻りながら左腕を動かし、まるで盾の様に掲げる。咄嗟の事だった。瞬間、衝撃。イヤな音。鋭い痛み。
「グ、アァァ!?」
「ギャギャ!」
濁った悲鳴と、汚い笑い声。どちらがどちら等、言うまでもない。俺は熱さにも似た痛みで崩れる様に倒れ、ゴブリンは脇腹の傷を気にする事もなく嘲笑の声を上げる。負けた。殺される。
……誰が? 俺が。何に? ゴブリンに。……俺が、ゴブリンに殺される? こんな醜く矮小な、ザコの典型の様な奴に殺される? 訳も分からないまま、この俺が? ━━冗談じゃない。
「ウ、ラァァァアア!」
「ギャッ!?」
跳ねる様に飛び起きた俺はその勢いのままゴブリンに体当たりをかまし、マウントを取った。ゴブリンは何が起きたのか分からないらしく、ギョロついた目に困惑を浮かべている……そのまま死ね。
短剣を肩口まで振り上げ、切っ先をゴブリン目掛けて降り下ろす。今度は外さない。狙いは、ギョロリとした腐った様な目だ。
「死ね、死ね、死ねぇ! お前が死ねぇええ!」
一突き、右目を潰した。二突き、左目を潰す。三突き、暴れられて外した。殺す。四突き目、トドメと心臓を狙うが棍棒が来たので中止。後ろに飛ぶ。追撃を警戒したが、ゴブリンは両目がやられて全く狙いがつけられないらしい。ザマァミロ、狙い通りだクソッタレ。
「トドメ、だ……っ!」
それから数秒。疲れたのか、諦めたのか、デタラメに振るわれていた棍棒のスピードが脅威足り得ないレベルまで落ちたのを見て突撃する。
頭狙いは頭蓋骨が邪魔な上に短剣では足りないので無し。首は狙いづらいので、やはり心臓狙いしかない。
そう素早く確認した俺は、腰だめに構えた短剣を半ば降り下ろす様にして突き出す。ゴブリンはロクに動かない。貰った。
「グ、ギャ……!?」
濁った悲鳴を上げたのはゴブリン。短剣が狙い通りの場所に突き刺さったのだ。
俺の脳ミソが勝利を宣言するよりも早く、ゴブリンは泡を吹いて倒れる。一応とばかりに確認してみるが、間違いなく死んでいた。
……俺の、勝ち。生き残ったのは、俺だ。
「━━く、はっ。すぅ、はぁ……」
いつの間にか詰めていた息を吐き、深呼吸を一つ。荒れていた心が落ち着いていく。
そうやって一息ついたところでふと右手に違和感を感じ、何気なく見てみると手が汚れていた。薄汚い赤だ。それは短剣と右手、そしてジャージの前面部にベットリとこびり付いている。これは、何だろうか?
……あぁ、いや。血か。ゴブリンの。なんと、汚いのか。だがしかし、これは、俺が生き物を殺した証拠でもある。
「…………ハッ」
一瞬感傷に浸りそうになったが、よくよく考えなくてもこれは正当防衛。俺を殺そうとしたクソッタレを殺しただけだ。そうしなければ俺が死んでいた。だから仕方ない。仕方ないんだ。それに、ほら、相手は同族ではないのだし、あまり気にする事はないだろう。気にするのなら、それこそガチなベジタリアンにでもなる必要があるだろうし。白骨死体に瞑目するのとは違うのだ。
そうやって感傷を蹴飛ばした俺だったが、何気なく一歩を踏み出そうとして……踏み出せなかった。左腕に激痛が走ったが故に。
「っー!? ━━くはっ、はぁ、はぁ……あぁ、クソッ。折れてるな、これは」
いつ折れたのかと考えて、ゴブリンの一撃を左腕で受けた時だと一拍して思い至る。あのクソゴブリン、人の腕をへし折ってくれたらしい。腹立たしさから文字通り死体蹴りしてやろうかと思ったが、それも億劫だ。というより歩くだけでも微妙に響くのか、割りと痛むので治るまで一歩も動きたくない。
「……まぁ。そうもいかないだろうが、なぁ?」
誰に訪ねているのか、白骨死体か、そうなのだろう。彼、あるいは彼女がなぜ白骨死体になったのか、もう考えなくても分かる。殺されたのだ。奴らに。
骨の損傷具合から何が致命傷になったのかは不明だが、少なくとも寿命ではないだろう。ゴブリンか、あるいはそれ以外の……モンスターに襲われて死んだのだ。
モンスター。
馬鹿馬鹿しい話だ。ファンタジーに過ぎる。それともゲームの話か? いいや、現実の話だ。少なくとも、いまこの瞬間は。
折れた左腕が痛む、汚れた右手が気持ち悪い。何より、白骨死体が俺を見る。このままでは死ぬぞ、と。……前二つはともかく、白骨死体云々は幻想だろう。仮にここがファンタジー世界でも、白骨死体が見ず知らずの俺に語り掛けてくるはずがない。だが、間違ってはいないのだろう。このままここに留まれば、死ぬ。
「クソッタレだ。チクショウめ……」
少しだけ迷ったが、短剣に付いた血をジャージで拭ってポケットから取り出した巾着に入れる。そして巾着は元のポケットに戻しておいた。咄嗟に取り出せはしないが、今はここを素早く離れる為に少しでも身軽な方がいい。戦闘は、もう出来ないだろうし。
「……スンマンセン。借りて行きます」
白骨死体に瞑目しつつ、場合によっては借りパクになるだろう事を心の中で謝罪する。ある意味命の恩人なのだし、出来れば返し来て埋葬もしてあげたいが……折れた左腕の事もあって余裕がなのだ。今は勘弁して欲しい。
「……行くか」
瞑目していた時間はホンの十数秒。血に寄ってくるサメの話もあるのだからと、これ以上は危険だと判断して痛み堪えながら歩き出す。
一歩、二歩、三歩。歩く度に鋭く熱い痛みが腕を襲うが、白骨死体の仲間入りをしたくはないと歯を食い縛って歩き続ける。だが痛いものは痛いので、どう歩けば痛みを軽減できるか試そうとした……その瞬間。背筋が凍えた。背後に凄まじいナニカが、居る。
「━━なっ!?」
迷ったのは一瞬。何がいるのか振り返った俺が見たのは、巨人だった。
洞窟の通路より大きいせいか、身を屈めたソイツは間違いなくデカい。体長は最低でも三メートル。ゴツゴツとした緑色の肌は硬そうで。全身の筋肉が脅威的なまでに鍛えられ、盛り上がっており、そこから生み出されるパワーはゴブリンや人間では比較にならないだろう。鋭い牙が口から露出した恐ろしい面構えは、ゴブリンと同じ様な喜びに歪んでいた。つまり、食い物を見つけた、と。
「オーガ、か? ……ふざけやがって、俺が何をしたって言うんだ!?」
今度は怒りよりも恐怖が勝った。矮小なゴブリンとは違い、このオーガとでもいうべきモンスターが俺の手には負えないのは分かりきっている事だから。喧嘩早い動物的な思考も尻尾を巻いて賛成している。
もしコイツと殺り合うなら短剣ではなく魔剣か、それこそ重機関銃が必要だろう。さもなきゃロケットランチャーだ。少なくとも拳銃では殺せないだろうし、片腕が折れた状態での戦闘は新手の斬新な自殺でしかない。
「グルゴォォォオオ!」
「ッ━━!? えぇい、クソが!」
薄暗い洞窟に響くオーガの雄叫び。気づけば二歩、三歩と後退していた足を止めずに、しかし悪態だけはキッチリ吐き出してその場から逃げ出す。
最早迷いも躊躇いも無かった。オーガに背を向けて、痛む腕を庇う事もなく、全力疾走。足が地を叩く度に、肩が揺れる度に、折れた場所から熱を持った激しい痛みが襲い掛かってくる。だが、足を止めれば死ぬ。痛みか、死か、イヤな選択ではあったが、天秤がどちらに片寄るか等、考えるまでもない話だ。
「クソッタレめ、チクショウめ!」
痛みを誤魔化す為に、あるいはそれ以外のモノも誤魔化す為に悪態を吐く。激痛に耐えて地を蹴り、前へ進み、チラリと背後を振り替える。
グシャリ、バキリ、そんな音が聞こえた気がした。白骨死体が、踏み潰されていたのだ。オーガは身を屈めたまま確かに俺を追って来ていて、その途上で避ける事もせずにそのまま踏み潰したのだろう。そして俺を見て嗤うのだ。次はお前だと。
「覚えてろよ、この畜生が」
ふつふつと怒りが湧いてくる。それは恩人である白骨死体をバラバラに砕いたクソッタレへの憤慨であり、俺を食い物としか認識していない畜生への本能的な怒りだ。
本当なら、今すぐにでも引き返してオーガをブチ殺してやりたい。人の死体を砕いた罰を与え、俺を食い物として見た事を後悔させてやりたい。だが、俺はそんな考えを蹴飛ばし、怒りに蓋をしてオーガに背を向けて走り続ける。勝てないから。挑めば確実に殺されるから。……今は、まだ。そう信じて。