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名も無き神獣人

ブックマーク登録数が100件になりました!

たくさんの読者の方に読んでいただけていて、とても嬉しいです。

これからもよろしくお願いいたします。

「アリーチオ!! しっかりして!!」

「アリーチオが厄呪に喰われたぞ! すぐに第一円の内側へ運べ!!」

「『臆病者』が真っ先に動くとは、これぞ汚名返上ということか……」

「我が月輪狼(ハティ)の状態はどうだ!?」


 ラッツォリ沼の周囲は騒然となった。

 ある者はアリーチオの傍へ、ある者は月輪狼(ハティ)の傍へ。何人も、何匹もの人や魔物が入り乱れてかき混ぜられるように動く。

 すぐさまに駆け寄って、ヴィルジールと共にアリーチオの身体を抱き上げたトランクィロが苦い顔をして、黒い靄に包まれたアリーチオの顔を見下ろした。


『アリーチオ、お前、なんだってあんな無茶をした、この野郎』

『へへ……なんで、でしょうね……』


 真紅の瞳に光がないままに力なく笑ったアリーチオの身体が、神術円の中心付近にそっと降ろされる。

 その黒い毛皮がじわじわと、銀色に変わっていくのが二人の目には確かに映った。ヴィルジールの毛皮の銀色とは異なる、輝かんばかりの眩しい色だ。

 だんだんと月輪狼(ハティ)に「器」を侵食されながら、アリーチオの目が僅かに細められる。


『俺にも、分かんないっす……呪いが弾けて、エリクさんに向かうのが見えて、気づいたら勝手に身体が動いてて……』

「アリーチオ……!」


 ようやく身を起こし、神術円の中心へと駆け寄った僕に、アリーチオが視線を向けた。

 肩ほどまで銀色の毛に覆われた右腕を、ゆっくりと伸ばしてくる。


「エリクさん、怪我してないっすか……?」

「え……」

『アリーチオ、お前なんで人間語(ルピア語)を……』


 僕は、ゆっくりと口を開いたアリーチオの口から、唐突に飛び出した人間語(ルピア語)に目を見開いた。

 僕の後方から駆け寄ってきたイヴァノエも、同じように驚きを露にしている。

 アリーチオはこれまでベスティア語しか話せなかったはずだ。人間語(ルピア語)を練習していた様子も一切ない。それなのにこの流暢な人間語(ルピア)はどうだ。

 ここに来てようやくアリーチオ自身も、自分の異常を悟ったらしい。ぼんやりとしていた眼に僅かに光が点る。

 そうして自身の、肘までが銀色へと変色した自身の腕を、まじまじと見つめて困惑の声を漏らした。


「え……? 俺、なんで……あれ、腕もなんか……俺、いや、()、あれ?」

「やべぇ、予想以上に「器」の変容が早いぞ、厄呪のやつかなり月輪狼(ハティ)から掠め取りやがったな!

 エリク、すぐに、今すぐにだ!! アリーチオが呪われる(・・・・)前に厄呪を神の力で引き剥がして封じ込めろ!!」

「っ、はい!」


 傍で話を聞いていたトランクィロが焦燥を露にした。既にかなり、アリーチオの身体に、自我に厄呪が影響を及ぼしている。

 ここで呪いをどうにかできなかったら、次に苦しむのはアリーチオだ。それだけは避けないとならない。

 僕は黒い靄を押しのけるようにして、アリーチオの身体に両手を押し当てて神の力を流し込んだ。迅速に、かつ丁寧に。

 さぁっとアリーチオの体表を緑色の光が走る。そうして僅かに宙に浮かんだ黒い靄を、神の力で包み込むようにして一纏めに抑え込んだ。

 神の力に囲まれた黒い靄はしばし暴れていたが、やがて動きが大人しくなった。靄を剥がすと、アリーチオの眩い銀色の毛並みが、未だ黒い色をした頭や手、足先と対比してより一層鮮やかに見える。

 厄呪の動きが落ち着いたのを見て、トランクィロが長く大きく息を吐いた。


「ハァ……よーしいいぞ、そのまま力を流し続けろ。厄呪を包み込んで、漏らさないように、だ。いいな?」

「はいっ!」


 僕は両腕を高く上げて神の力で出来た袋の口を押えるようにしながら頷いた。

 そして月輪狼(ハティ)の方に向かっていたルドウィグがこちらにやって来て、僕の肩を叩きながら告げる。


「感謝しますトランクィロ殿、後はエリク殿とわし達でもう一度無力化を行いましょう」

「よろしく頼みます、守護者様。ヴィルジール、お前もあっちに行ってやれ。

 さてとアリーチオ、多少は楽になったな?」


 トランクィロに頭を下げられたルドウィグが、厄呪を抑え込んだままの僕とヴィルジールを伴い背中を向けたのを確認すると、トランクィロは地面に横たわったままのアリーチオの顔を見下ろした。

 真紅の瞳は困惑と混乱に満ち、銀色の毛並みは既に首を過ぎて下顎にまで迫っている。胸元や肩には、月輪狼(ハティ)の持つ青い紋様も出来始めている。

 そのアリーチオの目をまっすぐと見て、トランクィロは彼に問いかけた。


「念のために問うておく。お前の名はなんだ(・・・・・・・・)?」


 その問いかけに、トランクィロの後方でイヴァノエが目を大きく見開いた。

 無理もない、つい先程に「アリーチオ」と問いかけたばかりなのだ、この父親は。

 だがしかし、問われた当の本人は困惑顔である。何度か目線を泳がせながら、銀色の占める面積が大きくなりつつある口を開いた。


「名前……?俺の名前は……アリーチオ、いや、違う……違うけれど、私の名前、特になかったような……?」

「……そうか。もう一つ聞こう。お前のアニキは(・・・・・・・)どこにいる(・・・・・)?」


 刻一刻と姿を変えていくアリーチオをじっと見たまま、再び問いかけるトランクィロ。

 寝そべったままのアリーチオは僅かに顔を傾けた。その視線が、トランクィロの後方に立つイヴァノエを捉える。


「アニキ……あれ、お兄ちゃん、私の傍にいつもいるはずなのに……あれ、でもアニキ、そこにいて……?」

『何言ってんだアリーチオ! 俺は、お前のアニキは、ここにいるだろ!?

 親父……どういうことだよ!? アリーチオはどうなっちまったんだ!? この身体はどういうことだ!?』


 既に指先まで銀色の毛皮で覆われ、手の甲には青い紋様が浮かぶアリーチオの手が、ゆっくりとイヴァノエへ伸ばされる。

 その手を前足でぎゅっと掴みながら、イヴァノエはアリーチオに必死で声をかけた。普段は強気な彼の藍色の瞳が、今は悲しみと困惑の色に染まっている。

 アリーチオの手を握ったまま、混乱を露にして振り返る息子の肩に、トランクィロはそっと手を置いた。


『イヴァノエ、落ち着いて聞け。

 アリーチオは、あそこに横たわっている月輪狼(ハティ)と、「()が混ざって(・・・・・)変容しちまったんだ(・・・・・・・・・)

『な……っ』


 イヴァノエの瞳が、キュッと小さく収縮した。普段は見えない白目が大きく目の中に現れる。

 手を置いたまま、トランクィロは冷静に、静かに言葉を続けていく。


『この神術の準備をする前、話したろ? 呪いを剥がして移し替えた時に「器」が一緒に入り込むと、移された先の「器」と融合して変容するって。

 それが今、アリーチオに起こっちまったんだ。

 本来ならば無力化された厄呪はエリクの身体に移され、万一「器」が入り込んでも俺が施した(まじな)いで守られるはずだった。

 それが厄呪の野郎、無力化の神術を破った上に、月輪狼(ハティ)から結構な量の「器」を掠め取って(まじな)いで守りを固めていないアリーチオを喰った。それと同時に、月輪狼(ハティ)から取った「器」をアリーチオに叩き込んだんだ。

 この姿を見れば分かるだろう。エリクが引き剥がせたから『夜闇の呪い(テムナェ・ノーチ)』はかかっていないが、こいつは今月輪狼(ハティ)なりかけている(・・・・・・・)。自我も二人のそれが混ざっている状態だろう』

『そんな……嘘だろ、アリーチオ!? お前は俺とエリクと一緒に山の外に行くんだろ!? ずっと一緒にいるって言っただろ!?』

『アニキ……アニキ? あれ、私は貴方を知っている……でも私は……』


 イヴァノエが涙を目にいっぱい溜めて振り返った時には、もう既にアリーチオの全身は銀色で覆われていた。耳の先から、尻尾の先まで、全てだ。

 目から溢れ出した涙が、ぱたぱたとアリーチオの顔に落ちる。自分の顔をまっすぐ見つめて、自分の手をぐっと握りながら涙を零す大イタチ(ギガントウィーゼル)を、銀色の狼人(ウルフマン)は不思議そうな顔でぼんやりと見つめていた。

 僅かに目を細めて、目頭を押さえたトランクィロの後ろからそっと近づいて、僕は恐る恐る声をかけた。

 厄呪の封じ込めと無力化は無事に済んだ。僕への移し替えも既に終わって、僕の胸元には使徒の証と同じくらいの大きさの、黒い紋様が刻まれている。

 どうやら僕が神の力で包み込んで抑えた間に、だいぶ大人しくなってくれたらしい。


「王様……? アリーチオは……」

「おう、エリク……見るに、厄呪の無力化は一段落付いたか。月輪狼(ハティ)の方は、どうだった?」

「それが、「器」がかなり削られて、存在自体がかなり不安定で……今、リュシールが(ループ)の一体に月輪狼(ハティ)の「器」を移し替えています。

 厄呪の無力化と、僕への移し替えは、もう終わりました」

「分かった……エリク、お前はアリーチオの傍についてやれ。お前の伴魔(・・)だからな。俺は守護者様のサポートに行ってくる」


 立ち上がったトランクィロが僕の肩をぽんと叩くと、そのまま僕の後方、月輪狼(ハティ)のいる方へと駆けていく。

 僕はイヴァノエの反対側に回り込んでから、アリーチオの顔を覗き込んだ。

 全身を銀色の毛皮に覆われ、青い紋様が毛皮に浮かぶアリーチオは、もう殆ど月輪狼(ハティ)と化していた。

 瞳の色と、狼人(ウルフマン)と同じ二足歩行である以外は、面影が全然ない。どことなく、胸元も膨らみを持っているように見えた。


「アリーチオ……しっかりして……!」

「使徒様……私、いや、俺は……俺……」


 辺りを彷徨っていたアリーチオの視線が、僕の瞳をまっすぐ見つめ返した。

 イヴァノエの掴んでいた腕の反対側、地面に横たわったままになっている腕を取り上げて、その手をぎゅっと握る。


「嫌だ……アリーチオがいなくなるなんて、嫌だよ……! しっかりしてよ……!」

「えへ、俺、エリクさんにそんなに思ってもらえて、こそばゆいっす……なんでだろ……

 エリクさんに手、握ってもらってると、すごく、嬉しい……あったかい気持ちになるっすね……」


 僕に握られたままのアリーチオのその手に、僅かに力が篭もった。軽く、本当に軽くだが、僕の手を確かに握り返してくれた。

 何でだろう、アリーチオは確かにここにいるのに、ここにいて僕の手を握ってくれているのに、その存在がひどく儚いものに感じられる。

 アリーチオを挟んで僕の反対側に立つイヴァノエが、ズッと鼻をすすって口を開いた。


『……おい、アリーチオ。お前、エリクと共伴契約(・・・・)を結んだことは、覚えているか?』

『共伴契約……?』

『そうだ。ずっと一緒にいるって、共に生きるって繋がりを表した契約だ。

 俺もお前も、エリクと共伴契約を結んで伴魔になっている……まぁ、エリクに結んだ意識は無いかもしんねーけどよ』

「どういうこと……?」


 アリーチオに語り掛けるイヴァノエの言葉に、僕は思わず目を見開いた。

 共伴契約、聞いたことはある。調教士(テイマー)の人達が、連れ添う魔物と結ぶ契約のことだ。

 人間と契約を結んだ魔物は「伴魔」と呼ばれ、人間と心を通わせることが出来るようになり、共に生き、助け合い、力を合わせて戦っていくことになる。

 他国だと調教士(テイマー)と伴魔に上下関係があったり、行動を縛るような契約になっていたりするそうだが、ラコルデール王国では魔物の権利もしっかりと保護されているため、調教士(テイマー)と伴魔は対等で、家族や友人と同じような立ち位置になっている。

 しかし、確かに僕とイヴァノエとアリーチオは友人というか、兄弟と言ってもおかしくない関係になっているけれど、いつの間に契約を結んだというのだろう。

 全く記憶にない僕に、イヴァノエは自分の胸をトントンと指で叩いた。


『共伴契約を結ぶ時ってのは本来、長ったらしい契約文言と専用の儀式がいるんだよ、畜生め。

 エリクは獣種の魔物相手ならそういうのも不要って訳なんだが、それはまぁ、今はいい。

 たとえお前が覚えていなかろうが、お前がアリーチオじゃなくなって(・・・・・)いようが、契約は確かにその身体の中にある。

 お前、自分の中にエリクを感じるか(・・・・)?』

『エリク……使徒様を……?』


 イヴァノエに問いかけられて、しばし視線を宙に彷徨わせたアリーチオだったが。

 急に大きく目を見開くと、がばっとその上半身を起こした。

 そのまま、その赤い瞳からボロボロと、大粒の涙が零れだす。


『おい、どうした!?』

『分からない……なんで、なんでなんだろう……使徒様の存在を、確かに私の中に感じる……そう思うと、なんでだろう、涙が止まらなくて……

 毛皮が黒く染まってから、毎日毎日、暗くて痛くて苦しくて、それも使徒様に会ったら治してもらえるんだって頑張って、ようやく会えて……もう苦しくないんだって思ったら、私の中にも使徒様がいて……

 羨ましい、羨ましいな、アリーチオ……初めて会った、使徒様のお友達……こんなに使徒様と仲良くなっていて……』

「アリーチオ……うっ、ふぐっ……」


 自身の両手を見つめるようにしながら、はらはらと涙を流すアリーチオ。

 すっかり女性的な身体つきになった彼――いや、彼女に、僕はひしりと抱き着いた。

 それまでのアリーチオとは異なる、柔らかで、包み込むような弾力が僕の腕と頬に伝わってくる。それを思うと、僕も涙が止まらなかった。

 肩に回した僕の手に、そっと、彼女が手を触れてくる。肉球の無い手の表面は細かな毛が生えていて、とても温かく、気持ちのいいものだった。


「あったかい……私と使徒様は繋がっている、触れあっているとより一層、強く感じる……」

「うぅっ、うぅぅぅぅ……!」

「使徒様……大丈夫ですよ、アリーチオはちゃんと、ここ(・・)にいますから……」


 抱き着いたまま、呻くように泣く僕の肩にそっと両手を回し、彼女は僕を優しく抱きしめた。

 近くでそれを目にしていたイヴァノエも、顔を俯かせて小さく鳴き声を漏らしている。

 そのイヴァノエの後ろから、静かに、静かに地面を踏んで、トランクィロがこちらに近づいてきた。


「残された方の月輪狼(ハティ)の、(ループ)への固着は無事完了だ……控えていた(ループ)全員の魔力のほとんどを使っちまったがな。

 そっちも、安定したみたいだな」

「はい……ご迷惑をおかけしました、呪術士様」


 こちらに優しげな、しかしそれでいて悲しげな視線を向けるトランクィロに、彼女は小さく頭を下げた。

 その隣で彼女に抱き着いたままの僕は、縋るようにトランクィロへと声を上げる。


「王様……僕にはわかりません。今ここにいる彼女は、どっち(・・・)なんですか?」

「……いや、それは、俺には説明することが出来ない。お前から話してやれ」

「……はい」


 目を伏せるトランクィロに促された彼女は、一つ返事を返すと、まっすぐ僕へと顔を向けた。ゆっくりと僕の手に手をかけると、距離を取らせる。

 僕を抱いていた手を放し、僕の髪を優しく撫でながら、噛み含めるようにゆっくりと話し始めた。


「私は、月輪狼(ハティ)でも、狼人(ウルフマン)でもありません……神獣と人型の魔物が混ざり合った、謂わば、『神獣人』と呼ぶべき存在です。

 生物学的な性別は雌……名前は、ありません。

 私の中に、確かにアリーチオは存在していますし、彼の記憶も引き継いでいますが、ベースとなる人格は、月輪狼(ハティ)の私のものです。

 そしてアリーチオと使徒様……エリク・ダヴィド様との間に結ばれた共伴契約は、未だ私の中で有効です。

 私は使徒様と共に生き、共に笑い、共に泣く、名の無い一人の伴魔……私は私を、そう結論付けます」


 彼女はそこまで話すと、僕の髪を撫でる手を下ろして正座するように両手を膝の上に置いた。

 その手が、ぎゅっと握りしめられる。小さく震えているのも見えた。まるで僕の反応を恐れるように。不安がるように。

 そして僕は、涙が流れ続けるのも厭わないままに、再び彼女を抱き締めた。強く、強く。もう離すことの無いよう、との想いも込めて。


「分かりました……よく、分かりました。

 彼女はもうアリーチオじゃない、でも、僕の伴魔で、友達で、家族です。そこだけは、彼女が誰であろうと、絶対……絶対、変わりません」

「……ありがとうございます、使徒様。

 あ……それとも、彼に倣ってエリク様とお呼びした方がいいでしょうか。エリクさんだと、少々、おこがましいような……」

「好きにすると、いいんじゃないかな……また、仲良くしていこうよ」

「はい、よろしく、お願いします……エリクさん」


 彼女が小さく微笑みながら、再び僕の身体へと手を回す。

 そうして僕達はぎゅっと抱き締め合った。(アリーチオ)との別れと、彼女との出逢いを噛み締めるように。

 ふと前方を見ると、日輪狼(スコル)が僕の方に歩み寄ってくるのが見えた。傍らには(ループ)と同じくらいのサイズの、白銀の毛皮を持つ(ループ)が寄り添っている。


「そちらも落ち着いたか、小僧」

日輪狼(スコル)……月輪狼(ハティ)も、立ち上がれるようになりましたか」

「うむ。体躯はかなり縮み、能力の相当を失った上に、記憶を失った赤子のような状態だが、な。

 我が隣にいるこの仔犬のような小娘が、我が月輪狼(ハティ)であることに相違はない」


 そう言いながら傍らに立つ月輪狼(ハティ)を一舐めした日輪狼(スコル)は、僕と抱き合ったままの『彼女(・・)』に視線を向ける。

 後ろを振り返った彼女を見つめるその金色の瞳は、とても穏やかで、慈愛に満ちていた。


「我が月輪狼(ハティ)の記憶を継ぐ者よ。神獣の権能を宿す、神と獣と人の狭間に立つ者よ。

 何者でもないお前は、最早我に縛られる必要もない。お前はお前の思うが儘、小僧の傍らで生きていくがいいだろう。

 ……3年(3ムート)もの間、よく頑張ったな」

「ありがとう、お兄ちゃん……いえ、失礼しました。もう日輪狼(スコル)様は、私の兄では、ないですものね」


 僕から手を放して、まっすぐと日輪狼(スコル)に身体を向けた彼女は、大きく頭を下げた。

 これまで共に寄り添い、共に生き、自身の為に力を尽くしてくれた日輪狼(スコル)。その彼との別れを惜しむように、深く、深く。

 僕から彼女の手と肌が離れたことを確認したイヴァノエが、涙を拭いつつ僕の肩をポンと叩いた。その顔には確かに、笑みと僅かの悲しみが浮かんでいる。


『万事が万事、めでたしめでたしとはいかなかったけど、よ。これで一件落着だな、エリク?』

「うん、そうだね……あ、ところでさ。君の名前、何て呼べばいい? 月輪狼(ハティ)とは呼べないし、アリーチオでもないし」

「名前、ですか? 数百年ずっと名付けられずに生きてきましたので、突然問われてもどうすればよいのか……

 私はエリクさんの伴魔ですから、エリクさんの呼びたいように名付けてください。ルピア語でも、ベスティア語でも」

「お前たちは家族になるわけだからな。皆でじっくり、納得いくまで考えてやるといいさ……」

『名前か……数百年、名前など要らぬと思っていたが、我らも何か考えるか?我が月輪狼(ハティ)よ』


 ミオレーツ山のラッツォリ沼の周囲で、それぞれの会話は尽きぬまま。

 弓のように細い、朔手前の月が、幽かな光を湛えたままに、中天から僕達を静かに、静かに見下ろしていた。




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