変貌した使徒
頭がぼんやりする。視界が霞がかっている。
何が起こったのか、一瞬理解できないくらいには頭が働いていなかった。目を瞬かせた僕に、目の前にいるエスメイから声がかかる。
「……、おい、エリク」
「う……うぅっ……?」
彼に呼びかけられて、もう一度目を瞬かせた僕は、霞んだ目をどうにかしようと目をこするべく、自分の手を眼前に持ってきた。
その手が、獣人の手になっている。
紫がかった濃い灰色の毛皮。ちらちらと入っている白いぶち模様。紫水晶のような透き通った紫色の爪。
どう見たってそれまでの僕の腕ではない。視界がはっきりしてくるにつれ、僕のマズルもはっきり見えるようになってきた。そこそこ太く、長さもある。虎のものが近いだろうか。
普通なら驚いたりするところだが、僕は今の身体を違和感なく受け入れていた。
「大丈夫か、急に気を失ったから心配したんだぞ」
出来上がったばかりの僕のマズルを撫でながら、エスメイが心配そうに言う。僕は目を細めながら、目の前にいる彼に手を伸ばした。
「エスメイ……」
「そう、俺だ。身体はどうだ、痛まないか」
優しく声をかけられ、伸ばした手をそっと取られ、僕はほうと息を吐きながら自分の身体を改めてチェックした。
痛みはない。動けないということもない。角にも、尻尾にも、ちゃんと血は通っている。そして、呪圏の中がハッキリと見える。意識を失うまではエスメイの姿しか見れなかったのにだ。
大きく変わった視界に目を瞬かせつつ、僕はエスメイに返事を返す。
「大丈夫……だけど」
「そうか、よかった……立てるか?」
僕の手を持ったまま、エスメイが柔らかく微笑みながら声をかけてくる。彼にそっと手を引かれて立ち上がると、思っていたよりもあっさり立てた。
脚が獣人らしくつま先立ちになる体勢に変わっているのに、である。とはいえ融合士の能力で変身した時も、しょっちゅうこの形状の脚になっていたから、今更といえば今更だ。
問題なく呪圏の地面の上に立つ僕を見て、微笑みながらエスメイが問いかけてくる。
「大丈夫そうだな。どうだ、見えるか?」
そう言いながらエスメイが差し出したのは、大きな鏡だった。
その鏡に僕の姿が映し出されている。『器』を書き換えられ、獣人の姿に変貌した僕の姿が。
全身を覆う毛皮。虎を思わせる頭。ふさふさとした大きな二本の尻尾。そして眉間に輝く、宝石のような第三の瞳。
僕は何度か、目を瞬かせた。元々の位置にあった二つの目も、額に出来た新たな目も、それぞれ別々にまばたきをしている。新しく出来た器官だろうと、僕はそれを元々持っていたかのように動かせている。
「うん、見える」
「よし。お前にとっては今更だと思うが、説明するぞ」
こくりと頷いた僕に、エスメイが鏡を消しながら話し始めた。
「お前は神獣、邪眼獣の神獣人だ。ヒトであるがゆえに自然神カーンの加護をその身に受けて産み落とされ、カーンの使徒として育ったヒトだ。人間族の父と母に拾われて、同じく拾われた獣人族の姉に愛されて育ち、三大神の使徒の一人として目覚めた」
邪眼獣。
ルピアクロワに生きる神獣の一種で、二本の大きな尻尾と額に輝く邪眼と呼ばれる目が特徴だ。その宝石のような瞳は呪いをもたらすとも、見つめられたら命を奪われるとも言われるが、実際に人間を害した記録はあまり残っていない。そもそも数の少ない魔物だ。
その神獣人として、僕は人生を作り替えられた。二つの瞳を仄かに赤く輝かせながら、頷きつつ僕は言う。
「うん……そして使徒の一人として禁域に踏み込んで、エスメイと会って、友達になった」
「そう、そうだ。偉いぞ」
彼の言葉の後を継いで答える僕に、満足したようにエスメイが言う。そして髪の毛の生えた僕の頭を、くしゃくしゃと撫でてくれた。
兄が弟にするように、優しく頭を撫でながら、言い聞かせるようにエスメイが僕に言った。
「お前は神獣だ。果ての無い寿命と生命力を持ち、莫大な神力を生産でき、大地に立つだけでその大地を実り豊かな場所に出来る存在だ」
「僕が……大地を豊かに……」
その言葉を繰り返しながら、僕は自分の両手を見つめた。
神獣の僕は、人間のように数十年で老いて死ぬことはない。そう易々と殺されるほどにか弱くもない。使徒だから元々神力の生産は出来るが、神獣になったことでその生産量は大きく上がっている。神術を行使したら、きっととんでもない威力が出るだろう。
それほどまでに膨大な神力を有しているから、大地に足を付けていればそれだけで神力が大地に伝わり、大地が豊かになっていく。まるで滾々と湧き出す泉が地面を潤していくように、僕の神力が大地を、世界を豊かにしていくのだ。
頷きながら、僕はエスメイの顔を見つつ口を開く。
「そう、だよね。僕は禁域の大地を豊かにするためにここに来た、んだもん、ね」
「そうだ。エリクならきっと、あの荒れ放題の禁域を緑豊かな土地に出来る」
そう話してエスメイが禁域の天井を見上げた。果ての無い真っ暗闇だと思っていた呪圏の中にも、天井はある。その天井の向こうには禁域の、草一本も生えない荒れ地があるはずだ。
その大地を、僕の力で豊かな土地にする。そうすればゆくゆくは、あの荒れ地にも草木が生い茂るだろう。その為に、僕はこうしてここに来たのだ。
だが、天井から視線を外して僕に顔を向けたエスメイが、真剣な表情で言った。
「だがそれだけがここに来た理由じゃない。エリク、お前は俺に会うためにここに来たんだ」
「エスメイに、会うため……?」
彼の言葉に、僕は小さく首を傾げた。
エスメイに会うために。どうしてだろう、と考える。僕はイルムヒルデやマドレーヌと一緒に禁域の問題に対処するために、という形でここに来たはずだ。エスメイに相対することはしても、会いにくるのは違うはずだ。
だが、さも当然であるかのような口ぶりで彼は話す。
「そうだ。俺が地階に降臨するためには肉体がいる。人間種の肉体がな。だがただ人間種であればいいってわけじゃない。『器』を書き換えてもなお、人間種でい続けられるだけの肉体が必要だ」
そう話しながら、エスメイは僕の周りをぐるぐると回るように歩く。
神と言うのは実体が無いものだ。世界各地の教会には三大神の聖堂があり、そこにご神体という形で石像や彫像が置かれているが、そうした実体が無ければ神は地階に、長い時間留まれない。
そして神の『器』となる肉体として最良なのは、人間種の肉体なのだ。使徒や巫女が人間種に限られているのも、神々に最も近い存在であるためには人間種でなくてはならないからだ。
驚きに目を見張りながら、僕は彼に問いかける。
「もしかして、禁域に住む信者の人々の『器』を書き換えて遊んでいたのも……」
「遊んでいたんじゃないぞ、俺の肉体に相応しいかを見極めるためにやったことだ。だが足りない……アロイスは素質はあるが、死んでいちゃ話にならない」
僕の問いかけにエスメイが、眉間にしわを寄せながら言った。彼曰く、神の『器』となる際に必然的に『器』の変質が起こるらしい。それに耐えられず自我を崩壊させたり、人間種から逸脱してしまっては、神の肉体としての機能を果たせないのだそうだ。
その言葉に、僕は俯く。ちょうどエスメイが僕の目の前まで戻ってきた時に、僕はぽつりと呟くように言った。
「僕は……ダメなの?」
その言葉に、エスメイが立ち止まって僕の顔を見た。少しだけ僕の顔をじっと見つめたエスメイが、ぎゅっと僕の身体を抱き締めた。愛おしそうに、嬉しそうに僕の身体を抱きながら、彼が話す。
「エリク、お前の肉体は素晴らしいし、その気持ちは有り難いが、よく自分のことを考えてみろ。お前はカーンの使徒だ。三大神が一柱、自然神カーンの息子だ。俺のものには出来ない。俺にはお前の聖印を消すことは許されない」
そう話してから、僕の身体を離したエスメイが僕の胸元、星形と放射線を組み合わせた形の、カーン神の聖印に触れる。僕の神力の出口でもあるそれが、エスメイに触れられたことで淡い緑色の光を放った。
だが、次の瞬間である。
「だが……」
「うっ」
エスメイの右手が、再び僕の身体にめり込んだ。そのままエスメイの手が、僕の心臓を掴む。胸に鋭い痛みが走った。
「お前自身の身体を使えないなら、お前をもう一人新たに作ればいい」
僕の心臓にエスメイの神力が雪崩れ込んだ。一気に大量の神力を流し込まれて、僕の心臓がびくびくと痙攣する。思わず、僕の口が大きく開いた。鋭い牙を幾本も揃えた僕の口から悲鳴が漏れる。
「う、あ、あ……!!」
「痛いか? 我慢しろ、すぐ終わる」
そう言いながらもエスメイの神力は絶えず僕の心臓に注がれる。そのまま1分ほど経った頃だろうか。エスメイの手が僕の心臓から離れ、僕の身体から引き抜かれた。
僕の心臓に流し込まれたエスメイの、邪神の神力が、血液に乗って僕の全身に広がっていく。この異質な力は僕の生産する神力と混ざり合い、そして僕の力と一緒に放出されていくんだろう。
ずきんと胸が痛んで、思わず僕が地面に膝をつく。
「うっ、はぁ、はぁ……っ」
「お前の心臓を複製させてもらった。これを元に、地神の加護を持つお前を構築して、俺の肉体にさせてもらう。時間はかかるが、これが一番いい」
そう話すエスメイの左手には、脈を打つ心臓が乗っていた。あれが僕の身体から複製した、僕のものと同じ心臓だ。心臓が一つあれば、元となった肉体と同じ新しい肉体を一から作り上げることなど、神にとっては造作もない。
エスメイが右手で僕の手を握る。そのまま僕を引っ張って立たせると、彼はぐいと上に僕の身体を持ち上げた。放り投げられるようにして僕の足が地面から離れると、そのまま彼の手を離れて、呪圏の天井に吸い込まれるようにして上っていく。
「俺の目的は達成できた。そろそろ地上に帰れ、エリク。お友達が待ってるだろ」
「ま、待って、エスメイ……」
僕がもがくも、吸い込まれる身体はそのまま僕の身体を持ち上げ続けた。
もっと話をしたい、交友を深めたい、一緒に居たい。そんな思いを無視するかのように、エスメイは地面から僕を見上げ、そして言った。
「俺の同胞。俺の怨敵。俺の親友――」
言いながら、彼の目が細められる。眩しそうにしながら呪圏の天井を見上げる彼が、優しく笑った。
「心配するな、すぐに会える」
「あ――!!」
その声が、天井から差し込む光に包まれて消えていく。
そのまま僕の身体は呪圏から吐き出されるようにして、光の中に消えていった。





