邪神の憤怒
呪圏の地面に倒れ込んだ僕を、皆が取り囲んでいる。アグネスカとアリーチェが揃って僕の肩に触れてきた。二人とも目の端が潤んでいる。
「エリク!」
「エリクさん!」
ぼんやりしていた頭が、呼びかけられることによってだんだん鮮明になってくる。それによって、自分の状況も飲み込めてきた。
先程までの大暴れ。神力の急激な発露、暴走。イルムヒルデやマドレーヌや、ギーやディートマルを、どころかアグネスカを、アリーチェを、イヴァノエを苦しめてしまったこと。その事実。
「みんな……その……」
漏らした声は相変わらず、少し歪だった。まだ喉が戻っていないのだろうか。
視線を巡らせる。アグネスカとアリーチェの後ろに四人がいる。イヴァノエの姿は見えない。だが少し思考を走らせたら当然だと分かった。エスメイにやられてしまったのだから。
マドレーヌの腕は歪に膨れ上がっている。ギーの翼はボロボロだ。それもこれも、僕がやったことだ。だから、僕は絞り出すように声を上げる。
「ごめん、なさい」
ぽつりと吐き出した言葉を聞いたディートマルが、小さくため息を吐いた。そこから優しく微笑んで言葉をかけてくる。
「謝らなくていいのですよ、あなたはよく頑張りました」
「ええ。あの状況からよくぞ、自分を保ったままでお戻りになられましたわ、ダヴィド様」
イルムヒルデも僕のそばにかがみ込んで、翼の先で頭を撫でながら微笑んだ。
確かに、よくこうして人間に戻ってこれたと思う。今の僕を、人間と言ってしまっていいのかは自信がないけれど。
すると、皆の足元をすり抜けるように走ってくる小さなネズミがいた。いや、獣人族らしい。二足歩行してぱたぱた走っている。
そのネズミが僕の身体にすがりつくように両手をついてきた。僕の獣毛にもふっと手が埋もれるが、感触がひどく頼りない。
「ええい、くそっ」
随分と小さな、高い声色にそぐわない乱暴な口調。その口調ですぐに正体が分かった。僕がおそるおそる手を伸ばしながら声をかける。
「イヴァノエ?」
「あらあら、ネズミですか。随分小さくなってしまいましたねぇ」
アリーチェがイヴァノエの身体を片手で持ち上げて、僕のお腹の上にぽんと乗っけながらからかうように言った。お腹の上にイヴァノエの全身が乗っているのに、重くもなんともない。
すごく変な感じだ。だが『器』を書き換えられるということはそういうことだ。
僕のお腹の上で自分の体をチェックしながら、イヴァノエが小さく舌を鳴らす。
「畜生め、あの野郎。これじゃエリクを乗っけて走ることも出来やしねえ。人間語で話せるのは楽でいいけどよ」
「ま、命があるだけ良かったと思うことだわ。エスメイの権能を考えれば、身体をバラバラにされてしまってもおかしくないのだもの」
ハッキリと人間語で悪態をつくイヴァノエへと、マドレーヌが苦笑しながら話しかけた。確かにエスメイの事を考えたら、そのまま殺されてしまっても文句は言えない。そういう神だ。
と、そこで地面を踏む音がかすかに聞こえた。同時に皆が、険しい目をしてそちらをにらみつける。
「エ……エリク……?」
「むっ」
愕然とした様子で、声をかけてくるその人物。誰あろう、エスメイだ。ギーがますます険しい表情をして、一度背に戻していた武器を再び抜いた。
ようやく僕も身体の自由が効くようになってきて、ゆっくり身を起こしながら彼を見る。
「……エスメイ」
僕が声を返すや、エスメイがますます目を見開く。その顔には驚きや怒りだけではない、困惑の色があった。明らかに、こういう状況になることを想定していなかった顔だ。完全にテンパっている。
これは好機だ。すぐさまにイルムヒルデが不敵な笑みを見せながら口を開く。
「形勢逆転ですわね、邪神エスメイ。ダヴィド様に意識を集中させて、その間に私達をどうにかしようと思っていたのでしょうが、これでもうその手は使えませんのよ」
「どころか、エリクさんの体内はあなたが活性化させたことで、神力の生産が強まっている。それがアグネスカさんに流れる経路も出来た……戦力的には、こちらが有利でしょうね」
ディートマルも妻の言葉に乗っかって、強い言葉をエスメイにぶつけていく。その言葉を振り切るようにして、エスメイはずんずんと僕の方に歩み寄ってきた。
目元は吊り上がって、怒っているのが見て取れる。だがその瞳は、随分と悲しそうだ。そんな顔をしたままで、僕の両肩を強く掴む。
「何故だ……何故だ!! お前は俺の友達だろう、俺はお前のために、お前の力を解放したというのに!!」
僕の身体をガクガクと揺さぶって、いっそ泣き出しそうな目をしながらエスメイは叫んだ。僕に向かって叫んでいた。
あまりにも神の一柱らしからぬ口調と言葉に、僕だけでない、他の誰もが目を見開いている。止めようという様子もない。そんな状況で、エスメイはなおも僕に言葉をぶつけてきた。
「お前は強い、俺なんかよりも遥かに強い、三大神の伴神どころか、それらに並ぶほどの神になれるだろう!! 俺がそうしてやったというのに!!」
僕がされるがままでいるのをいいことに、ますますエスメイは言葉を吐き出す。だが、その声は次第に涙声になってきていた。どころか実際に、目の端から涙が溢れ出していた。
ふと、肩にかかっていた力が軽くなる。見れば、僕の胸に顔を埋めながら、エスメイが小さく肩を震わせて泣いていた。
「何故……お前は、人間種であることにこだわる、エリク……!!」
震えながらも、はっきりと強い言葉で僕に思いをぶつけるエスメイ。その姿を見ていると、本当に人間とか神とか、ルピア三大神とか邪神とか関係なく、大事な存在だと思えてきてしまう。不思議な気持ちを抱いたまま、僕はエスメイの背中に手を触れた。
思っていたより柔らかい。こうして見ると、か弱い存在のように感じる。そうして、僕は優しく彼に声をかけた。
「エスメイ、勘違いしているかもしれないけれど」
彼に声をかけると、泣き腫らした目のままで彼が僕を見上げてくる。そんなエスメイの姿にうっすら目を細めながら、僕は優しく語りかけた。
「僕は、神になりたいわけじゃない。確かにカーン様の使徒として、神の代弁者として働かせてもらっているけれど、僕は人間種だし、命あるものでありたい」
「……!!」
僕の言葉を聞いて、エスメイは先程以上に「信じられない」といいたそうな表情をした。
それはそうだ、と僕も言える。人間種から神になるなど、それこそ歴史に残るくらいに「あり得ない」ことだ。まず間違いなくルピア三神教の歴史書にでかでかと残るだろう。今の僕の状況だけを考えてもあり得ることだ。
だが、それは僕の望むところではない。神になりたい、と思ったことはないし、父さんも母さんも僕の大切な家族だ。悲しませることはしたくはない。
先程までより獣らしさが増した僕の手を、エスメイの肩越しにそっと見る。僕の目で見ても、人間離れしているのがよく分かった。神獣を通り越して神になっている、と言われてもおかしくない。
「そりゃあ、今は呪眼獣になっちゃったし、その神獣人になっちゃった……神力もすごいことになってるし、それについては、もうしょうがないけれど」
その手を、未だ泣き続けるエスメイの肩に置いた。触れたそこから、エスメイの神力の流れが伝わってくる。どうやら僕は、随分と強くなってしまったようだ。そこについては、彼に感謝はするけれど。
僕ははっきり、彼の目をまっすぐに見て告げてあげた。
「だけど、無理やりに神にされるのは、僕は望まない」
「く……!」
いっそ冷たく彼に告げて、彼が悔しそうに奥歯を噛んだその瞬間だ。
僕はエスメイの身体をぐいと押しのけた。そのまま身体を離して両手を前方に突き出す――いや、掲げる。
すると途端に、エスメイの身体が宙に浮いた。その身体を追いかけるように、地面から何本もの、光り輝く太いツタが出現して彼の身体を絡め取る。もがけどもがけど、ツタは緩むどころかますますエスメイの身体をきつく縛り上げていた。
あまりの事態に、誰も彼もが大いに慌てていた。三大神に属する神術だとしても、こんなにあっさりと神の身体を封じるなんて芸当が出来るはずもない。
「イルムヒルデ様、あのツタは……!」
「なんだ、あれ……光り輝いているし、あんなに奴が暴れているのに、びくとも……」
アグネスカとイヴァノエが、縛り上げられて何も出来ずにいるエスメイを見上げながらぽかんとしていた。イルムヒルデもこれまでにナイくらいに難しい表情をして、僕の呼び出したツタを見つめて言う。
「光輝の蔦、のように見えますが、そうだとしてもあの強度はあり得ませんわ。なにか、別の神術も関わっているのか……」
「私にも分からない……膨大な大地の神力が流れているのは見えるが、それ以外は不明だ」
イルムヒルデもディートマルも、それが何なのか分かっていない様子だ。申し訳ない話だが、僕にもこのツタが何なのかはよく分かっていない。
ただ一つだけ確実なことは、このツタは僕の意思に従って動き、僕の神力によって生み出されていると、そういうことだ。
もう、ツタはエスメイの全身を何重にもグルグルに縛っている。自由になるのは顔だけだ。ここまで来たらエスメイは手も足も出ないだろう。それを確認するように、僕は微笑みながら声をかける。
「ねえ、エスメイ」
「……っ」
僕の勝ち誇ったかのような表情が気に食わなかったんだろう、エスメイはますます表情を歪めた。色々と言いたいことはあるだろう、だが言ったところで、何が出来る彼でもない。
「僕と君は、友達、なんだよね?」
「そう……だとも。だからどうした!? そうだと言うならこのツタを解け!!」
彼を見つめながら、ゆっくりと歩く僕を、にらみつけつつエスメイは叫んだ。
そう、友達だ。僕と彼は友達だ。友達なら何故こんな酷いことを、と言うつもりだろうが、僕の仲間や友達や家族を傷つけるつもりなのは目に見えている。
それなら、彼に対して僕が「友達」として、出来ることをするだけだ。
「大丈夫、そのまま見ていて」
そう言って視線を向けるのは、いまだこの呪圏に吊り下げられるように浮かんでいる、エスメイの新しい肉体だ。
これまでの戦闘の間にもどんどん構築は進んでいたのだろう、既に顔は出来上がっている。エスメイの顔によく似つつ、僕の面影もどこかあるような、そんな顔だ。
その構築途中の肉体へと、僕は両手を向けた。その瞬間である。
「な……!?」
「エスメイの、肉体が……!?」
目の前の光景に、その場にいる誰もが――文字通りの全員が驚きの声を上げ、目を見張った。
エスメイの肉体が神力の光を帯び、急速に組み上げられ始めたのだ。先程までの緩慢な、時間をかけて行われる構築ではない。明らかに何かの力によって、肉体が組まれている。そしてその力の出処など、一つしか考えられない。
これまで以上に困惑し、これまでなかった程に焦りながら、エスメイは僕に向かって声を上げた。
「おい……おい!? なに、何をしている!?」
エスメイには見えていることだろう。僕がエスメイの新しい肉体を、僕の神力を以て組み上げていることが。
これまであの身体は、エスメイが作り上げたこの呪圏に満ちる、大地神スヴェーリの神力によって組み上げられていた。彼はあの身体を使って地階へと赴き、スヴェーリの使徒として活動しようとしていたのだから、そうするのも当然だ。
だが今、僕があの肉体に大量に注ぎ込んでいるのは、カーン神の神力だ。
「友達になるんなら、ここに閉じこもってちゃいられないでしょう? 身体を用意してあげる、僕の力で」
僕が優しく、努めて優しく微笑みながらエスメイに告げる間も、僕の神力の放出は止まらない。そうこうする間にも、肉体の構築は佳境に入っていた。血管も、神経も、外皮も全て完成されている。後は血液を作り始めれば終わり、という段階だ。
いよいよエスメイは絶望的な表情になりながら、懇願するように弱々しく言ってきた。
「おい、やめろ、やめろよ……!!」
「大丈夫、泣かないで」
そんな神に絶望を見せつけるように、僕は一気に神力を流し込んだ。優しく告げながら、最後の仕上げに入る。
彼だってそうもなるだろう、このまま僕に肉体を完成させられた日には、エスメイは永久に目的を達成できなくなるのだ。
僕の神力が肉体の隅々まで浸透する。心臓がどくんと脈を打つ。骨髄にも神力が通り、血液の生産が始まる。それと同時に血管に流れ込んでいく、僕の神力。
エスメイの肉体の全身が、淡い光を帯びた。スヴェーリ神の暗い土色ではなく、ほんのりと緑色をした、眩いばかりの白い光。
「やめろーーーーっ!!」
絶望に満ちたエスメイの叫びが呪圏に響き渡る。その声を聞いてもなお、完成されたエスメイの新しい肉体は、ぴくりともまぶたを動かさないまま、白い光を放ったままでそこに浮いていた。





